中村直史

三國菜恵 14年1月26日放送


kimuchi583
はじまりの言葉 川端康成

東北・信越地方では
ことしも積雪2メートル以上の雪が降っているという。



スタッドレスタイヤを履いた車を走らせ、

寒い地域へと渡るトンネルにさしかかったときに

思い出すにうってつけの一行がある。



 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった



この川端康成の一行を胸に、真っ白な景色を見ると、

ただの移動もちょっとだけ物語をおびてくる。
そんな効果がある気がする。

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中村直史 14年1月26日放送


Lazaro Lazo
はじまりの言葉 沢木耕太郎

心配性の親たちにとって、
こんなに面倒な一冊はないだろう。
その魔力で、これまで、どれだけの数の若者たちを
世界の放浪へと旅立たせたのか。

本の名前は「深夜特急」。
沢木耕太郎が書いた旅行記のバイブルは、
こんな一文ではじまる。

 ある朝眼を覚ました時、
 これはもうぐずぐずしてはいられない、と思ってしまったのだ。

はじまったばかり、のはずの2014年も
もうひと月が過ぎようとしている。
ぐずぐずしてはいられない。
さあ、どこへ向かおう?

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三島邦彦 14年1月26日放送


Bradley Wind
はじまりの言葉 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

江戸川乱歩、黒澤明、手塚治虫、
アインシュタイン、マーラー、
そして村上春樹が愛したもの。

それは、ドストエフスキーの小説。

「罪と罰」「地下室の手記」「悪霊」。
この偉大な19世紀ロシアの作家が残した小説は
今も世界中で読まれ続けている。

そんなドストエフスキーの代表作であり
世界文学における最も重要な作品のひとつ
『カラマーゾフの兄弟』には、
「著者より」という長い序文がある。

その前口上から伝わるのは、
まぎれもない名作を書きあげた著者の興奮と、
これを読者がどう理解するかについての逡巡。
自ら混乱していることを語りながら綴られた序文はこうして終わる。

序文はこれでおしまいである。こんなもの余分だという意見にわたしは大賛成だが、
書いてしまった以上は仕方がない、そのまま残しておくことにしよう。
では、さっそく本文にとりかかる。

ドストエフスキーが自ら戸惑うほどの名作が、ここから始まる。

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三島邦彦 14年1月26日放送



はじまりの言葉 オスカー・ワイルド

『サロメ』や『幸福の王子』で知られる
アイルランドの作家、オスカー・ワイルド。
世界的な作家でありながら、
とてもアクの強い人物だったため、
その葬儀には数名しか集まらなかったという。

『ドリアングレイの肖像』の序文で、彼はこう書いた。

ある芸術作品について意見が分かれるのは、
作品が新しく、複雑で、生きていることの証しである。

友人たちとの関係を保つには、
彼は新しく、複雑すぎたのかもしれない。

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三國菜恵 14年1月26日放送


nakimusi
はじまりの言葉 阿久悠

1971年にヒットした

尾崎紀世彦の『また逢う日まで』。

この曲の作詞を手掛けた作詞家・阿久悠は

歌のなかで男女の新しい別れのかたちを

描けないかと模索していた。



当時、別れの歌といえば、

別れたら最後、二度と会うことのないかなしみを

描くばかりのものだった。



けれど、阿久は、

男と女が話し合い、納得しあって、二人で出ていく

そんな新しい別れのかたちをこの歌詞で提示できないかと考えた。

そうして生まれたのが、この一節。



 ふたりでドアをしめて

 ふたりで名前消して

 その時心は何かを話すだろう



別れてはじめて知る、始まりがある。

この新しいパターンの別れの歌は

尾崎紀世彦の朗々と力強い歌声と

晴れ晴れとしたラッパの音とともに

日本中に届けられた。

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三島邦彦 14年1月26日放送



三島邦彦 マーク・トウェイン

児童文学の名作『トム・ソーヤーの冒険』。
その8年後、作者のマーク・トウェインは続編となる
『ハックルベリー・フィンの冒険』を書きあげた。
ただし、書き上がったのは児童文学ではなく、
アメリカ文学史に輝く文学作品だった。

もはや子どもむけの物語ではない。
そのことを示すため、
トウェインは物語をこのような警告から始めた。

 警告

 この物語に主題を見出そうとする者は起訴される。
 教訓を見出そうとする者は追放される。
 筋を見出そうとする者は射殺される。

      著者の命により 兵站部長G・G

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三國菜恵 14年1月26日放送



はじまりの言葉 寺山修司

シャツの胸ポケットにおさまるサイズの

短くて、美しく、時にどきりとさせられる名言の数々を

ぎゅっと一冊に詰め込んだ本がある。

劇作家・寺山修司作『ポケットに名言を』。



彼はこの本を編さんするにあたっての動機を、

冒頭にこんな一行で書き記している。



 言葉を友人に持ちたいと思うことがある。

 それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに

 気がついたときにである。

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中村直史 14年1月26日放送



はじまりの言葉 市川中車

名門の出ならば、2歳での初舞台もある。
とすれば、44年遅れの初舞台だった。

歌舞伎役者、市川中車。
俳優名、香川照之。
2歳の時、歌舞伎役者である父が家を出てしまったため、
歌舞伎の道は閉ざされたはずだった。

自らが子どもを持って、不可能に挑むことにした。

その襲名披露。
鬼気迫る形相で行った挨拶は、こんな言葉だった。

 生涯かけて精進し、九代目を名乗らせていただく責任を
 果たしていく覚悟でございます。

無謀な挑戦かもしれない。
しかし、一歩踏みだした者にしかわからない
世界がかならず待っている。

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三島邦彦 13年12月22日放送



クリスマスに人々は 戦国のメリークリスマス

日本で初めてクリスマスが祝われたのは、室町時代の1552年。
それから14年後の1566年の日本で、クリスマスに小さな奇跡が起こった。

時は戦国。
近畿地方の覇権をめぐって
松永氏と三好氏が戦をしていた時のこと。
両軍の武士には、当時流行していたキリスト教の信者が多かった。
クリスマスイブ。
それぞれの軍のキリスト教徒たちの熱心な申し入れにより、
特別に一日限りの休戦が決まった。
彼らはこう語ったという。

自分たちは敵味方になっているが、デウスをあがめる心は同じである。

休戦を決めた彼らはともにクリスマスを祝おうと、
大急ぎで町の会合所の大広間を飾り付けた。
夜には司祭を迎えてクリスマスのミサを執り行い、
翌日の昼には各自が料理を持参して
キリストや神について語り合い、ともに聖歌を歌った。

そしてクリスマスの日が暮れるとともに
彼らは再び敵味方に分かれ、戦場へと戻って行った。

今から450年ほど前、まだキリスト教が禁止される前の日本で起きた、
戦国のメリークリスマス。

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三島邦彦 13年12月22日放送



クリスマスに人々は トーマス・マン

『ヴェニスに死す』や『魔の山』で知られる
ノーベル賞作家、トーマス・マン。
ナチスドイツからの亡命で、
ドイツの家に残した日記や手紙、資料や家財道具をすべて失ったが、
彼の才能、家族、そしてクリスマスは奪われることはなかった。
1936年12月24日の日記、
家族と過ごしたクリスマスイブについて記したその中に、
トーマス・マンはこう書いてある。

 私の人生と作品を仕上げるのに必要なものは、何ひとつ欠けていないのだ。

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