薄組・石橋涼子

石橋涼子 12年5月20日放送



植物のはなし 牧野富太郎の情熱

最終学歴、小学校中退。
独学で研究を続け、
植物学の父と呼ばれるまでになった牧野富太郎。

東京帝国大学の講師になっても、
理学博士号を授かっても、
野山をかけずり回って標本採集をするのが趣味だった。

どんなに貧しくても、珍しい植物を求めては旅に出た。
借金取りが押しかけて来ても、平然と植物の標本をつくっていた。

95歳で亡くなるまで少年でありつづけた植物博士の残した言葉。

草をしとねに 木の根をまくら 花に恋して90年



植物のはなし 牧野富太郎の感謝

植物博士、牧野富太郎の名付けは明快だ。
どこにでも生える図太い植物だから、ワルナスビ。
むじなの尻尾に似ているから、ムジナモ。
わかりやすさこそが、学問に必要なこと。

ただ一度だけ、例外がある。
貧しい生活を支え続けてくれた妻が亡くなったとき、
発見した笹にこの名を付けずにはいられなかった。
命名、スエコザサ。

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石橋涼子 12年4月22日放送



師のはなし 内村鑑三と斉藤宗次郎

明治のキリスト教伝導者であり
社会運動家でもある内村鑑三のもとには、
弟子になりたいという者が後を絶たなかった。
しかし大きすぎる期待は失望へと変わりやすいもので、
内村のもとを去る者も後を絶たなかったという。

師弟関係というものに絶望した内村は、
弟子を持つの不幸
という文章まで書いた。

そんな師匠を最後まで慕い続けたのが斉藤宗次郎だ。

なにしろ斉藤は、雨にも負けずのモデルになった
と言われている人物だ。
雨の日も風の日も師匠のもとへ通い、敬い、尽くし、
病気の内村を最期まで看取った。

内村鑑三は、最晩年にようやく
弟子を持つことの幸福を知ったのではないだろうか。

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石橋涼子 12年3月18日放送


kontenten
動物と人 猫と寺田寅彦

寺田寅彦はあらゆるものに興味を持ち
こんぺいとうや蚊取り線香、ガラスの割れ目まで
研究した学者だが、実は猫が苦手だった。

40代のころ、屋根裏のネズミ退治のために
渋々、苦手な猫を飼うことにした。

とたんに寺田は猫に夢中になった。
しかしその研究成果はというと、

猫ののどをかいてやると、ゴロゴロと鳴る。
しょっちゅう居眠りをする。

その報告を聞いた家族はおおいに笑ったという。


しんしん
動物と人 猫と三島由紀夫

三島由紀夫が猫好きだったことは
意外と知られていない。

幼い頃から猫をかわいがっていたのだが、
妻が大の猫嫌いで飼うことが許されなかったのだ。

作家仲間の林芙美子に宛てた手紙には
いかに自分が猫好きかを綴っている。

あの小賢しいすねた顔つき、きれいな歯並び、冷たい媚び、
なんともいえず私は好きです。

だなんて、まるで惚気のよう。

三島が猫に会うのは妻が寝静まった深夜だ。
書斎の窓を猫が叩くのが合図。
机の引き出しに隠しておいた煮干し片手に
毎晩逢い引きをしていたのだという。

その愛し方は、なんだかとても三島らしい。

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石橋涼子 12年2月12日放送


ゆき
おやこの話 おぐにあやこ

新聞記者おぐにあやこは
32歳のとき子どもを産んだ。

思い通りに進まない育児生活のなか、
出産によって失った「自由」と
「キャリア」のことばかり考えてしまう自分に
いらだっていた。

このままじゃいけない。
おぐには考えた。

子どもがいるから何も自由にできないと思う自分から、
自由になろう。

そして彼女はなんと、バックパックをかついで
6か月の赤ちゃんと一緒にスペインへと旅立ったのだった。

子連れだから諦めることを数えるより、
子連れだから楽しめることを探す。
それは意外と難しいけれど、
想像以上に楽しいことだ。

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石橋涼子 11年7月30日放送



子どもの時間 いわさきちひろ

世界中の子どものために
絵を描き続けた画家、いわさきちひろ。

ちひろの描く子どもたちは、
あどけなく、のびのびと動き、好奇心いっぱいで、
その指先にまで画家の愛情がたっぷりつまっている。

しかし彼女の絵には、
現実の子どもはこんなにかわいいばかりではない
という批判が常に付きまとった。

彼女は晩年、こう答えたという。

 無償の愛で子どもをかわいがる、
 そんな聖母みたいなものじゃなくて、
 私のは、もっと、体質的なものなんですよね。

ちひろは、泥まみれでも、ケンカをしても、
やっぱり子どもがかわいいと思う。
そういう体質なのだ、と。

そう言われたら、もうどんな批判もかなわない。

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石橋涼子 11年6月19日放送



5 友達について 金田一京助と石川啄木

言語学者・金田一京助と石川啄木は
10代の頃からともに文学の道を志した友人だった。
金田一が文学の道をあきらめたのは、
言語学に情熱が移った一方で、
啄木にかなわないと思ったためとも言われている。

なかなか売れない啄木のために
資金援助を続けた金田一だったが、
自分だってあまり裕福なわけではない。

あるときなどは、命の次に大切にしていた
愛蔵書をまるごと売り払って、啄木への援助金とした。
本当は、本への未練があったのだが、
その金で昼間から啄木といっしょにビールを飲み、
お互いの門出を陽気に祝ったのだという。

啄木は生来の我儘と浪費癖から、
多くの友人を失った。
金田一とももちろんケンカをした。
しかし啄木が亡くなる前に真っ先に枕元に呼んだのも、
真っ先に駆け付けてくれたのも、金田一京助だった。

金田一は、晩年、
啄木とのおかしな友情についてよく語った。
特に好んだのが、昼下がりにふたりで飲んだ
ビールの話しだったという。



6 友達について ジャイアン

お前のものは、俺のもの。
俺のものも、俺のもの。

この有名なセリフが生まれたときの話を
ご存知だろうか。

それは小学校の入学式の朝。
のび太がうっかり無くしてしまったランドセルを
ジャイアンは泥だらけになるのも構わず、
必死になって取り戻してくれた。
驚きと喜びで泣いてしまったのび太に
ジャイアンは照れ隠しであの名台詞を言ったのだった。

お前のものは、俺のもの。
俺のものも、俺のもの。だろ?

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石橋涼子 11年5月14日放送



希望のことば ケント・M・キース

逆説の十か条を、ご存じだろうか?

マザーテレサの「孤児の家」の
壁に書かれた言葉として有名になったのだが、
もとは、ケント・M・キースという
アメリカに住む若干19歳の大学生が
高校生向けの小冊子に書いたものだった。

その内容は、例えば、こう。

人は不合理でわからず屋でワガママな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。

今日の良い行いは明日になれば忘れられるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。

何年もかけて築いたものが、一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きあげなさい。

逆説の十カ条を通じて19歳の青年は、
この世界の理不尽を受け入れながらも、
それでもなお、希望を持とう、と唱えている。



希望のことば ルイーザ・メイ・オルコット

四姉妹の成長を描いた名作「若草物語」。
その作者であり、おてんばな次女のモデルでもあるのが
ルイーザ・メイ・オルコットだ。

ルイーザの父親は、理想主義的な教育家で
娘たちは自由にのびのびと育てられたのだが、
一家の暮らしは貧しいものだった。

彼女は生活のために教師や看護婦、ベビーシッターなど
さまざまな仕事をこなす一方で
作家になるという希望を持ち続け、
37歳のときに「若草物語」でようやく成功を収めた。

その後も奴隷制廃止や女性参政権の運動家として
自分にできることやりたいことを実践しつづけた
ルイーザは、こんな言葉を残している。

「希望を持って忙しく」というのが、
うちのモットーです。

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石橋涼子 11年3月27日放送


冒険の話 和泉雅子

勉強が苦手だった少女は、
働けば学校に行かなくていいと考え
児童劇団に入ることにした。

これが、吉永小百合・松原智恵子とともに
日活三人娘と呼ばれた女優、和泉雅子のはじまりだ。

歌も演技も下手だったが、
顔がきれいだからという理由で採用され、そして売れた。

人気がでると今度は自由がなくなった。
どこへ行くのにも母親か付き人が着いてくる。
20代になってもデートをしたこともなければ、
女友だちと会うことすら難しかった。

あるときテレビ番組のレポーターとして南極に行き、
大自然の広大さと自由の魅力にとりつかれた。
初めて自ら何かを望み、成し遂げたいと思ったのが、
北極点到達だった。
女性冒険家・和泉雅子が生まれた瞬間だった。

日本人女性初の北極点到達を成し遂げ、
今も毎年のように北極への旅を続けている。
マイナス40度の寒さに耐えるために脂肪を蓄えている彼女の容貌は
女優時代とはだいぶ異なるが、
和泉雅子はいつも笑顔でこう語る。

昔はキレイだったと言う人もいるけれど、
私は今の方がいい顔をしていると思うの。

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3月19日と20日もVisionお休みです

3月19日と20日もVisionはお休みです。
3月19日佐藤理人、3月20日薄組でした。

なお、J-waveでは被災地のための救援物資を
受け付けています。
詳細はこちらをご覧ください。

http://www.j-wave.co.jp/topics/1103_hth.htm

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石橋涼子 11年02月20日放送


あの人の詩 永瀬清子

女であり妻であり母であり、
勤め人であり土を耕す人でもあった詩人、永瀬清子。

彼女は
心の底を隠したがる人間には詩は書けない、と言い
生涯、自分と向き合い続け、学び続けた。

晩年の学びを、彼女はこう語った。

 人々のさまざまな忠告は、
 常に私自身の発見と事実とに反していることが多い。
 たとえば「安静に」「脂肪をとるな」「塩をとるな」「働くな」。
 私自身の生命はつねに私に教えてくれる。
 「悩め」「力をつくせ」「戦え」「一歩出ろ」。


あの人の詩 茨木(いばらぎ)のり子

戦争の真っただ中で、少女は疑問を抱いていた。

美しいものを楽しむことが、なぜ悪いことなのだろうか。
一億玉砕で死ぬことが、なぜ良いことなのだろうか。

もちろん、そんなことは誰にも言えなかった。
戦争が終わり、大人になって、
あの頃の疑問は正しかったということに気づいた。
同時に、人から思想を植えつけられた自分に腹が立った。

少女の名は、茨木のり子。
自分の言葉に対して潔いほどまっすぐな詩人になった。

後に発表した詩は、こんな一節で締めくくられている。

 自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ


あの人の詩 石垣りん

銀行員詩人と呼ばれた石垣りんは
昭和9年、満14歳で銀行に就職し
家族の生活を支えながら定年まで働いた。

幼いころに母と死に別れ、
ふたりめの母も若くして亡くなり、
18歳までに4人の母を持った。

戦争が終わり、30歳を迎えた石垣りんは、
臨終の床にある祖父と、こんな会話をした。

「私は、ひとりでもやっていけるかな?」
「やっていけるよ。」
「私のところで人間やめてもいい?」
「いいよ。人間、そんなに幸せなものじゃないから。」

こうして、彼女は生涯、
妻にも母にもならない道を選んだ。

しかし、そんな彼女の書く詩には
人間の生活への深い思いが溢れている。

銀行員詩人石垣りんの別名は、生活詩人。
その名言集にはこんなことばもある。

 齢三十とあれば
 くるしみも三十
 かなしみも三十

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