中村直史

三國菜恵 11年11月20日放送



言葉のはじまり/ある映画の翻訳チーム

1953年公開のハリウッド映画『Terminal Station』は
恋愛映画の名作として知られている。
この作品が日本で公開になる際、
原題の雰囲気にふさわしい日本語が当時見あたらなかった。

そこで翻訳チームの面々が頭をひねって、
こんなことばをつくりだした。

Terminal Station.
“終着駅”。

映画らしい情感あふれるその言葉は、
のちに歌謡曲や小説のタイトルとしても
多く使われるようになる。



言葉のはじまり/吉田松陰

自分のことを“僕”と呼び、
相手のことを“君”と呼ぶ。

この“僕”と“君”ということばを最初に使ったのは、
松下村塾をつくった吉田松陰であると言われている。

「下僕」ということばがあるように、
“僕”は自分のことをへりくだって言う表現。

いっぽう“君”は、
「君主」ということばがあるように、相手を立てた表現。

松下村塾出身の高杉晋作は、
奇兵隊を結成した際、この考え方を導入した。
ひとりひとりがどんな身分であろうと、
自分のことを“僕”と呼び、相手を“君”と呼ぶことでお互いに敬意を表す。

武士と町人、農民が
身分にとらわれず共に戦う奇兵隊にとって
身分を超えた呼びかたはぜひとも必要なものだった。

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中村直史 11年11月20日放送



言葉のはじまり/池田菊苗

「うま味」という言葉を英語で言うと・・・?
答えは、UMAMI。
世界には、UMAMIに相当する言葉がない。
そもそも旨味という概念がなかった。
帝国大学理学部教授 池田菊苗(いけだきくなえ)が、世紀の大発見をするまでは。

いまから100年以上も前、
甘味、酸味、塩味、苦味以外に、
味覚の基本となる物質があると信じ、探し求めた池田。

日本で長らく「ダシ」として使われてきた昆布に着目し、
ある物質を分離することに成功した。
物質の名は、グルタミン酸ナトリウム。

この発見に日本中が驚いた。
けれど、池田のすばらしい仕事は、成分の発見にとどまらなかった。
それは「うま味」というネーミング。
たった3文字のこのすばらしい名前が生み出されたために
この発見は、科学界だけでなく、みんなのものとなったのだ。

わたしたちがおいしい料理に舌鼓をうつとき、
何気なく使ってる「うま味」という言葉。
そこには、味わい深いストーリーがかくされていた。

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三島邦彦 11年11月20日放送



言葉のはじまり/ 伊東忠太

建造物の造に、家と書いて、造家(ぞうか)。
明治のはじめ、今でいう建築には
この造家という言葉が使われていた。

その時代、伊東忠太(いとうちゅうた)という一人の若者がいた。
造家学の研究で博士課程を満了したエリートだったが、
ひとつだけ不満があった。
それは、造家という言葉に、美意識が感じられないこと。

画家を志したこともあった伊東にとって、
美意識は何よりも大切なものだった。
伊東は、建築という言葉にその思いを込め、
造家をすべて建築と言い換えることを訴えた。

  建築は世のいわゆる純粋芸術に属すべきものにして、
  工業芸術に属すべきものにあらざるなり。

この若き伊東の宣言は、大きな波紋を生み、
学会や大学の学科の名前はやがて、
建築学会や建築学科へと変わっていった。

それまでの仏教建築とは一線を画す築地本願寺の建立など、
伊東はそれからも日本の建築界に新しい美意識を打ち出し続けた。
日本の近代建築の出発点。
それは、「建築」という言葉そのものだった。

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中村直史 11年11月20日放送



言葉のはじまり/鈴木昭

「激辛」という言葉はあるお店から生まれた。
そう聞くと、カレー屋かラーメン屋を想像する。
けれど激辛の発祥はせんべい屋だった。

東京の老舗、神田淡平(かんだあわへい)。
店主、鈴木昭(すずき あきら)がつくりだした新しいせんべいは
まるで唐辛子の塊のようだった。その名も「激辛」。

ネーミングのインパクトもあり、いつしか激辛せんべいは大ヒット。
その後の激辛カレーや激辛ラーメンへとつながり、
1986年には流行語大賞銀賞にも選ばれた。

激辛せんべいの燃えるような味とネーミングが、
まさに、ブームに火をつけたのである。

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三島邦彦 11年11月20日放送



言葉のはじまり/ 大宅壮一

クチコミという言葉の生みの親は、
昭和を代表するジャーナリスト大宅壮一(おおやそういち)。

もともとは、ラジオとテレビをクチコミュニケーション、
略してクチコミといい、
新聞と雑誌を手コミュニケーション、
略して手コミといったのが始まりだった。

クチコミという言葉は人々の口を介して広まるうちにもとの意味を離れ、
大宅が意図していなかった意味が、まさにクチコミによって生まれた。
これは、その大宅が残した言葉。

 最終のそしてもっとも有力な審判者は、目に見えない大衆だと信じている。



言葉のはじまり/ 福地源一郎

社会という言葉は
明治時代、society(ソサエティ)の翻訳として生まれた。

最初に使われたのは新聞記事。
書いたのは東京日日新聞の主筆、福地源一郎。
新聞記者の地位を劇的に高めた人物である。
これは福地が新聞社に入った時の決意の言葉。

  新聞記者が戯作者なみというのなら、
  私の手によってそこから引きあげてみようではないか。

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三國菜恵 11年11月20日放送



言葉のはじまり/城戸四郎

映画会社「松竹」の元社長・城戸四郎(きどしろう)。
小津安二郎や山田洋二らを映画界におくりだした彼は、
まさに映画の黄金時代を築きあげた、名プロデューサー。
いわゆる、先見の明がある人物だった。

1928年、城戸はアメリカへ渡り
「トーキー」をはじめとするたくさんの映画を目にする。
そのとき、こんなことを思ったという。

これからの女優は顔だけではなく、
からだ全体のプロポーションがよくなくてはいけない。
なかでも脚がポイントだ。

城戸は帰国後、女優のオーディションを開催。
こんなことばで呼びかけた。

“脚線美女優”募集。

“脚線美”ということばがこのとき生まれた。
ミニスカートブームが起こる、はるか30年も前に
城戸は「女性の新しい魅力」について見ぬいていた。

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三島邦彦 11年10月2日放送



ガンディーの言葉

ガンディーは熱心なヒンズー教徒だった。
しかし、イスラム教、仏教、キリスト教など、
ほかの宗教にも敬意を忘れることはなかった。
ガンディーは、その秘密をこう語っている。

 宗教とはたくさんの枝の茂った一本の樹である。
 宗教は枝と見れば数多く、樹と見ればただひとつである。

ただひとつ、真理だけが、彼にとっての神だった。



ガンディーの言葉

ガンディーは、ジャーナリストでもあった。
新聞を通じ、自らの信念を発表し続けた。
政府からの圧力で新聞が廃刊に追い込まれることもあったが、
ガンディーの筆は鈍らなかった。
当時のインドでは字が読める人は多くなかったが、
人々はガンディーの言葉を求め新聞を手に入れた。
これは、そんなガンディーがジャーナリズムについて語った言葉。

  私は、ジャーナリズムは奉仕を唯一の目標とすべきことに気がついた。
  制御のないペンは破壊にしか役立たぬものである。



ガンディーの言葉 

ガンディー22歳。
社会に飛び出した彼の職業は、弁護士だった。
しかし、イギリス留学で弁護士資格を手に入れたため、
インドの法律に詳しくないガンディーは裁判に出ても失敗ばかり。
もともと口が上手くない性格もあり、すぐに弁護士としての自信を失ってしまった。
翌年、そんなガンディーに南アフリカでの仕事の誘いが届く。
当時イギリス帝国の一部であった南アフリカでは、人種差別が激しく、
南アフリカで事業をするインド人たちは
自分たちの状況を改善するために裁判を起こしていた。
依頼人に会いにいく旅で、肌の色を理由に列車の客室を追い出されるなど、
自身もひどい差別を受けたガンディーは、この仕事に熱意を燃やした。
そして、インド人とイギリス人の間に立つこの仕事を通じて、
弁護士という仕事の本質を見い出した。

  私は、弁護士の本当の役目は引き裂かれた人たちを結び合わせることにある、
  と悟ったのである。

ガンディーはその後の20数年を弁護士として過ごした。
そして生涯を通じて、引き裂かれた人を結び合わせ、人間と、真理と愛を弁護し続けた。

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中村直史 11年10月2日放送



ガンディーとスマッツ将軍

たとえば、南アフリカのスマッツ将軍。
ガンディーが南アフリカで人種差別の撤廃を求め闘っていたころの、
その闘いの相手だった。

ガンディーは人種差別的なあらゆる法律をわざと破り、
自ら進んで投獄されることによって、
南アフリカのリーダーたちと、世界中に向けて、
いかに人種差別がおかしいことかを訴えつづけた。

1914年、ガンディーたちの運動は
「インド人救済法」の成立へとつながる。
この法律をつくったのが、白人社会のリーダーであったスマッツ将軍だった。

その後、インドに戻ることとなったガンディーは、
投獄中に自らつくったサンダルをスマッツ将軍に贈った。
スマッツ将軍は、後日こう述べている。

 わたしは、それ以来いく夏もこのサンダルをはいてすごした。
 このような偉大な人物と、おなじはきものをはく資格はないと感じながら。

いかなる暴力にも頼らないこと。質素な暮らしをすること。
その力を信じ抜いたガンディーらしい贈り物だった。



ガンディーと孫アルン

規律に厳しいことで知られたガンディー。
けれど、ユーモアにあふれる人でもあったようだ。

孫の一人アルンが旅に出るガンディーに
サッカーボールのおみやげをねだったときのこと。

おじいちゃんは忙しいからきっとおみやげを忘れるよ
というアルンに対し、ガンディーは言った。

ぜったいに忘れないよ。でももし忘れたら、
おじいちゃんの頭をサッカーボールがわりにして遊んでいいから。

結局おみやげを買ってきたかどうかの記述は残ってない。
けれど、もし忘れたとしても・・・
ガンディーのことである、約束は守ったに違いない。

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三國菜恵 11年10月2日放送



ガンディーとキリスト教徒の人

自分とまったくちがう信念の人を
友だちに持つことはできるだろうか。

ヒンドゥ教徒だったガンディーは、
キリスト教徒の人とも交流をもっていた。
彼らがすすめる本を、つぎつぎと読み、
礼拝にもいっしょに参加していた。

そんなある日、
熱心なガンディーに彼らは言った。
君もキリスト教徒になりなよ、と。

けれども、ガンディーは自分を見つめた結果、
その誘いを断ってしまった。
そのときのことを、彼はこう振り返る。

彼らがわたしの心のなかに
宗教的な探究心を目覚めさせてくれたことは、
一生の恩として忘れることができない。
わたしはつねに、彼らとの交流を思い出すだろう。



ガンディーと一冊の本

なにかどうしようもなく助けがほしいときに
「神様」の名前を呼んでしまったこと、ありませんか。

ガンディーも、神のありかについて
考えつづけたひとだった。
そして彼はあるとき、運命を変える一冊に出会う。
その本は、こんなタイトルだった。

『神の国は汝自身のうちにあり』

あなたを救うものはきっと、あなた自身のなかにある。



ガンディーと手紙

ガンディーは18歳のときイギリスに留学していた。
そこで出会ったある人に、
ガンディーはとにかくお世話になる。
日々の食事から、友だち探し、そして、女の子の紹介まで。

しかし、実はこのときガンディーには妻がいた。
「勉学にはげむ留学生に恋人がいるはずない」と思われていたので、
言い出せなかったのだ。

真面目なガンディーは
このことにたえられなくなり、
事実を明かそうと決めた。

彼がえらんだ手段は、手紙。
相手を傷つけないよう、
できるだけ誠実に伝えられるよう、
何度も、何度も書き直したという。

その手紙を受けとった人からは、こんな返事がきた。
「ウソのない手紙をもらってうれしい」

うまく伝えきれない気持ちは、
一言一句、ゆっくり、紙にしたためて伝えればいい。

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そのあとのニース 20110620-5

マティス美術館を出たあとのわたしたちのことを
ダイジェストでお伝えします。


  美術館の外の高い岩の上に少年たちが乗っていた


         バスに乗って海のほうへ


               海!


               犬!


          絵に描いたような南仏


  セックスアンドザシティみたいなレディたちがいた


    大仏みたいなオブジェが空を支配する市内


        歩きつかれてビールを飲んだ


   帰り、カンヌと反対方向の電車に乗ってしまった


             山しかない


無事カンヌ方面のに乗れたけれど、気が気じゃなかった

慣れないことをするのはたのしいです。
(ただし二人以上にかぎる、ですが)

この日はもう、帰ってすぐ寝ました。

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