力道山②「ハロルド坂田」
ケンカを売った相手が、
もしもプロレスラーだったら。
力士を廃業した力道山は荒れた。
酒に溺れ、毎晩殴り合いのケンカを繰り返した。
ある日力道山は
GHQが招いた日系人プロレスラー、
ハロルド坂田に返り討ちにあう。
しかし力道山の素質を見抜いた坂田は、
彼をプロレスに誘った。
力道山の心の中は負けた屈辱感よりも、
生きる道を見つけた喜びでいっぱいだったと言う。
力道山②「ハロルド坂田」
ケンカを売った相手が、
もしもプロレスラーだったら。
力士を廃業した力道山は荒れた。
酒に溺れ、毎晩殴り合いのケンカを繰り返した。
ある日力道山は
GHQが招いた日系人プロレスラー、
ハロルド坂田に返り討ちにあう。
しかし力道山の素質を見抜いた坂田は、
彼をプロレスに誘った。
力道山の心の中は負けた屈辱感よりも、
生きる道を見つけた喜びでいっぱいだったと言う。
力道山③「空手チョップ」
もっと思い切り叩け
そう言って力道山は子供たちに、
木槌で自分の手を叩かせた。
硬くなった掌と怪力自慢の張り手。
相撲時代の得意技をプロレスに応用したのが、
トレードマークの「空手チョップ」だ。
厳しい修行を終え、
アメリカ巡業に出かけた力道山は、
その必殺技で勝利の山を築く。
260戦中、負けたのはわずか5回。
しかし最大の収穫は、
プロモーターの資格を手に入れたこと。
彼はアメリカのレスラーを
日本に呼べるようになった。
力道山はプロレスラーであると同時に、
有能なビジネスマンでもあった。
力道山④「シャープ兄弟」
その夜、新橋駅は異様な空気に満ちていた。
2万もの人々が集まって、
一台の街頭テレビを見つめている。
1954年2月、日本初のプロレス国際試合の生中継。
日本代表は相撲出身の力道山と柔道王木村政彦。
対するアメリカ代表は、
世界タッグチャンピオンのシャープ兄弟。
まず小柄な木村がシャープ弟に痛めつけられると
怒った力道山が空手チョップで反撃。
見かねて助けにきた兄もそのまま返り討ちにする。
2m近いアメリカ人を
日本人がコテンパンにやっつける。
敗戦のコンプレックスを抱えた人々に
その姿は大いにウケた。
肉弾戦なら日本は負けなかった。
そんなことを言う者までいた。
派手な投げ技。場外乱闘。タッグマッチ。
相撲とも柔道とも違う面白さ。
プロレスは一夜にしてブームになり、
テレビの急速な普及に大きく貢献した。
日本戦は視聴率がとれる。
力道山の読みは今も当たり続けている。
力道山⑤「昭和の巌流島」
柔道王木村政彦は怒っていた。
全日本柔道選手権13年連続優勝、
木村の前に木村なく、木村の後に木村なし
と謳われた自分が力道山の引き立て役に甘んじている。
彼は朝日新聞に「真剣勝負なら負けない」と語った。
1954年12月22日、日本プロレス選手権。
通称「昭和の巌流島」と言われた戦いで、
二人は決着をつけることになった。
結果は力道山の完勝。
木村は気絶し、マットは血に染まった。
しかし当時の映像を見ると、
木村はどこか油断しているように見える。
それもそのはず。試合は事前の了解で
引き分けに終わる予定だったのだ。
互いに勝ち負けを繰り返して巡業を盛り上げ、
多額の収益をあげる、はずだった。
力道山はなぜ裏切ったのか。
プロレスは八百長だという噂を払拭し、
名実ともに頂点に立つためか。
それとも真剣勝負では敵わないと思ったのか。
真相は未だプロレス史最大の謎である。
力道山⑥「ビジネスマン・リキ」
力道山は有能な実業家だった。
独学で英語をマスターし、
外国人レスラーとの交渉は全て自分で行った。
大相撲における国技館のような場所が欲しいと、
現在の複合施設の先駆けとなる
日本初のプロレスホール、
通称「リキパレス」も建設した。
その後もプロレスで得た資金を元に、
高級マンション、レジャーランド、
ゴルフ場、マリンリゾートなど、
時代を先取りした数々の事業に乗り出した。
そこには、
国境も過去も関係なく
どこでもヒーローとしての役割を
果たせるようになりたい
そしていつか
日本と祖国の架け橋になりたい
そんな願いがあった。
力道山⑦「最後の酒」
「日本国、力道山様」
そう書くだけで
本人に手紙が届く時代があった。
どこへ行っても常に
国民的英雄でいなければならない。
重圧のあまり力道山は酒に溺れた。
ある日のこと。大相撲協会から
初の海外巡業に参加して欲しいと頼まれた。
かつて自分に冷たくした奴らが頭を下げている。
久々に上機嫌で酒を飲んだその夜、
力道山はナイフで腹を刺された。
きっかけは足を踏んだ踏まないの、
本当につまらないケンカだった。
49年前の今日、「日本プロレス界の父」
力道山は39歳の若さでこの世を去った。
戦後最大のジャパニーズドリームを体現し、
天皇の次に有名な男
と呼ばれた男の悲しすぎる最期だった。
007シリーズ50周年① イアン・フレミング
ケンカが強くて頭脳明晰。
女性にモテモテなイケメンスパイが、
秘密道具とスーパーカーで世界を救う。
男なら誰もが一度は憧れる男。
007ことジェームズ・ボンド。
この荒唐無稽なスーパーヒーローは、
原作者イアン・フレミングが
第二次大戦中にイギリス情報部で監視していた
実在のスパイを元に作られた。
彼が007シリーズを書き始めたのは、
自身の結婚式前夜のこと。
43歳にして初婚という
恐怖心への解毒剤
だったと言う。
007シリーズ50周年② ショーン・コネリー
初めての仕事は牛乳配達だった。
やがて男は世界を救うヒーローになった。
世界最長の映画シリーズ「007」。
初代ジェームズ・ボンド、
ショーン・コネリーの人生は、
その華麗な役柄とは正反対だった。
貧しい家に生まれ、中学卒業と同時に就職。
第1作「ドクターノオ」で
ボンド役に抜擢されたのは1962年のこと。
様々な職を転々とした後、
32歳で初めてつかんだチャンスだった。
頭髪が寂しくなりかけたこの無名の新人を見て、
原作者イアン・フレミングは猛反対したと言う。
それから半世紀。
彼を超えるボンドはまだ出ていない。
johanoomen
007シリーズ50周年③ ジョージ・レーゼンビー
世界最長の映画シリーズ「007」。
その最大のピンチは第6作「女王陛下の007」で訪れた。
マンネリに飽きたとショーン・コネリーが役を降りたのだ。
二代目ジェームズ・ボンドは、
オーストラリア出身のモデル、ジョージ・レーゼンビー。
演技の経験はなかったが、
軍で格闘技の教官だった経験を買われての起用だった。
スター気取りになった彼はギャラの上乗せを要求、
断られるとたった一作で降板した。後に彼は、
若さゆえの未熟さ、傲慢さが自分にはあった。
あの時私は、輝かしいチャンスと
失われていくチャンスを同時に目の当たりにした。
と語っている。
数々のトラブルにも関わらず、
「女王陛下の007」はシリーズ屈指の名作になった。
理由はボンドが初めて恋に落ち結婚する
素敵なラブストーリーであること。
そして最高に悲しくて
切ないエンディングを迎える作品であるからだ。
007シリーズ50周年④ ロジャー・ムーア
ジェームズ・ボンドのピンチを救ったのは、
別のジェームズ・ボンドだった。
3代目007、ロジャー・ムーアは、
持ち前のユーモラスな演技で前任者のゴタゴタを一掃。
第8作「死ぬのは奴らだ」以降、
歴代最多の7作品でボンドを演じ、
シリーズの長寿化に貢献した。
ユーモアのないサディスティックな
バイオレンス映画なんて考えたくもない代物さ。
荒唐無稽なキャラクターを茶化すような彼の演技は、
007を暴力的なアクション映画から
家族そろって楽しめる娯楽大作に変えた。
コミカルなボンドが人気を博した理由。
それは国際社会で次第に発言力を失っていく、
イギリスの悲哀の裏返しであった。
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