佐藤理人

佐藤理人 12年9月22日放送



ニューヨーク・デパートストーリーズ⑦
「ロード・アンド・テイラー」

アメリカで最も古いデパートは、
初めて女性が社長になったデパートでもある。

ドロシー・シェイヴァーがニューヨークの老舗
『ロード・アンド・テイラー』の社長になったのは、
第二次大戦直後の1945年。

彼女はカジュアルでありながらエレガントな

 アメリカンルック

という流行を生み出した。

それは正にドロシーのような女性が、
社会に進出していくのにピッタリの服であった。

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佐藤理人 12年8月11日放送


Chris Gionet
~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学①「ピニンファリーナ」

2012年7月3日、
世界最高のカーデザイナーがこの世を去った。

イタリア随一のデザイン工房
「ピニンファリーナ」の二代目、
セルジオ・ピニンファリーナ。

創業者である父から
工房を受け継いだ彼は、
そのデザイン哲学をさらに押し進め、
フェラーリなど数々の名車を世に送り出した。

イタリア、トリノにある
ピニンファリーナ本社に飾られた
父バティスタの肖像には
こんな言葉が刻まれている。

 イタリアンスタイル。
 それはバランスの美しさとシンプルさ、
 そして線の調和である。

 その美しさは時代を超えて生き続け、
 決して記憶の中にだけ
 留まるものであってはならない。

ピニンファリーナは、
車を単なる移動の手段から、
科学と美の融合体にまで昇華させた。


rnair
~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学②「フィオラバンティ」

スーパーカー時代のフェラーリをデザインした男、
レオナルド・フィオラバンティ。

 スポーツカーは速くなければならない。

彼にとってデザインとは、
すなわち「速さ」であった。

エンジンは車体の中央にあるべきだと考えた彼は、
社長にそのことを進言。しかし答えはノー。

すると彼は内緒で試作車を制作、
強引に承認をもらう。

このデザインがもたらす速さによって、
フェラーリは現在の地位を築くことができた。

デザインとはときどき「闘い」でもある。


Charles01
~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学③「ジウジアーロ」

カーデザイナー、
ジョルジェット・ジウジアーロは
デザイン画を描いたことがない。

アイデアを頭の中で育てると、
紙には立体図で表現した。
実現不可能なデザインを描いても
意味がないからだ。

彼は言う。

 デザインを進化させるには、
 人との出会いを大切にし、
 いい関係を築き上げること。
 絵が描けるだけじゃダメなのさ。

彼は常にエンジニアとの対話を重視した。

面白いことを思いつくのは誰でもできる。
それを実現させてこそ、
真のアイデアと言えるのだ。


DryHeatPanzer
~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学④「ガンディーニ」

 世間をアッと言わせること。
 頭にはそれしかなかったよ。

そう語るのは、
史上最も有名なスーパーカー、
ランボルギーニカウンタックの生みの親、
マルチェロ・ガンディーニ。

デザインにあたって制約は何もなかった。
マーケティングも多数決もなし。
誰にも邪魔されず、車への情熱を、
自由に形にできる環境がそこにはあった。

デザインが純粋だったからこそ
カウンタックは、
遠い日本の子供たちの
純粋な心を虜にできたのだと思う。


Alexxsandro
~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学⑤「ベルトーネ」

車づくりにおいて、
エンジニアだけが大事にされた時代に、
デザイナーの必要性を理解していた男、
ヌッチオ・ベルトーネ。

ジウジアーロとガンディーニの師でもある
彼について、妻シニョーラはこう述べる。

 彼は自分の車作りについて
 若い子に惜しみなく教えたわ。
 自分のDNAが受け継がれてこそ、
 本物になれるとわかっていたのよ。

天才を育てるのも、また天才である。



~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学⑥「ブーレイ」

伝統工芸とハイテク。
一見正反対な日本の職人技術の結晶。

それらを生かすことこそ、
欧米の真似ではない
日本車づくりの鍵である。

そう語るのは
元三菱自動車デザイン本部長、
オリビエ・ブーレイ。

彼は言う。

 水の中を泳ぐ魚は、
 自分が水中にいることを知らないし、
 その水がきれいかどうかもわからない。

自分しか知らない自分らしさがあるなら、
他人しか知らない自分らしさもきっとある。

いや、もしかすると、
そっちのほうが
本当の自分かもしれない。


Brian Digital
~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学⑦「中村史郎」

 デザインはスピーチだ。
 明確にスパッと述べるのがかっこいい。

そう語るのは日産のデザイン本部長、中村史郎。

細身のスーツに身を包み、
メガネからシャツ、ネクタイ、
靴下、靴に至るまで、色合わせも完璧。

ベストドレッサー賞も受賞した彼が、
車のデザインで最も大切にするもの。
それは、統一感。

家族にはどこか共通点があるように。
生み出されるすべての車にも、
作り手の想いが
貫かれていなければならない。

だからこそ、と彼は言う。

 人に興味を持つこと。
 感情、文化、社会の動きを理解すること。
 それが愛されるデザインをする上で一番大切。
 キレイな形を作るだけではダメなんです。

どんなにいいスピーチも、
聴く人の気持ちを考えて話さなければ、
心には響かない。

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佐藤理人 12年7月28日放送


ymorimo
旅が教えてくれたこと 「岡本太郎の東北」

優れた民俗学者としての顔も持つ画家、岡本太郎。
近代化で失われた日本人らしさを探しに、
彼は東北へ旅立った。

なまはげ。鹿(しし)踊り。
太鼓に合わせ獣となって踊る姿に、
彼は小躍りしてシャッターを切った。

 どうも私は人間よりも動物の方にひかれるらしい
 今日の人間があんまり温帯植物のように、
 無気力に見えるせいだろう

太郎はそこに、芸術に求めた
人間のエネルギーの爆発を見た。

爆発する芸術は、
爆発する人生から生まれるのか。


Vince Millett
旅が教えてくれたこと 「向田邦子のモロッコ」

日本語にはない色や景色や音を求めて、
作家向田邦子はモロッコへ旅だった。

女性が一人でアフリカを旅することは決して楽なことではない。
中でも食いしん坊の向田にとって最も辛かったのが食事だ。

食べられるのはほとんどなく、特に羊の肉は苦手だった。
しかしやがて、

 顔をそむけ、鼻をつまむようにして通った
 羊横町を面白いと思うようになった
 汚いと見えたものが、生き生きとうつるようになった

と、積極的に挑戦し始める。

世界は頭より、
胃袋で理解した方が早いようだ。


New Perspective
旅が教えてくれたこと 「チャトウィンのパタゴニア」

20世紀を代表する紀行文学、
ブルース・チャトウィンの「パタゴニア」。

しかし普通の紀行文とは違い、
彼自身のことはほとんど書かれていない。

幻の共和国の王になろうとした男など
旅の途中で聞いた不思議なエピソードが、
パッチワークのように綴られる。
時間や場所を飛び越えた構成は、
チャトウィンの旅そのもの。

彼は言う。

 つきまとう虹に追いかけられて
 諸国を流浪する女神官のように僕は移動し続ける
 でも、僕に虹はついてこない

旅の本当の目的地は、
旅の途中にあるという。


Jose Pires
旅が教えてくれたこと 「ル・コルビュジエのギリシャ」

近代建築の父、ル・コルビュジエ。
彼は23歳のとき、
古典建築をめぐる半年間の旅に出た。

この旅は後に「東方への旅」という本にまとめられた。
そこには才能ある建築家の卵の興奮が、
生き生きとしたスケッチと率直な言葉で綴られている。
印象的なのが、
ギリシャのパルテノン神殿を訪れたときの記述だ。

巨大な柱が整然と並ぶ空間の美しさに、
若きコルビュジエは圧倒された。
無言のスケッチからは、彼の静かな感動が伝わってくる。

感極まった彼は一言、

 おお!光!大理石!モノクローム!

とだけ記した。この旅を経てコルビュジエは、
当時の流行だった装飾華美な建築と決別。
「家は住むための機械である」と唱え、
現代建築の基礎を築いた。

過去には、未来が隠れていたりする。



旅が教えてくれたこと 「ロバート・キャパのベトナム」

 俺の血がベトナムに従軍するのを止められないんだよ

戦場カメラマン、ロバート・キャパはベトナム戦争に旅だった。

滞在先のハノイで、彼はあるシーンをフィルムにおさめる。
道路を横断する少年少女たちと、
彼らのために車をとめるフランス軍人。

平和に潜む暴力。
それこそがベトナム戦争の本質だと、キャパは気づいた。
そして、その罠にキャパもかかってしまう。

1954年5月25日、
取材の移動中に地雷を踏み、彼は帰らぬ人となる。

彼が学んだ教訓を、
人類は今も探し続けている。



旅が教えてくれたこと 「ブコウスキーのドイツ」

社会から取り残された者を優しく詠んだ
酔いどれ詩人チャールズ・ブコウスキー。

故郷のドイツで朗読会を開いたとき、
彼は人生初の体験をする。
聴衆の拍手喝采を浴びたのだ。

 私はすっかり酔いがさめてしまい、
 もっと飲まなければならなくなった。

ステージに取り残された
ひねくれ者のブコウスキー。

世界中どこにいても変わらないのが、
「本当の自分」というやつらしい。


Poetografie
旅が教えてくれたこと 「チェ・ゲバラのボリビア」

アルゼンチンの裕福な家に生まれた
エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナにとって、
医者は自然な人生の選択だった。

ベネズエラで医者になろう。そう決めて旅だった彼は、
ボリビアで革命政権と保守派の争いを目にする。

医者か、革命家か。ゲバラの心は揺れた。

そんなある日「グアテマラに行かないか?」と誘われた。
革命のためにともに戦おうというのだ。
そのひと言にゲバラは飛びついた。

 もともと心の奥底で考えていたことで、
 僕自身が決心するのに、この一押しが欲しかったのだ

日記に彼はそう記している。
そして運命の1955年7月7日。彼は一人の男と出会う。

フィデル・カストロ。一目で互いを気にいった二人は
その後、キューバ革命政権を樹立する。

旅はときに、自分への小さな革命になる。

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佐藤理人 12年6月9日放送



ブルース・リーの1秒

 考えるな。感じろ。

映画「燃えよドラゴン」のこの台詞で有名な、
アクションスター、ブルース・リー。

「アチョー!」という雄叫びと共に
ナイフのような肉体から繰り出される技の数々。
ブルッと動いたかと思うと、
次の瞬間、もう相手は吹っ飛んでいる。

そのスピードは余りに速すぎて、
通常の1秒24コマのフィルムでは
何が起きたのかほとんどわからなかった。

そのため闘いのシーンだけは
コマ数の多い特別なフィルムで撮影し、
手足の動きが少しでも見えるよう
編集し直さなければならなかったという。

実際のリーの技は、映画より遥かに速かった。
そこにはたゆまぬ自己鍛錬に裏打ちされた
本物の強さがあった。



サルバドール・ダリの時計

1931年のある夜。一人の画家が、
夕食に出たカマンベールチーズを見つめていた。
溶けゆくチーズを見ていると突然、

 スーパーソフト

という概念がその心を強烈に捉えた。
2時間後、その画家の最も有名な絵が完成した。

 記憶の固執

と名付けられたその絵には、
チーズのように溶けて垂れ下がった
不思議な時計が描かれていた。

男の名はシュルレアリスムの巨匠、
サルバドール・ダリ。

彼は言う。

 柔らかな時計は自らの遺伝子の巨大な分子である。
 舌平目の肉のように
 機械的な時間という鮫に飲み込まれる運命なのだ。

溶けていく時計….
人の記憶のなかの時間は
これほど曖昧で儚いものなのか。


jef safi
アンリ・ベルクソンの5分

 5分とは何か?

5分とは、時計の長い針が30度動く時間のこと、と
答えるのは簡単だけれど

 私たちが時計で測っているものは、
 果たして本当の時間と言えるのか。

ノーベル賞を受賞したフランスの哲学者、
アンリ・ベルクソンは考えた。

時計の針が実際に測っているのは、
30度という「空間の角度」にすぎない。

では、時間とは何か?

彼は言う。

 本当の時間は決して測ることができない。
 それは混沌と絡み合った「意識の流れ」なのだ。

「時間」を見ることができない三次元の世界で
「時間」についての議論はいまも多い。



「柳沢教授の腹時計」

 腹時計は頭のなかにあった。

古来ヒトには、
お腹の空き具合で時間を計る、
体内時計が備わっているとされてきた。

しかしテキサス大学の
柳沢正史教授の研究によると、
食欲はお腹ではなく、
脳のある部分が司っているらしい。

食事の時間になると、
脳のその部分が食欲のスイッチを
自動的にオンにするというのだ。

夜中の間食がなかなかやめられない、
という人は、自分の腹時計の針を、
合わせ直してみるといいかもしれない。


claris
シンディ・ローパーのタイム・アフター・タイム

 目の前に人が倒れていたら、あなたは助ける?
 それとも踏みつけて行く?

2011年3月11日の東日本大震災の直後、そう言って、
ツアーのために来日したアーティスト、シンディ・ローパー。

他の海外ミュージシャンが日本公演を中止して帰国、
または来日をキャンセルする中、予定通りコンサートを行った。
更に会場で募金を呼び掛け、コンサートをチャリティイベントにした。

彼女の初の全米ナンバー1ソングにして、
マイルス・デイビスなど数多くのアーティストにカバーされ続ける名曲

 タイム・アフター・タイム

その歌詞にこんな一節がある。

 もしあなたが迷子になっても
 あなたにはきっと見える 私を見つけられる
 何度だって
もしあなたが倒れても 
 私が受け止めるわ あなたを待っているの

 いつもずっと

ツアーを終えて日本を離れる時、
シンディはインタビューでこう話した。

 人生にはいろんなことが起こるけど、
 それで壊れちゃうわけじゃない。
 逆に強くなれる。たくましくなる。
 新しいことを発見していける。

本当に強い人だけが、優しい歌をうたえるのかもしれない。



H.G.ウェルズのタイムマシン

もしも時間を旅することができたら、
過去と未来、どちらに行きますか?

SFの父、H.G.ウェルズが書いた小説「タイムマシン」。
主人公が選んだのは80万年後の未来だった。

そこは富裕階級の末裔が労働者階級の末裔に
食料として貪り喰われる恐ろしい世界。
ウェルズは今から100年以上も前に、
貧富の格差の行く末を案じていた。

「宇宙戦争」では白人のアジア侵略を批判し、
「解放された世界」では原爆の恐怖を予見したウェルズ。
彼の小説には常に社会への鋭い問題提起があった。

 我々の真の国籍は、人類である。

そう語るウェルズ自身が、
もしかしたら未来から警告に来た
タイムトラベラーだったのかもしれない。



ゾウの時間、ネズミの時間、ニンゲンの時間

時は万物に平等だ、という。

しかしベストセラー「ゾウの時間・ネズミの時間」の著者、
東工大の本川達雄教授の意見は違う。

 全ての動物には固有の時間の流れがあり、
 その速度は体のサイズに比例する

というのだ。

たとえばゾウはネズミに比べて遥かに長い寿命を持つが、
一回の鼓動にかかる時間はネズミよりずっと遅い。
ところが一生分の心拍数を計算すると、
不思議なことにどちらも約20億回になる。
結果、一生を生き切った「命の密度」は、
ゾウもネズミも変わらないのではないか。

つまり、ネズミの一生は短く儚いのではなく、
ゾウに比べて熱く激しく全速力で生きているということ。

この法則をニンゲンに当てはめると、なんとわずか26年。
縄文人の平均寿命とほぼ同じになる。

医学、食生活、住居の発達により、現代人の寿命は80歳までのびた。
30年弱という本来の寿命から考えると、残りの50年はほぼ余生、
生物学的に言うと「おまけ」の時間だとさえ言える。

本川教授は言う。

 「おまけ」の部分は、ある意味では自分自身で設計して生きられる、
 やりたいようにやれる自由な時間と言えるかもしれない。

今日からでも遅くない。ゾウのように長く、
ネズミのように激しく生きてみるのはいかがでしょう。

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佐藤理人 12年5月12日放送



ミニ① 特命

1956年、スエズ動乱が勃発すると、
ヨーロッパに深刻な石油危機が広まった。
特にイギリスではガソリンの価格が高騰、
配給制度が敷かれた。

そんなある日。
当時イギリス最大の自動車メーカー
BMCの設計者アレック・イシゴニスは、
会長直々に特命を受けた。

燃費が良く経済的な
4人乗りの小型車を早急に開発せよ。

車体はできるだけ小さく、でも室内は広く。
この無理難題を解決するためにイシゴニスがまずしたこと。
それは常識を捨てることだった。

彼は部品の一つ一つまで全く新しい視点で考え直し、
革命的な車を作り上げた。

イギリスの国民的名車「ミニ」は、
石油不足という大きな制約が生んだ
小さなヒーローだった。



ミニ② 数学

数学が苦手でも、
カーエンジニアの夢をあきらめる必要はない。

イギリスが生んだ世界的名車「ミニ」。

その設計者アレック・イシゴニスは数学が大の苦手だった。
大学のテストで3度も落第しているほどだ。
彼は数学を

すべての創造的な天才たちの敵

と呼んで毛嫌いした。

ミニのあの愛くるしいデザインは、
実はカーデザイナーの手によるものではない。

イシゴニス自身が、
リゾート地のホテルでジンを飲みながら
ナプキンに手描きしたものだ。

車のコンセプトと構造を熟知した
設計者自身の手によるデザインは、
機能に直結した合理性に富むもので、
そのまま生産できるほどの完成度の高さだった。


hashmil
ミニ③ 文化

誰にでも手が届く経済的なファミリーカー。
そんなコンセプトで生まれたイギリスの名車「ミニ」。

その斬新で機能的なスタイルに真っ先に飛びついたのは、
庶民ではなく、新しモノ好きなセレブだった。

例えばビートルズ。
元々はアビイロードスタジオの駐車場が狭いために選んだ車だったが、
その愛くるしい個性にメンバーはみな一目ぼれしてしまった。
ジョン・レノンは免許を取る前にミニを購入し、
リンゴ・スターはミニ・クーパーを愛用し、
ジョージ・ハリスンは車体にオリジナルで
サイケデリック模様のペイントまで施した。

ミュージシャンでは他にデビット・ボウイ、エリック・クラプトン。
ファッションデザイナーのポール・スミス。
俳優のスティーブ・マックイーン。
そして女王エリザベス二世。
当時世界で最もクールなセレブ達が、
自分の個性を表現する手段としてミニを選んだ。

もはやミニは単なる大衆車ではなかった。
大きくて強いことこそ正義とされた当時の価値観に対抗する
カウンターカルチャーの象徴だった。

それは奇しくも
ミニが生まれた1962年に、
イギリスのファッションデザイナー
マリー・クワントが発明した

「ミニ」スカート

と同じことだった。



ミニ④ 勝負

フェラーリのレーシングカーなどを製作し、
現在のF1カーの基礎を築いた男、ジョン・クーパー。

1960年代はじめ、彼は市販車レースに夢中になった。
しかしレーシングカーと市販車のレースでは、
求められる性能も走るコースも何もかも勝手が違う。
レーシングカー製作者に贈られる最高の賞を
2年連続で受賞した彼もなかなか勝利をつかめずにいた。

ある日のこと。
クーパーは友人の設計者アレック・イシゴニスに
ミニの試作車を見せられた。
その驚異的な性能をすぐさま見抜いたクーパーは、
イシゴニスと共同で機敏で燃費がよく、
しかも安価な車を製作した。
そうしてできたのが、今やミニの代名詞ともなった車、

ミニ・クーパー

である。

そして1964年。
クーパーは早速、世界最古の自動車レースであり、
世界三大レースの一つでもあるモンテカルロ・ラリーに参戦。
険しい山道、凍結した路面、そして雪という
最悪のコンディションにもかかわらずいきなり優勝を飾った。

続く1965年、67年にも優勝。
ポルシェやアルファロメオなど大パワーのライバルたちを打ち破り、
世界で最も権威のあるレースで3回も勝ち星をあげたミニ。

この勝利は「速さにはパワーが必要」という
それまでのモータースポーツの常識も打ち破った。



ミニ⑤ 映画

イギリスが生んだ歴史的名車「ミニ」。
その活躍は日常やレースの世界に留まらなかった。

1969年に公開された

The Italian Job

邦題「ミニミニ大作戦」という映画で、
ミニはついに映画初「主演」を果たす。

強盗団がマフィアから金塊を奪って逃げる
という何ともB級な話だが、カーアクションはA級だ。

狭く入り組んだトリノの街を
縦横無尽に駆け回る三台のミニ。

階段、下水道、屋根など
走れるところはどこでも走り、
ビルからビルへジャンプする。
ジャガーなど超のつく高級車たちを、
軽々と手玉にとるその姿は実に痛快だ。

それは小さくて軽くて、しかも速い、
ミニならではの名演技だった。


J Mark Dodds a shadow of my future self
ミニ⑥ 時代

うまくいっているなら、何も変えるな。
うまくいかなくなるまで続けろ。

設計者アレック・イシゴニスの言葉通り、
1959年の発売当時とほぼ同じ姿のまま、
今も世界中で愛され続ける車「ミニ」。

その生産が終了したのは2000年10月のこと。
世界中で高まる衝突安全性と排出ガスの基準を
もはや満たすことができなくなったのだ。

40年の間に、
ミニより先に世界が変わってしまった。


Okko Pyykkö
ミニ⑦ 長寿

20世紀最高の名車を決める
「カー・オブ・ザ・センチュリー」で
2位に輝いたイギリスの世界的名車「ミニ」。

ある日、
イタリアが生んだ世界最高のカーデザイナー、
ピニンファリーナが、
ミニの設計者アレック・イシゴニスに尋ねた。

いつになったら
あなたの車をデザインさせてもらえますか?

イシゴニスは答えた。

デザインなど2年もすれば流行遅れになるものだ。
でも私の車は、私が死んだ後も流行っているだろう。

事実、ミニは2000年10月の生産終了まで、
40年もの長い間世界中で愛され続けた。
その数、実に530万台。

1988年に亡くなったイシゴニスより
12年も長生きだった。

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佐藤理人 12年4月28日放送


aimeeorleans
スティーブ・マックイーンとカースタント「一枚の写真」

まだ映画にCGがなかった時代の話。

一人の映画監督が
ある危険なシーンのスタントを引き受けてくれる
命知らずのスタントマンを探していた。
主演の俳優に相談してみると、

ちょっと高いが、いいスタントマンがいる

と言う。監督が

高いのは仕方がない。紹介してくれるかい?

と頼むと、俳優は監督に一枚の写真を手渡した。

写っていたのはその俳優
スティーブ・マックイーン本人だった。


Podknox
スティーブ・マックイーンとカースタント「ブリット」

映画史上最高のカーチェイスは何か。

アンケートの答はいつも同じ。スティーブ・マックイーンの「ブリット」だ。

咆えるエンジン。きしむタイヤ。巻きあがる白煙。
サンフランシスコ市街の急斜面を舞台に、
宙を舞い、坂を駆け下り、互いにぶつかり合いながら
猛スピードでチェイスする二台の車。

最高時速160kmにも達したこの危険なアクションを、
マックイーンはスタントなしで演じきった。

それまでのカーチェイスといえば、
ハンドルを握った俳優を背景に合成するだけだった時代。
この映像は評論家の度肝を抜き、

観客は11分もの間、
自分の内蔵を地下室のどこかに置き忘れてしまう。

と絶賛された。


washako16
スティーブ・マックイーンとカースタント「目覚め」

1934年3月24日。
4歳の誕生日を迎えたスティーブ・マックイーンは、
母ジュリアから素敵なプレゼントをもらった。

ぴかぴかの赤い三輪車。

幼いスティーブ少年は父がいない寂しさを紛らわすために、
来る日も来る日も近所の子供たちとキャンディを賭けて競争した。
そして大抵一等をとった。後に彼は語る。

あれがレース熱の始まりだった。

中学生になると彼は町の不良グループに入り、
改造車での違法レースに明け暮れるようになる。

そして1944年、警察の世話になりすぎた彼は、
ついに少年院に入れられてしまう。

しかしそのときスティーブは14歳にして既に、
強力な改造車を作る凄腕のエンジニアになっていた。


Tsuru1111
スティーブ・マックイーンとカースタント「大脱走」

史上最高の映画スターの一人、スティーブ・マックイーン。
その人気を決定付けたのは、戦争映画の傑作「大脱走」だった。

この映画は第二次世界大戦下のドイツで実際にあった
250人の捕虜脱走計画を描いたものだが、
登場人物が多すぎて脚本は混迷を極めていた。

6人の作家が11通りの脚本を考えてもストーリーはまとまらず、
マックイーンが撮影現場に着いても役さえ決まらない有様だった。

役が決まらないことに怒り、
一時は撮影をボイコットしようとしたマックイーン。
しかしあることを条件に出演を承諾する。

それは、

バイクの腕前を披露させること。

ドイツ兵のオートバイを奪い疾走する脱走シーン。
そして高さ3.6mの有刺鉄線を時速100kmで飛び越えるクライマックス。
映画史に残るこの名場面は、実はマックイーンのアイデアだ。

逃走シーンでは見事なバイクの腕前を披露したマックイーンだが、
肝心のジャンプシーンだけは自ら演じることができなかった。
どうしても保険会社の許可が下りなかったのだ。

実際にジャンプしたのはマックイーンのレース仲間で、
スタントを一緒に考えたバド・イーキンスだった。

ちなみにマックイーンをバイクで追うドイツ兵のスタントも
マックイーンが演じていることは意外と知られていない。


BikoBikoBiko
スティーブ・マックイーンとカースタント「栄光のル・マン①」

「大脱走」のヒットにも関わらず
俳優スティーブ・マックイーンは憂鬱だった。
次の作品としてふさわしい脚本になかなか出合えなかったのだ。

失望から逃れるように彼はモータースポーツにのめりこんだ。
そのために6本もの出演依頼を断るほどだった。

結婚を続けるなら自分との時間を作って欲しい。
妻に頼まれてもその決意は揺るがなかった。

ある日マックイーンは「ル・マン24時間レース」を観戦する。
観衆の大歓声、エンジンの轟音、時速400kmを超えるスピード。
これこそ自分が求めていたものだ。彼は新聞記者に語った。

今までにないとびきり最高のレース映画を作るんだ!

そうしてできたのが、
史上最高のレース映画「栄光のル・マン」である。


MonthouPhoto
スティーブ・マックイーンとカースタント「栄光のル・マン②」

これまでのレース映画につきものの
よくあるまやかしは避けたいと思っている。
レースは美しいスポーツ。私はそれを正しく映画化したい。

映画「栄光のル・マン」を作るにあたり、
スティーブ・マックイーンがどうしても譲れなかったもの。
それは本物のレースのリアリティだった。

ハリウッドのレース映画の大半はスターに吹き替えを使っている。
私はその世話にはなりたくない。

スタントには現役のレーシングドライバーを起用。
自分が乗るポルシェにももちろんスタントは使わなかった。

さらに実際のル・マンにも車に撮影用カメラを積みこんで参戦。
レースをこなしながら撮影を行った上、
9位でゴールするという度を越えた熱の入れようであった。

しかし、観客に強く訴えるストーリーが必要という監督と、
レースそのものを描きたいマックイーンの間に確執が生じ、
監督は途中降板することになってしまう。

その監督とは、あの「大脱走」を撮ったジョン・スタージェス。
「栄光のル・マン」について彼は

途方もないジョーク、800万ドルをかけたマックイーンのホームムービー

と酷評。マックイーン自身は、

私は自分の持っている全て、キャリア、金、結婚、人生を投げ出した。

と語る、文字通り全てを賭けた映画だったが、
結果はスタージェスの予想通り大失敗に終わった。



スティーブ・マックイーンとカースタント「栄光のル・マン③」

ル・マン24時間レースを描いた映画「栄光のル・マン」。
そのカースタントを全て自分でやることについて、
プレイボーイ誌の記者がスティーブ・マックイーンに尋ねた。

確かにヘルメットをかぶって車を運転しているのはあなたです。
でも車の中にいるのが誰か分かる人なんていないでしょう?

マックイーンは答えた。

観客が分かってくれるさ。
もっと大事なのは、私自身わかっているということだ。
問題はありのままに、ごまかさずに演じるってことなのさ。

映画は本国アメリカでは大惨敗であった。
しかしここ日本では大ヒットを記録。

映画公開の2年後には、
日本人チームが実際にル・マンに初参戦を果たし、
日本のル・マン熱の火付け役となった。

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佐藤理人 12年3月24日放送


filtran
サム・ペキンパーという男

次々と仲間が銃弾に倒れゆく中、
なぜか主人公にだけは当たらない。

そんなハリウッドのご都合主義は、
この男には通用しない。
性別も、肌の色も、宗教も関係なく
銃弾の雨は全ての人に平等に降り注ぐ。

暴力描写のリアルさに徹底してこだわった
バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパー。

俺は暴力の研究家だ。
なぜって、
人間の心の研究家だからな。

その残酷な作風から人は彼を

Bloody Sam(血まみれのサム)

と呼んだ。



サム・ペキンパーの「正義」

正義の反対は悪じゃない。
もうひとつの正義だ。

暴力に魅せられた男
サム・ペキンパーの映画に
勧善懲悪は存在しない。

主人公はいつもお尋ね者か犯罪者すれすれの、
陽の当らない場所で生きる男たち。
彼らが自らの正義のため暴力に訴える、
その瞬間をサムは生涯描き続けた。

しかし彼自身は意外なことに
絶対的な正義を重んじるはずの法律家一族に生まれた。

父、祖父、兄、叔父が弁護士または判事
という家庭だったため、
食事時の話題はいつも裁判のことばかり。

世の中には単純な真実など存在しない。

大人たちの話を聞きながら幼いサムは、
人を裁く難しさ、判決の曖昧さ、
何より人間の不完全さを常に意識しながら育った。


jrmyst
サム・ペキンパーの「スローモーション」

極度の危険に直面すると、人は一瞬を永遠に感じることがある。

バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパー。
高校卒業後、海兵隊に入隊した彼は第二次世界大戦で中国に渡る。
ある日、目の前で一人の荷役夫が狙撃兵に撃ち殺された。

人生で最も長く感じた瞬間だった

と語るこの体験が、彼の最高傑作と言われる「ワイルドバンチ」を生んだ。

たった四人で二百人を超すメキシコ政府軍に挑むラスト。
映画史に残るこの大銃撃シーンは、
スピードの異なる6台のカメラを使い11日間ぶっ通しで撮影された。
カット数は、実に当時最多の3624カットを記録。

時にゆっくり、時にスピーディに。
スローモーションに膨大なカットを組み合わせた緩急溢れる映像に、
観客の目はスクリーンに文字通り釘付けになった。

セリフは一切なく、聴こえるのはマシンガンとライフルの轟音のみ。
銃弾に肉を切り裂かれ、容赦なく崩れ落ちる人、人、人。
敵も味方も、女性も子供も老人もない。
凄惨でありつつどこか美しいその映像は

死のバレエ

と呼ばれた。
たった4分ほどのそのシーンは、まるで永遠に続くかのようだった。

ダイナミックに時間を操るこの独特の撮影技法は
彼のトレードマークとなっただけでなく、
その後のアクション映画における新境地を切り拓いた。


SESC São Paulo
サム・ペキンパーの「スタッフ」

CGもワイヤーアクションもない時代。
知恵と執念でアクション映画の新しい地平を切り拓いた男、
サム・ペキンパー。

予算もスケジュールも構わず作品を追求する
完璧主義の矛先は、スタッフにも向けられた。
その映画に関わる全員に

映画を生きる

ことを求め、電気工であっても脚本を読み理解するよう命じた。
気に食わないスタッフは次々とクビにする一方、
自分が認めた人間には無条件に愛情を注いだ。

映画「ケーブル・ホーグのバラード」はペキンパー自身

自分のベスト・フィルムだ

と納得する出来栄えだったが、
その傍若無人な振る舞いがマスコミから批判を浴びてしまう。

窮地に立たされたペキンパーを守るため、
スタッフは新聞に彼を擁護する広告を載せたという。


Jean-Pierre Lavoie
サム・ペキンパーの「アメリカ」

滅びゆく西部の男たちを哀切のこもった目で描き

最後の西部劇監督

と呼ばれた男、サム・ペキンパー。

彼の映画はヨーロッパや日本では人気があったものの、
本国アメリカではいま一つだった。

西部劇という題材が古臭かったわけではない。
彼の描く暴力がハリウッド映画にありがちな
偽物ではなかったからだ。

彼は暴力のもつ醜さや汚さを赤裸々に描いた。
華麗な拳銃さばきも超人的なアクションもない。
ヒーローも悪人もおらず、
死が女性も子供も特別扱いしない世界。

人間は動物になりえる。悪は存在する。
そして世界におけるアメリカの地位は、
その悪の存在に負うところが大きい。

ペキンパーが描いたものは、
当時アメリカ軍が世界で行っていたことそのものであった。



サム・ペキンパーの「ヒット」

たとえ主人公が悪人でも、キャラクターが魅力的なら観客は声援を送る。

しかし他人の命を顧みず、目的のために手段を選ばない価値観に、
70年代のハリウッドはいい顔をしなかった。
「明日に向かって撃て」「俺たちに明日はない」
犯人には常に無残なアンハッピーエンドが用意されていた。

「ゲッタウェイ」

バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパーは、
犯罪小説の巨匠ジム・トンプソンの原作を西部劇の現代版として制作。
ギャング映画にも関わらずハッピーエンドを用意した。

主演、スティーブ・マックイーン。
当時世界最高のスターがそんな反社会的な役を演じることも話題となった。

リアリティにこだわるペキンパーらしく、
ストーリー順に撮影するという効率の悪い方法を敢えて選択。
オープニングのシーンでは、本物の刑務所を使用する熱の入れようだった。

しかしヒットさせたい映画会社は、最終編集権をマックイーンに委ねる。
音楽もイメージに合わないとして、
急遽クインシー・ジョーンズに替えられてしまった。
完成版を見たペキンパーは

これは俺の映画じゃない!

と叫んだ。
だが「ゲッタウェイ」は世界中で大ヒットを記録。
ペキンパーの最も有名な作品となった。
おかげで彼は初めて映画会社からボーナスをもらうことができた。

もらった金はすべてスタッフに分け前として配ったという。


SESC São Paulo
サム・ペキンパーの「DNA」

ペキンパーは同じ映画を14本も撮った

と言われるほど自らの人生観を
スクリーンに色濃く叩きつけた映画監督サム・ペキンパー。

バイオレンス映画の原点にして頂点
と言える作品を生み出す一方、
プロデューサーや出演者と衝突を繰り返し、
扱いづらい監督として冷遇され続けた。

ストレスと孤独を酒と麻薬で紛らわしたツケは、
確実に彼の内蔵を蝕んでいた。

遺作「バイオレントサタデー」は、
肺の感染症と闘いながら酸素マスクを付けて撮影された。

1984年12月28日。
映画の完成後、最後の西部劇監督は心不全でこの世を去った。

彼の革命的な映像表現は、
クエンティン・タランティーノたちが作る
現代のアクション映画に今も色濃く生きつづけている。

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佐藤理人 12年1月21日放送


rknickme
ジェームズ・ブラウンの『少年時代』

子ども時代の貧しさをバネに、成功をつかむスターは多い。
中でもこの男ほど「たたき上げ」と呼ぶのに
ふさわしい人物はいない。

掘立小屋で生まれ、母親はすぐに家出。
父親はいつも仕事でおらず、暮らしは食べるので精一杯。
唯一の友だちは父親が買ってくれたハーモニカだけ。
孤独のあまり、父親が聴いていたブルースを吹いたのが、

 ゴッドファーザー・オブ・ソウル

後に「ソウルの帝王」と呼ばれる
ジェームズ・ブラウンが音楽に目覚めた瞬間だった。

しかし幼いジェームズにとって、
ブルースは決して好きな音楽ではなかった。
一人ぼっちで夜を過ごす子どもにブルースは、
その名の通りあまりに悲しすぎる音楽だったのだ。



ジェームズ・ブラウンの『キング牧師』

ソウルの帝王、ジェームズ・ブラウン。
60年代、彼は公民権運動を支持し、
マーティン・ルーサー・キング牧師と親交を深めた。

1968年4月4日、キング牧師が暗殺され、
全米各地で暴動が起きると、
ジェームズはすぐに自分のラジオ局から、

 平静を保つことでキング牧師の名誉を称えよう

とメッセージを流し続けた。

翌日ボストンで予定されているコンサートもあえて敢行。
その模様をテレビで生中継して、人々を外出させないようにした。

キング牧師を称え、

暴力に訴えることは彼の魂を救うことにならない

と人々に自制を求めたこのコンサートは何度も再放送され、
結果ボストンでは一度も暴動が起きなかったという。


Heinrich Klaffs
ジェームズ・ブラウンの『仕事術』

 The hardest working man in showbusiness.

ショービジネス界一の働き者といえば、
ソウルの帝王、ジェームズ・ブラウンだ。

遅刻を認めず、演奏でミスをしたら罰金をとるなど、
最高のステージをつくるためにメンバーに妥協は一切許さなかった。
その容赦なさにメンバーとは常に諍いが絶えなかったという。

1970年のそんなある日、事件は起きた。
ギャラのアップを求めてメンバー全員がストライキを始めたのだ。

ライブ当日にも関わらず要求を撤回せず、
演奏準備を始めようとしないメンバーたち。
怒ったジェームズはその場で全員をクビにしてしまった。

しかしコンサートを中止するわけにはいかない。
無名の若手バンドを急きょ自家用ジェットで呼び寄せ、
どうにかコンサートは開催された。

そんな彼らとジェームズが初めて作った曲が、
ファンクの歴史的名曲「Sex Machine」になることは、
このとき誰も想像しなかったに違いない。

転んでもただでは起きないのが、帝王の帝王たるゆえんなのである。


Erik K Veland
ジェームズ・ブラウンの『東京』

2006年3月4日、東京国際フォーラム。
そのステージにジェームズ・ブラウンは立っていた。

ソウルの帝王と呼ばれた男もすでに73歳。
一年前には前立腺癌の手術をしたばかり。
正真正銘、病み上がりの老人だった。

癌を公表したときジェームズは、

 人生で多くのことを克服してきた。
癌も同様に乗りこえてみせる。

と語った。
そしてその言葉が嘘ではないことを彼は証明してみせた。

ミラーボール1個だけのシンプルなステージに、
ピンクの衣装を着て現れたジェームズ。
それから2時間。
彼は一度も止まることなく歌い、踊り、動きつづけた。
緻密で流れるようなそのステージを掌握しているのは、
まぎれもなく生きる伝説本人だった。


Heinrich Klaffs
ジェームズ・ブラウンの『命日』

 力がなければ自由は手に入らない。
 そして、自由がなければ創れない。

そう語ったソウルの帝王、ジェームズ・ブラウン。
貧困や差別と闘い、ライバルや時代の流れとも闘いながら、
自らの才能と努力で自由を掴んだ男。

マイケル・ジャクソンやプリンスに師と崇められる一方で、
度重なる暴力事件、麻薬所持、警官とのカーチェイスなどで
有罪判決を受けたことは数知れず。

そんな彼も、病魔には勝てなかった。

2006年12月25日、
才能と狂気が服を着て歩いている男、
ジェームズ・ブラウンは心不全で
その73年の破天荒な人生に幕を閉じた。

決して信心深かったとは思えない彼だが、
その命日は偶然にもキリストが生まれた日であった。


jbspec7
クリス・バングルの『Z8』

映画「007」シリーズでジェームズ・ボンドが乗る車、
通称「ボンドカー」はどれも超高級車でありながら、
いつも無残に大破する。

中でもシリーズ第19作
「ワールドイズノットイナフ」で使われたBMWのZ8は悲惨だった。
大型チェーンソーで真っ二つにされてしまうのだ。

そのZ8をデザインしたのが、
BMWのデザイン責任者を18年間務めたクリス・バングルだ。

その奇抜なデザインは大きな物議を醸し、
バングルはBMWを潰すために
メルセデスが差し向けた刺客ではないか、
と言いだす者さえ現れた。

しかし彼のデザインは爆発的な成功を収め、 
彼自身も世界3大カーデザイナーの一人
という最高の評価を手に入れる。

多くの批判にさらされながらも、
決して意見を曲げることのなかったバングル。
彼は自らのデザイン哲学をこう述べる。

いくらよく走るBMWでもその生涯の80%は停止している。
だから車は、そのものとして美しくなければならない。

そんな彼にとって「完璧」と思えた車が、
あの真っ二つにされたZ8であったのは何とも皮肉な話だ。


Jaidn
ブライアン・メイの『レッドスペシャル』

世界的ロックバンド、クイーン。

そのサウンドの特徴である
クラシックのようなギターオーケストレーションは、
実はたった1本の手作りギターでできていた。

 レッドスペシャル

という名のそのギターは、
ギタリストのブライアン・メイが
100年以上前の暖炉の木で作ったもの。

彼はそのギターを100回以上重ねて録音し、
あの荘厳な音を生み出した。

アルバムには

 No synths

シンセサイザーは使っていない
と誇らしげに書かれている。

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佐藤理人 11年12月10日放送



ランス・アームストロングの『母』

 病気で死ぬこととレースで負けることは、
 私にとっては同じことだ。

そう言って癌を克服した後、
世界最大の自転車レース『ツール・ド・フランス』で
前人未到の7連覇を成し遂げた男がいる。

ランス・アームストロング。

その不屈の精神を養ったのは、
幼い頃母に言われたこんな一言だった。

  あらゆるマイナスをプラスに変えなさい。
  昔の傷や屈辱は張り合うエネルギーの元になる。

この世で一番大切な人の名を聞かれると、
彼は真っ先に母の名を挙げるという。



ランス・アームストロングの『癌』

癌を乗り越え、『ツール・ド・フランス』で
史上初の7連覇を成し遂げた男、ランス・アームストロング。

病魔が彼を襲ったのは弱冠25歳の時。
当時彼は世界ランクで1位を獲得し将来を大いに期待されていた。

しかし医師が下した診断は残酷だった。
病名は精巣腫瘍。既に肺と脳にも転移しており、生存確率は50%。

ベッドの上でランスは毎日自分に問い続けた。

  もし生き残れるとしたら、
自分は一体どんな人間になりたいのか。

そして彼は過酷な化学療法と脳の手術を受け、
プロの自転車選手として生き続ける道を選んだ。

復帰後、彼は

癌は僕の人生に起こった最良のことだ。

と語った。

主治医が後に語ったところによると、
彼の生存確率は実はたったの3%だったという。



ランス・アームストロングの『山道』

癌から生還し、世界で最も過酷な自転車レース
『ツール・ド・フランス』で史上最多の7冠に輝く男、
ランス・アームストロング。

彼が特に強さを発揮したのは山道のコースだった。
従来の重いギアをゆっくり踏む走り方とは正反対の、
軽いギアでペダルの回転数を上げる走法で、
ランスは2位とのタイム差を積極的に広げた。

後にこの走り方は、
エネルギー効率や筋肉への負担軽減の点で優れていることが証明されたが、
彼の強さの秘密は、何と言っても癌との闘病で得た強靭な精神力だった。

闘病生活を振り返って、彼は言う。

僕には自分の人生全体が見えた。それは単純なことだった。
僕の人生は長くつらい上り坂を上るためにある。



タッカーの『アメリカンドリーム』

1945年、春。
第二次世界大戦の勝利を目前に控え、
アメリカのルーズベルト大統領はある決断をした。

増えすぎた国内の軍需工場を、
既存の大メーカーではなく中小企業に貸し出すというのだ。

どんな大企業も最初は無名の人物によって始まった。
  自由競争こそアメリカンドリームである。

ルーズベルトはそう考えた。

ミシガン州出身のカーデザイナー、
プレストン・トマス・タッカーもその恩恵に預かった一人だ。
かつては爆撃機のエンジンを製造していた
シカゴにある世界最大の工場を借りた彼には、

  理想のクルマを人々に提供したい。

という夢があった。

数年後、彼の夢は、当時の常識では考えられないほど画期的で、
時代を遥かに先取りしたクルマとして実を結ぶことになる。



タッカーの『トーピード』

1948年、ミシガン州出身のカーデザイナー、
プレストン・トマス・タッカーが作ったクルマは世間の度肝を抜いた。

未来的なデザイン、3つのヘッドライトによる安全性の確保、
アメリカ初の後輪駆動がもたらす運転性の向上など、
全てが当時の水準では考えられないほど先進的であった。
彼はそのクルマを「トーピード‐魚雷‐」と名付けた。

トーピードは発表されるや否や大反響を呼び、多くの問い合わせが殺到した。

しかしその出現を脅威に感じた、
フォード、GM、クライスラーのビッグ3は露骨な妨害工作を開始。
タッカーはありもしないクルマを売りつけたとして、
詐欺罪をでっち上げられ告訴されてしまう。

被告人となったタッカーは、裁判の最終弁論で訴えた。

  もし大企業が斬新な発想を持った個人を潰したなら、
  進歩の道を閉ざしたばかりか自由という理念を破壊することになる。
  こういう理不尽を許せば、いつか我々は世界のナンバーワンから落ち、
  敗戦国から工業製品を買うことになるだろう。

翌年、タッカーは無罪を勝ち取ったが、会社は倒産。
トーピードはわずか51台しか生産されず、幻の名車となってしまった。

しかしそのうちの47台が今も現役で走り続けていることは、
タッカーの先見性がいかに高かったかを証明している。

最終弁論でタッカーがした予言は、
やがて日本車とドイツ車の台頭により現実のものとなった。



ミッキー・ロークの『レスラー』

80年代、セックスシンボルの名を欲しいままにした俳優ミッキー・ローク。
しかしその後は薬物中毒や整形手術の失敗などゴシップばかり。
キャリアも私生活も、ルックスまで失った彼のもとに、
ある日一本の脚本が届いた。

50を過ぎても現役を続けるかつての人気レスラー、ランディ。
家族には見放され、長年の無理とドラッグで体はぼろぼろ。
心臓発作を起こし、医者から廃業を勧告される。命の危険がある、と。
引退して私生活を立て直そうと試みるランディ。しかしうまくいかない。

やがて彼は自分にはプロレスしかないことを悟り、
命と引き換えにかつての輝きを取り戻そうとする。

まるで自分の人生のような話に、ロークの心は昂ぶった。
もしこの仕事をしくじったら、
オレは俳優としても、人間としても終わってしまう。
10数年ぶりのチャンスに、ロークは死に物狂いでくらいついた。
夜遊びもきっぱりやめ、数か月に及ぶ厳しいトレーニングにも耐え抜いた。

結果、この映画「レスラー」はベネチア映画祭で最高賞を獲得、
ローク自身もアカデミー主演男優賞にノミネートされる快挙となった。

映画のラストでランディは

  あそこが俺の居場所だ。

と呟き心臓をおさえながらコーナーポストから跳ぶ。
果たして彼は死んだのか。それは誰にもわからない。

しかしロークは再びリングに舞い戻り、見事甦った。



AC/DCの『ベストアルバム』

全世界のアルバム総売上は2億枚を超え、
1980年に発表した「Back in Black」が、
マイケル・ジャクソンの「スリラー」に次いで
歴代2位の売上記録を持つ
オーストラリア出身の世界的ロックバンド、AC/DC。

40年近く第一線で活躍し続けてきた彼らだが、
意外にもまだやったことのないことがある。

ベストアルバムを出したことがないのだ。

その理由をフロントマンのギタリスト、
アンガス・ヤングに尋ねると、

  ファンが持っている曲を
もう一度買わせるようなことはしたくないし、
  アルバムそれぞれに個性があるから
それを壊すような売り方はしたくないんだ。

と、何とも律義な答が帰ってくる。

世界一のロックバンドは、世界一ファン想いでもある。

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佐藤理人 11年10月22日放送



ゴールデンラズベリー賞とハル・ベリー

最高の映画にアカデミー賞が与えられるように、
最低の映画に与えられる賞もある。それがゴールデンラズベリー賞。

2001年「チョコレート」で
アカデミー主演女優賞に輝いたハル・ベリーは、
2004年「キャットウーマン」で
ゴールデンラズベリー最低主演女優賞に選ばれた。

つまらない役を演じたスターや失敗した話題作に与えられる
この不名誉な賞のトロフィーを受取りに来る人はまずいない。

しかし彼女は違った。
授賞式では自分のアカデミー賞受賞スピーチのパロディを完璧に演じ、
さらに涙まで流してみせ観客から大喝采を浴びた。

式に来た理由を聞かれた彼女は、

 胸を張って負け犬になれない者は勝者にもなれない

と子供のときママに言われたの、と答えた。



山口百恵と三浦友和

今から約30年前のこと。
人気絶頂にして21歳の若さで芸能界から寿退職し、
日本中の話題をさらった女性がいる。

山口百恵。
13歳の時、オーディション番組で準優勝し、翌年デビュー。
普通のアイドルと違い笑顔で媚びることなく、
少女のような外見で早熟な歌をうたう彼女は、
「女性の時代」と呼ばれた時流に乗って瞬く間にトップアイドルとなった。

そんな彼女が映画の共演で知り合った俳優
三浦友和との交際を宣言したのが弱冠20歳の時。
今でこそ珍しくない芸能人の交際宣言。彼女はそのパイオニアでもあった。

二人は翌年婚約、そして結婚。
たった7年半の芸能活動にもかかわらず、彼女は人々の記憶に強烈な印象を残した。

後に自伝「蒼い時」の中で結婚の理由を彼女はこう綴った。

私は彼のためになりたかった。
外へ出ていく夫に向かって『いってらっしゃい』『おかえりなさい』
と言ってあげたかった。愛する人が安らぎを感じる場所になりたかった。

そして30年後の今。「夫婦」について夫の三浦友和はこう語る。

 よく妻や夫を空気のような存在と表現するけど、
 それはいてもいなくてもいいのではなく、
いないと死ぬという意味なんですよ。

運命の人同士を結ぶ赤い糸は、この世に確かに存在する。



奥山清行とフェラーリ

その日、カーデザイナー奥山清行は焦っていた。
フェラーリ・エンツォ。
イタリアの自動車メーカーフェラーリが
創業55周年を記念して作る車の最終プレゼンを控えていたのだ。

フェラーリにとっては21世紀最初のスーパーカーであり、
名前に創始者エンツォの名を冠したことからも窺えるように
その思い入れの強さは並大抵のものではなかった。

2年間のデザイン開発期間を経て、奥山は何度もフェラーリ社にプレゼンした。
しかし、なかなかOKは出なかった。そして、ついに最終プレゼンの日。
この日失敗すれば受注を逃すことは明らかだった。

ホンダ、GM、ポルシェと渡り歩き、
カーデザインの最高峰であるイタリアのピニンファリーナ社に
ようやく籍をおけるようになった彼にとって、
これは絶対に失敗できない正真正銘のラストチャンスであった。

しかし、無残にもプレゼンは失敗。
帰ろうとするモンテゼーモロ社長を軽食のサンドイッチで
半ば強引に15分だけ引き止めることに成功した奥山は、
その間に死に物狂いで一台のスケッチを描きあげる。
それまでの2年間、自分の中に溜まっていたものが堰を切って溢れ出てきた。

出来上がったスケッチを見て社長はこともなげにこう言った。

 やればできるじゃないか

こうして奥山清行は、イタリア人以外で初めて
フェラーリをデザインした男になった。



水野和敏と日産GT-R

2008年4月17日。
世界一過酷なサーキット、ドイツニュルブルクリンクで、
日産GT-Rは7分29秒3の市販車最速ラップを記録した。

するとポルシェがこのタイムに抗議。
市販車とは違うレース用タイヤを履いていたのではないかと言うのだ。

GT-Rの開発責任者水野和敏はこう答えた。

GT-Rはいつ誰がどんな状況で運転しても最高の性能を発揮する。

つまり市販車と違う車でテストすることは無意味だと言うのだ。
彼は言う。

 日産GT-Rというより、まさしくニッポンGT-Rなの。
 ブランドって僕はナショナリティだと思ってる。
 土地と、そこに住む人の智恵なんだよ。

GT-Rの価格はポルシェの約3分の1。
水野はポルシェを本気にさせただけでなく、
日本のものづくりの底力を全世界に示してみせた。



オードリーとジバンシー

「ローマの休日」で世界中の人気者になった
オードリー・ヘップバーン。
彼女には大きなコンプレックスがあった。

それは意外にも、外見。
子供の頃から自分の見た目に自信が持てず、
人前に出るとどうしようもなく緊張してしまったという。

彼女を変えたのが「麗しのサブリナ」の撮影で出会った
若きフランスのクチュリエ、ユベール・ド・ジバンシー。

コンプレックスである細すぎる身体を
優雅に見せてくれるこの若者を
オードリーは自分のスタイルの最良の理解者と認め、
以後二人は8本もの映画でタッグを組んだ。

ジバンシーの服についてオードリーは言う。

 彼の作った服を着ていると、守られているような気がするの。

服とは現代の鎧である。



ロバート・ダウニー・Jrとアイアンマン

アカデミー主演男優賞にノミネートされる演技力がありながら、
薬物問題で逮捕歴6回、リハビリ施設に入退院を繰返し、
拘置所から撮影所に通った逸話を持つ俳優、ロバート・ダウニー・Jr。

彼がスクリーンに還ってきたのは2003年、38歳の時のこと。
薬物とアルコールをきっぱり断ち、地道に仕事を続けた彼は、
2008年チャンスをつかむ。「アイアンマン」の主役、トニー・スタークだ。

天才科学者がテロリストに瀕死の重傷を負わされ、
自らの肉体を改造しスーパーヒーローに生まれ変わる。
そしてこんなセリフを言う。

 自分が生き残ったのには理由があるはずだ。

その姿はまるで、長年のどん底生活から見事復活を遂げた
彼自身の心の叫びのようだった。



マイケル・チミノ

映画「ディアハンター」でアカデミー賞を総なめにし、
一躍ハリウッドの寵児となった映画監督、マイケル・チミノ。

次にメガホンをとった「天国の門」は、
製作費80億、上映時間5時間半という意欲作だったが、
試写会の反応の悪さから無茶な短縮を慣行、暗いテーマも災いし、
たった一週間で打切りが決定。

史上最悪の赤字を出した映画

としてギネスブックに載ってしまった。

チミノにとって「天国の門」は、まさに地獄への入口だった。

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