中村直史

三國菜恵 12年5月13日放送



カクテル・ストーリーズ/ヘミングウェイ

1932年、パリ。
アメリカの文豪、ヘミングウェイは
ボクシング・ジムの帰り道に、
ある行きつけのバーに立ち寄った。

ハリーズ・ニューヨーク・バー。
顔なじみの店主に対し、彼は
「運動後の気付けの一杯を」と注文した。

それを聞いたバーテンダーは、こんな一杯をさし出した。
ペルノと言うリキュールを、シャンパンで割ったカクテル。

ペルノは後悔の味がする

ヘミングウェイがいつもそう漏らしていたのを思い出し、
その後悔の味を、シャンパンで慰めてみようと考えたのだった。

このカクテルは後に、
「デス・イン・ジ・アフタヌーン」と名付けられる。
それは、ヘミングウェイが当時書きあげたばかりの作品の名前。
いかにお気に召したかが、うかがえる。

カクテル・ストーリーズ#4
「デス・イン・ジ・アフタヌーン」

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中村直史 12年5月13日放送



カクテル・ストーリーズ/開高健のブラッディマリー

氷を入れたタンブラーにウォッカを注ぎ、トマトジュースを入れる。
お好みで、コショウ、タバスコを少々。
それが「ブラッディ・マリー」の一般的なレシピ。

「血まみれのマリー」という恐ろしげな名前がついたこのカクテル。
あの開高健先生によれば、ひとりの恐妻家の男が発明したのだ、という。

夫は家で酒を飲みたいが
妻が怖いのでおおっぴらには飲めない。
そこで台所で隠れて飲むのだが
琥珀色の液体を飲んでいては
「何ウイスキー飲んでるの!」と怒鳴られる。
あぶくのたつ液体をのんでいると、
「ビールね!」とこれまた怒られる。

そこで、透明なウォッカにトマトジュースをほうりこんで
コショーだなんだと、ありあわせのものをほうりこむことで、
厳しい妻の目をごまかしたのだ、と。

カクテルは、クリエイティブなお酒。
作り手と飲む人の発想力を鍛えてくれる。

カクテル・ストーリーズ#5
「開高健のブラッディマリー」

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三島邦彦 12年5月13日放送



カクテル・ストーリーズ/フランクリン・ルーズベルト

1920年から1934年まで、
アメリカには禁酒法という法律があり、
酒好きは密造酒を飲むか
海外に行くしかなかった。

禁酒法を終わらせたのは、
合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト。

ホワイトハウスでは
仕事を終えた大統領が自らシェーカーを握り、
スタッフにドライ・マティーニを振る舞う習慣ができた。

 さあ、夜のとばりが降りた。ドライ・マティーニを飲んで童心に帰ろう。

マティーニを前にすると、人は正直になる。
その後、ソ連のスターリンにもマティーニを振る舞い、交渉を円滑に進めたという。

カクテル・ストーリーズ#6
「ドライ・マティーニ」

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中村直史 12年5月13日放送



カクテル・ストーリーズ/サマセット・モーム

シンガポール、ラッフルズホテル。
このホテルを定宿にしたのが
イギリス人作家サマセット・モーム。

とある日のこと。
ラッフルズのバーで飲んでいたモームにバーテンダーが尋ねる。

「次は何をお飲みになられますか?」
「では、この美しい景色を」

モームは窓の外に沈みゆく太陽を眺めながら答えた。
そして生まれたカクテルが、シンガポールスリング。
・・・話の真偽は定かではないけれど、
数々の逸話が生まれるのもまた、愛されるカクテルの特徴。

カクテル・ストーリーズ#7
「シンガポールスリング」

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三國菜恵 12年5月13日放送


ReeseCLloyd
カクテル・ストーリーズ/福西英三

1976年のある日、
バーテンダー協会にこんな問合わせがあった。

「ある女性デュエットを、カクテルと同じ名前で売り出したいのですが」

その電話を受けた役員、
福西英三(ふくにしえいぞう)はこんなふうに答えた。

カクテルに著作権はありません。
それよりも、デビューのご成功をお祈りします。

このひと言がなければ、
ピンク・レディーというアイドルはいなかったかもしれない。

カクテル・ストーリーズ#8
「ピンク・レディー」

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五島のはなし(176)

春の海は一気に潮が引くから、うかうかしてられない!
ぼーっとしてるとほら・・・

海に帰れなくなってしまったり。

そして、そのすきに人間たちは掘る!掘る!掘る!休んでは、また掘る!
一度掘りだすと掘るという行為の魔力にとりつかれてしまう、
潮干狩りシンドロームにあなたはかかったことがありませんか?

食べる分だけ、行けばとれる。
ずーっとそんな海だったらいいんだけどなあ。

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三島邦彦 12年4月15日放送



いつまでも素敵な女性/小篠綾子

ヒロコ、ジュンコ、ミチコ。
世界的ファッションデザイナー、
コシノ三姉妹の母、小篠綾子さん。

自らもデザイナーとして
大阪の岸和田市で
洋服屋を生涯営んだ。

これは綾子さん88歳の時の言葉。

今や私も良きライバルとして、
また良き友として、娘たちの仲間入りをして、
四姉妹のつもりで歩いていこうと思っています。

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三國菜恵 12年4月15日放送


imajou
いつまでも素敵な女性/宇野千代

今年も、山口県の岩国市に桜が咲いた。
作家・宇野千代の生家にある2本の桜。

生前、

私は幸福を撒き散らす、花咲かばあさんになりたい

と言った、宇野千代。

たしかに彼女は、
いつも春のなかを生きているような人だった。

次から次へと、恋をする。
新しい興味が、次々に湧く。
作家。編集者。着物デザイナー。
その肩書の多さは、好奇心の証し。

彼女の人生訓を、ひとことで言うと、こうなるのだという。

人生は、行動である

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三島邦彦  12年4月15日放送



いつまでも素敵な女性/ 幸田文

明治の文豪、幸田露伴はある日、
子どもたちにそれぞれ木を与え
庭で育てるよう命じた。

次女の幸田文はその庭で、
草木に強く心をよせた。

時が流れ、孫も生まれた文は、
北海道のえぞ松から
屋久島の縄文杉まで、
珍しい木が見られるとあれば
人に背負われてでも森へ山へと
分け入るようになっていた。

松やイチョウ、ヒノキにポプラ。
木の皮が織りなす模様を
美しい着物のように愛でる彼女。

今そこに生きる命として、
木の立ち姿を味わった。

これは、そんな幸田文の言葉。

いのちの詩をうたって山野にいる姿と、
いのち終えてなお美しく力ある材となった姿と、
どちらをもともにいとおしむ心情を、
若い人にもってもらいたい、と切におもう。

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三國菜恵 12年4月15日放送



いつまでも素敵な女性/ココ・シャネル

世界のファッションブランド
「シャネル」の創始者、ココ・シャネル。
彼女はデザイナーとして人生で二度、開花した。

その二度目は71歳、
誰もが引退を考える年齢になって
彼女はシャネルスーツという新しいスタイルを
世界に発表したのだ。

シンプルで動きやすい上着と膝丈のスカート
それは当時のミニスカートブームに挑戦するかのような
保守的なデザインにも見えた。

けれども、シャネルはこう考えていた。
誰もが15歳ではない、
40を過ぎてから似合うエレガンスもあるのだ、と。

その考えに賛同するかのように、
シャネルスーツは世界の女性のあこがれになり
ココ・シャネルはモード・オスカー賞を受賞した。

いくつになってもチャレンジする人は素敵だ。

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