中村直史

三國菜恵 11年01月09日放送


二十歳のあなたへ/樋口可南子

お風呂つきのアパートに引っ越した。
赤坂見附の近くのラーメン屋さんに寄るのがたのしみだった。

女優・樋口可南子(ひぐち・かなこ)の二十歳は、
はんぶん学生で、はんぶん女優。

ある仕事で、彼女は脚本家の先生に
こんな思いきったことを言ったという。

このヒロイン、もっと悪くなりませんか?

そのひと言で、
旅館のおかみさん役の彼女に
お客さんと不倫するシーンが加わった。

強気な性格がそうさせたのか、
それとも、若さのせいか。

いずれにせよ、
若者のひと言が、
物事を思いきった方向に運ぶことってあるみたいです。

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中村直史 10年12月05日放送



つくる人のことば/國中均さん

2003年5月に地球を飛び立ち、
7年を経て地球に帰ってきた
惑星探査機「はやぶさ」。

60億キロメートルを旅し、
全長わずか500メートルの小惑星に降り立ち、
そのかけらを持ち帰った。

技術者たちの快挙に、
「奇跡」との声もあがったが、
開発担当者の一人、國中均さんは
奇跡とは言いたくない、と言った。


 努力です。とても「おもしろかった」ので、みんな一生懸命努力したんです。

人間の努力が成し遂げられることは、
宇宙くらい大きいのかもしれない。



つくる人のことば/はやぶさの若き技術者たち

太陽系の星たちが
どんな風に生まれたのか。

その謎を解き明かす使命の下、
地球から遠く離れた小惑星「イトカワ」に降り立ち、
そのかけらを持ち帰った惑星探査機「はやぶさ」。

7年にも及んだその旅は、
「はやぶさ」にたずさわった技術者たちにとって
立ちはだかる困難との格闘の日々だった。

内之浦(うちのうら)宇宙センター元所長の
的川泰宣(まとがわ やすのり)さんは、
「はやぶさ」を小惑星へ着地させる世界初のミッションを回想し、
次のように記している。


 5回にわたる「イトカワ」への降下オペレーションは、
 思い出しても目頭の熱くなるような感動的な光景だった。
 そこでは、繰り返し襲ってくる人生で初めての試練と難題に、
 懸命に取り組む若い技術者たちの美しい姿があった。

困難の末に手にした
その小惑星のかけらは、
10ミクロン以下という微細なものだったけれど、
宇宙の秘密を解き明かす大きな存在となりえる。
その解明は、まだ始まったばかりだ。

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三島邦彦 10年12月05日放送



つくる人のことば/フランク・ロイド・ライト

20世紀建築の巨匠、フランク・ロイド・ライト。
彼の建築の手本は、毎日の散歩で観察する自然だった。
彼は言う。


 自然という教科書があるのです。あるページには、成長の成果、豊かさ、
 ゆとりが記されています。自然には、建築家に確信や力を与えてくれる、
 素晴らしく単純で基本的な形態があるのです。

机での考えごとに行き詰ったら、
ちょっと、散歩はいかがでしょう。



つくる人のことば/オスカー・ニーマイヤー

アメリカ、ニューヨークにある国連の本部ビル。
この建物を設計したのは、オスカー・ニーマイヤー。
今年102歳にして、
今も現役を続けているブラジルの建築家である。
とあるインタビューで彼はこう言っている。


 建築はそれほど重要ではない。
 大切なのは、むしろ仲間や友人、家族、そして人生そのものだ。

世界をよりよくするための議論の場。
その設計者として、
国連はうってつけの人を選んだようだ。



つくる人のことば/アントニオ・ガウディ

1882年、スペインのバルセロナで、
とある教会の工事が始まった。
翌年、意見の対立から建築家が辞任し、建設は振り出しに戻る。

二代目の建築家に選ばれたのは、
まだ無名だった31歳のアントニオ・ガウディ。
ガウディは構想を練り直し、
自分が生きているうちには完成しない壮大な建築計画を立てる。

教会の名前は、サグラダ・ファミリア。
100年以上の時が経った今も未完成ながら、
世界で最も独創的な教会建築として多くの人が訪れる。
その後、いくつもの創造性に富んだ建築を作ったガウディは、
独創性についてこう語っている。


 独創性を追い求めるべきではない。
 追い求めると突飛なものに行き着いてしまうからだ。
 普段なされていることを見て、それをより良くしようと努めるだけで十分なのだ。

ガウディにとっての独創性は、追い求めるものではなく、ついてくる結果だった。

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三國菜恵 10年12月05日放送



つくる人のことば/菊池敬一

こんな本屋、アリなんだ。

そんな声が聞こえてきそうな本屋、
ビレッジバンガード。

創始者である菊池敬一さんは、
自らの店を「遊べる本屋」と称する。


 棚を作っていくことを「編集」と呼んでいます。

SFマンガのとなりに、星座の本。
その隣には、地球儀。

連想ゲームのような本棚に、最初は拒絶を示す人もいた。
けれど、今では全国に300店舗。

誰かのルールで並べるのではなく、
自分のルールであたらしくつくる。

そんな本棚は、みんなの心をたのしませた。



つくる人のことば/萩尾望都

「ポーの一族」などで知られる
少女漫画家・萩尾望都(はぎお・もと)。
彼女は、漫画についてこんな考え方をしている。


 少年漫画のほうが、比較的ドラマの起伏、事件が起こることが大事。
 でも、心理が細かくないと女の子は読んでくれない。

彼女はきっと
男女の違いに気づいてるからこそ、
女の子のための漫画が描ける。



つくる人のことば/藤牧義夫

その人は、東京を描いた。
毎日のように、同じ場所から。

群馬県・館林生まれの版画家、藤牧義夫。
故郷を離れ、出てきた東京で
いくつかの版画を残している。

鉄橋、給油所、沈む夕陽。
その多くは、隅田川からの景色ばかり。

彼は、こんな言葉を残している。


 強烈な光が、音響が、色彩が、間断なく迫るその中に、
 不安な気持ちで生存する事実
 それを唄いつつ 自分は常に強く行く。

生きていることを実感できる景色。
それは、故郷を出てはじめて出会うものなのかもしれない。

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中村直史 10年11月14日放送



人と石/早田くん

1979年のことだった。
夏休みの自由研究のため、
熊本県御船(ミフネ)町にやってきた
小学一年生の早田くん。

目的は、貝の化石を見つけることだった。

でも、見つけた化石は
貝にしては少し大きく、
貝とは違うギザギザがあり、
貝には見られない尖り方をしていた。

長い長い時を経て、
小学一年生の小さな手にたどりついたモノ。
それは、日本初、肉食恐竜の歯の化石。

早田くんの自由研究は、
世紀の大発見になった。



人と石/メアリー・アニング

その少女は、
地球に何十億年もの歴史があることなど知らなかった。

生物が絶滅するものだ、ということも、
かつて恐竜と呼ばれる生き物が
地球上にいたことも、知らなかった。
無理もない。世界中のほぼだれも、そんなことは知らなかったのだ。

少女は、ただ家計を助けるために、
動物の姿が刻み込まれた石を探し、観光客に売っていた。

いまから150年以上も前、
イギリスの港町にいた化石掘りの少女、メアリー・アニング。

「へえ、イギリスにワニがいるんだ・・・」

そうメアリーに思わせていた、
石の中の6メートルもの長さの生き物は、
イクチオサウルス。海の恐竜だった。

学校に通ったこともなかった
一人の少女は、それからも、
数々の発見で世界を驚かすこととなる。

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三國菜恵 10年11月14日放送



人と石/南アフリカの少年

1860年代、南アフリカ。
オレンジ川のほとりであそんでいた少年が
光る石を見つける。

それが、南アフリカ最初のダイアモンド。
のちに「ユーレカ」と名付けられる。
その意味は、ギリシャ語で「我、発見せり」。

少年の発見は、世界最大の
ダイアモンド鉱脈の発見につながった。



石について/夢の浮橋

数奇な運命をたどった石がある。

その石は、
南北朝時代に、後醍醐天皇が肌身離さず持ち歩いていた。

戦国時代には、豊臣秀吉、
江戸時代には、徳川家康の手に渡り、
「お守り」の石とされてきた。

この石が彼らの命を
本当に守ったかは定かではない。
けど、心をなぐさめていたことは間違いない。
だって、名前がとても美しいから。

石の名前は、「夢の浮橋」。
現代人の私たちは、徳川美術館に行けば観ることができる。



人と石/中島誠之助

「いい仕事してますねえ」のセリフでおなじみの
人気鑑定士、中島誠之助。
彼は、小学生たちにこんな宿題を出したことがある。


 自分の宝物を見つけて、持っていらっしゃい。

思い思いのものを持ってくる生徒たち。
彼自身も生徒に混ざり、
一番の宝物を持ってきてみんなに見せた。

それは、小さな石。
8歳のときに河原で拾って以来、ずっと大事にしてきたという。

高価なお宝はたくさん知っていても、
ほんとの宝物は石ころひとつ。

「お宝」に対する、彼の心がうかがえる。

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三島邦彦 10年11月14日放送



人と石/隈研吾

栃木県那須芦野に、「石の美術館」という名の小さな美術館がある。
設計を手掛けたのは、世界的建築家、隈研吾。
予算はほとんどないが、芦野の名産である石と、
石を扱う職人はふんだんに使える。
その条件の中で、彼はコンクリートやガラスに頼らない
石造りの名建築を生みだした。
彼は言う。


 制約は母である。制約からすべてが生まれる。
 そして自然とは、制約の別名である。



人と石/畠山直哉

「石灰石」と聞いて何を思い浮かべますか。
きっと、具体的なイメージを持つ人は少ないはず。

けれど石灰石は、
セメント、鉄、ガラス、紙、プラスチック、それに、薬品や食品、
さまざまなものに姿を変え、私たちの身の回りにあふれている。

そんな石灰石の採掘現場を
日本中で写真におさめた写真家、畠山直哉。
彼は語る。


 遥か地平線まで続くコンクリートのビルや道路が、
 すべてあの山々から掘り出した石灰石を原料としているなら、
 このビルや道路をすべて擦りつぶし、
 その膨大な量の炭酸カルシウムを慎重に元の場所に返してやれば、
 最後のスプーン一杯で、以前の山の稜線は、ぴったりと復元されることになるだろう。
 鉱山と都市はまるで写真のネガとポジのようなものだ。

今、あなたがいるその街も、
遠いどこかの石灰石鉱山の映し鏡。
そう考えると、風景が少し違って見えてきませんか。



人と石/アルバート・アインシュタイン

世紀の天才物理学者、アルベルト・アインシュタイン。

このアインシュタインという名前は、
ドイツ語で「一つの石」という意味だという。

そんな彼が残した言葉は。


 私は何カ月でも何年でもひたすら考える。
 九十九回目までは答えは間違っている。
 そして百回目でようやく、正しい結論にたどりつく。

この実直さ。
いかにも、名前どおり。

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三國菜恵 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、バンジョー

バンジョーはアメリカ生まれの楽器。
ギターよりも弦の数が少なく
まるい形をしている。

それが、ジョン・レノンが初めておぼえた楽器だった。

手ほどきをしたのは、生みの母である、ジュリア。
訳あって離ればなれに暮らしていた二人だったが
コードを覚えたくて仕方なかったジョンは、
バンジョーが得意だった母のもとへ通った。

母と子の絆になったバンジョーがきっかけで
ジョンはミュージシャンへの道を歩きはじめるが
同時にそれは、ギタリスト ジョン・レノンに
ある癖を残すことになった。
その頃の演奏についてジョン自身が語る。

 6本めの弦の使いかたがわからないままギターを弾いていた

正しく弾けることが、人を魅了する音楽になるとは限らない。


ジョン・レノンと、主夫業。

ジョン・レノンは、
ロックスター最初の「主夫」でもあった。

1975年、35歳の時に
息子 ショーン・レノンが誕生。
彼は、音楽活動を休止して
育児にいそしむことを選んだ。

僕には、仕事と家庭は両立しないように思えた。
ヨーコとの関係や子どものことの方が
ずっと大事に思えたんだ。

息子の骨格の変化を気づかったり、
どんなテレビを見せようか悩んだり。
パンを焼いてヨーコの帰りを待つ日もあったという。

そんな「主夫」生活にも、ピリオドが。
きっかけは、5歳になった息子が
友だちの家から帰ってきた時に発した、こんなひと言だった。

パパって、ビートルズだったの?

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三島邦彦 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、ユーモア。

ビートルズとその他のバンドを決定的に分けたもの。
それは、「ユーモアのセンス」だったのかもしれない。

ある時、インタビューを受けたジョン・レノン。

「フランス人はビートルズに関して
はっきりした意見を持っていないようですが、
 あなた方はどう思いますか?」

という質問に、こう答えた。

  ああ、僕らはビートルズが好きだよ。あいつら、かっこいいもの。

ものの見方を変えれば、状況は一変する。
ジョンはやがて、ユーモアの力を
世界の暴力に立ち向かう武器へと変えていった。


ジョン・レノンと、メディア。

ギターとベースとドラム。
シンプルな構成で、一時代を築いたビートルズ。
ジョン・レノンはビートルズの初期を振り返ってこう言った。

  私たちはアーティストと呼べるようなものではなくて、
単なるロックン・ローラーだったのです。

しかし、その音楽に人々は熱狂した。
ステージでの演奏は観客の叫び声でほとんど聞き取れなかった。

そこで、レコーディングを活動の中心にすえる。
楽器によるシンプルな演奏から、機械を駆使した実験的な音楽づくりへ。
それはビートルズが、ロックミュージシャンから、
アーティストへと変わることでもあった。

この対応能力に関しては、ジョン自身も誇りに思っていたようだ。
後に、こんな言葉を残している。

私たちは有能でした。どんなメディアのなかに置かれても、
なにか価値のあるものをつくり出すことができますから。

もし、まだ、ジョンがこの世にいたならば。
進化するインターネットの世界で
どんな驚きを見せてくれていただろう。

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中村直史 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、オノ・ヨーコ。

ジョン・レノンとオノ・ヨーコの
行動はいつも具体的だった。

戦争に反対して、
ふたりでベッドにこもりつづけたときも。
人種差別の愚かさを示すため、
袋に入ったままインタビューを受けたときも。

奇をてらいたかった訳ではなく、
具体的に、世界を変えたかったのだと思う。

ジョンが亡くなってからというもの、
ほぼ毎年、オノさんは、
ジョンの誕生日に
木を植えて過ごしているという。

今日、10月9日、世界のどこかに木がふえる。
ふたりの具体的な行動が、
今年もまた、ほんのすこし世界を変える。

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