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踊る玉子

このVisionという番組の原稿制作のために
コピーライターが集っているのは、いってみれば
事務局、厚焼玉子(旧姓 中山佐知子)さんのもとに集っているのである。

玉子さんは、その名を知らないものはいない
コピーライターであり、ラジオCMディレクターであり、
そして若手コピーライターたちの母である。

そんな母が、今日はフロアの真ん中で踊っていた。
さぞかしうれしかったのだろう。
くるくるまわりながら踊っていた。

でも、自分の母親がいきなり踊り出したらどうですか。
びっくりするでしょう。みなびっくりしてました。

さらにいきなり手をつかまれて私まで踊らされたものだから
酔いのまわっていた私は
貧血で目の前が真っ暗になり、死ぬかと思ったのです。(中村)

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厚焼玉子 11年02月26日放送


岡本太郎 明日の神話

2008年11月、渋谷駅にあらわれた巨大な壁画に人々は驚き
カメラを向けた。

縦5.5メートル、幅30メートルのその壁画は
「明日の神話(あすのしんわ)」と名付けられた岡本太郎の作品だが
展示されている場所はJRと京王線の連絡通路で
人通りは激しく、気温も湿度もコントロールされてはいない。
作品を保護するためのガラスもない。

20世紀でもっとも人気のあった芸術家といわれる岡本太郎だが
彼は自分の作品がガラスのなかに展示されるのを極度に嫌った。
もし作品が傷つけられたら自分が直すとまでいっていた。

その考えに従って
本当にむきだしのまま展示された岡本太郎の「明日の神話」は
夏の重い湿気に耐え、冬の乾燥にも負けず
渋谷のランドマークとして、
24時間、誰でも見ることができる。

美術館で、ただ人の訪れを待つ芸術作品より
それはもしかして、幸せなことなのかもしれない。


岡本太郎 太陽の塔

岡本太郎の代表作といえば
1970年の大阪万博のシンボルタワー、太陽の塔。

しかし万博当時は
3つの顔を持ち、両手をひろげたその姿は
「醜悪」「不気味」といわれ
「あまりに岡本太郎的」という非難まで浴びた。

しかし、岡本太郎は自分の著書にこんなことを書いている。

 うまくあってはならない きれいであってはならない 
 ここちよくあってはならない

たとえ不快であっても見る人を惹きつけ、圧倒するのが
真の芸術だと説いているのだ。

批判の多かった太陽の塔だが
万博が終わってみたら署名運動が起こり
万博公園に永久保存されることになった。

その代表作をいつでも誰でも見ることができるというのは
いかにも岡本太郎らしい。


岡本太郎 こどもの樹

青山の「こどもの城」の入り口には
岡本太郎の「こどもの樹」が立っている。
「こどもの樹」もまた、24時間誰でもみることのできる
岡本太郎の作品だ。

「こどもの樹」は真ん中の幹から腕のような枝が生え
その先端には顔がある。

怒った顔、笑った顔、泣いた顔にベロを出した顔
それは本当に子供の表情だ。
大人になって忘れてしまった顔がそこにある。

岡本太郎は自分のことを子供の代表といっていたそうだ。
既成概念と戦い、束縛には反抗し、反逆児と呼ばれたが
岡本太郎本人としては
素直に自分を表現していたということなのだろう。

子供はひとりひとりが自分の顔を持っていないといけない。
隣の子と同じ顔ではいけない。
「こどもの樹」にはそんなメッセージが込められている。


岡本太郎  若い時計台

岡本太郎が「若い時計台」をつくったのは1966年、
55歳のときだった。
数寄屋橋公園に立つそれを見た人は
誰もが万博の「太陽の塔」を連想するけれど
実は「若い時計台」の方が4年も早い。

同じ1966年にソニービルがオープンしたが
マリオンができるのは18年後だし
数寄屋橋あたりにはまだ古いビルが建ち並んでいた。
岡本太郎の「若い時計台」は
そんな時代に数寄屋橋公園に出現したのだ。

顔の文字盤を支える胴体からはいくつもの腕が
四方八方に伸びている。
それは角度によって踊っているようにも見えるし
握手を求めているようにも見える。
日が暮れるとネオンの仕掛けで色が変化する。

しかし、いちばん驚くのは
この時計台、どこから見てもどんな新しいビルを背景にしても
斬新な存在感を主張していることだ。

そばに寄ったときと、道路を隔てて眺めたときでは印象が違う。
角度や時間帯によっても違う。
誰もが24時間見ることのできる作品だから
いつ見ても面白く新しく。
それが「若い時計台」の若さなのかもしれない。


岡本太郎 午後の日

岡本太郎の墓は多磨霊園にある。
その墓標は「午後の日」という太郎の作品で
大きく無邪気な子供の顔だ。

作品は顔と両頬に当てた手だけだけれど
この子はたぶん、暖かい日の当たる座敷で
畳に腹ばいになっているに違いない。
そして、そばにいるお母さんと楽しい話をしているに違いない。

そんな風におもえてくるほど
かわいらしく、あたたかい作品なのだ。

そして、それから、ひとつの思いが浮かんでくる。
これはもしかして、岡本太郎本人なのではないか.
自分がこうありたいと願っていた子供の姿ではないか。

あとひと月もすると桜の便りも聞けるだろう。
1600本の桜が咲く多磨霊園の桜並木のすぐそばに
岡本太郎は子供の顔をして眠っている。


岡本太郎 顔

大正から昭和のはじめにかけて一世を風靡した漫画家
岡本一平の墓は、多磨霊園にある。

墓標は埴輪に似ているが、
顔はまん丸で無邪気に笑っている。
それは一平の長男岡本太郎の「顔」という作品で
母岡本かの子をモデルにしたといわれている。

両親の複雑な夫婦関係や
母にかまわれなかった太郎の幼少時代は
誰知らぬものとてないけれど

それでも、太郎も父も
岡本かの子を愛していたのだな、と
この墓標を見るとつくづく思う。


岡本太郎 

岡本太郎が創造したものは
絵画や彫刻だけではなかった。

椅子、灰皿、スキー板
デパートのショーウインドーのディスプレイ
果ては鯉のぼりのデザインにまで手を染めている。

生活のなかに生命感あふれる遊びを創造することは
彼の喜びでもあったし
また芸術を社会に広げていくための空間的な広がりを求めていた。
そのひとつは、みんなが手に取れる大量生産のものをつくることであり、
もうひとつは銀座の空に絵を描くといった物理的な空間の占有である。

そういえば…
岡本太郎は飛行船のデザインまで手がけている。
戦後二番めの飛行船として1973年に空を飛んだレインボー号は
岡本太郎によって魚のような原色の絵が描かれ
日本の空を飛びまわった。

レインボー号には本当なら
スポンサーである企業の名前が入るはずだったのだが
岡本太郎は「大空はみんなのもの」という理由で猛反対。
もともと宣伝活動のための飛行船だったにもかかわらず
企業もその意見を受け入れた。

原色の絵で飛びまわる飛行船は話題になり
岡本太郎と、それから名前を消した企業の名を
世の中に広めることになった。

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厚焼玉子 11年01月02日放送


詩家の晴景

 詩家晴景在新春(しかのせいけいは 新春にあり)

詩人が愛でるべき晴れやかな景色は新春である、と
うたったのは中国の詩人、楊巨源(ようきょげん)。

花の頃になると人でいっぱいになってしまうから
わずかな春のきざしを愛でようという意味だ。

なるほど、言われてみると
葉を落とした木々はもう新しい芽をつけている。
はこべの緑も鮮やかだ。

春はもうそこにある。


年賀はがき

年賀葉書というアイデアを思いついたのは
大阪で洋品雑貨の店を経営していた林 正治(まさじ)さんだった。

戦争以来の苦しい生活のなかで
手紙のやりとりも途絶えてしまった人たちがいる。
もし年賀状が復活すれば
お互いの消息を知らせることができるのではないだろうか。

このアイデアは郵政省に持ち込まれ、実現した。

昭和24年の12月には「お年玉くじつき年賀葉書」が売り出され
日本の年賀葉書の第一号になる。

ちなみにそのときのお年玉賞品は
特等がミシン、1等が純毛洋服地だった。

いまはすっかり定着した年賀状、
俳句や短歌の自信作を挨拶代わりに書く人も多い。


大伴家持

万葉集を編纂した大伴家持は
そのいちばん最後をみずからの新春の歌で締めくくっている。

 あたらしき 年のはじめの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)

大伴家持は少年時代に父を失っている。
そのせいだろうか、
若いときは出世の糸口をつかみかけては
地方に飛ばされることが多かった。
富山に鳥取、九州…それから関東にも下った。

それが幸いだったのだ、という意見がある。
万葉集におさめられた多彩な地方の歌は
家持の左遷がなければ
きっと集まっていなかったのだから。

 あたらしき 年のはじめの初春の 今日降る雪のいや重け吉事

新年に降り積もる雪のように
良いことがかさなりますように。

そんな願いを込めて詠まれた歌の通り
晩年の家持は順調に昇進していった。

あたらしい年に良いことがかさなりますように。

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厚焼玉子 10年05月29日放送


5月生まれの詩人 野口雨情

野口雨情が残した2000余りの詩のなかで
北海道から九州まで、全国の風景や風物をうたった
いわゆるご当地ソングといわれるものは300を超えている。

ご当地ソングをつくるのはなかなかむづかしい。
誰がきいてもわかりやすく、歌いやすく
そして、その歌を聴いた人が
その土地の代表的な風景を思い描ければ成功といえる。

野口雨情の上州小唄は
五月の赤城山が眼に浮かぶ。

  赤城山から風が吹き出して 風で蝶々が飛ばされる

そういえば、今日は野口雨情の生まれた日でした。


5月生まれの作家 内田百閒

1931年5月29日
開港間もない羽田空港から
小さなプロペラの複葉機が飛び立った。

その飛行機の名前は「青年日本号」
地図と羅針盤だけをたよりにシベリアからウラル山脈を越え
ヨーロッパを目指した法政大学航空研究会の飛行機だった。
操縦士はもちろん学生である。

この飛行機はドイツ、イギリス、フランスなどを
親善訪問しながら
無事に目的地であるローマに到着。
世紀の快挙として日本中が沸き立つニュースになった。

ところで、この飛行計画を立案、実行したのは
当時法政大学の教授で航空研究会の航空部長でもあった
内田百閒先生。
「青年日本号」が出発した5月29日は
百閒先生の誕生日でもありました。


5月生まれの政治家 ケネディ

世界一贅沢なバースデーソングを歌ってもらった人は
アメリカのジョン・F・ケネディ大統領だろう。

1962年、マジソンスクウェアガーデンで開かれた
大統領45歳の祝賀会で
ハッピーバースデーを歌ったのは、マリリン・モンロー。
モンローはこの短い曲を歌うために映画の撮影をすっぽかし
後々訴訟問題に発展したと言われている。

ハッピーバースデー、ミスタープレジデント

マリリン・モンローのささやきのような
バースデーソングは1万7千人の観客を魅了し
拍手はいつまでも鳴り止まなかった。

今日はジョン・F・ケネディの生まれた日。


5月生まれの国王 チャールズ二世

イギリスの国王チャールズ二世は
リチャード三世ほどの悪役ではないし
ヘンリー八世ほどわがままでもなかった。
ウイリアム一世ほど英雄でもないが
エドワード六世のような子供でもなかった。

チャールズ二世の評価は人によって違うかもしれないが
誰もが共通して語ることがある。
それは、女性に弱いということだ。

チャールズ二世は国王になる以前
フランスやオランダで亡命生活を送っていたが
行く先々で恋人を見つけては子供をつくった。
イギリスに戻り、国王になって結婚してからも
愛人はたくさんいた。
チャールズ二世は、愛人との間に生まれた子供を
14人まで認知しているが
王妃との間にはひとりも子供ができず
国王の血は絶えたかに思われたが…

現在、イギリスのウイリアム王子とンリー王子は
チャールズ二世の血を引いている。
愛人の子供たちによってチャールズ二世の血は
イギリスの貴族に受け継がれ
ダイアナ妃もその子孫のひとりだったからだ。

チャールズ二世は1630年の今日生まれた。


5月生まれの発明家 ジョン・ウォーカー

「もしもこの世にマッチが発明されなかったら
私たちはいまでも火を起こすのに苦労しているかもしれない。

人類が火を使いはじめたのは100万年以上も昔だが
マッチの発明からは200年足らずしかたっていない。

マッチの発明者はジョン・ウォーカー。
イギリスの科学者であり発明家でもあった。
彼は1826年にマッチを発明し翌年に販売を開始した。

火種を絶やさないように苦労していた生活から
すぐに火のつく暮らしになったありがたさを
私たちは忘れてしまったかもしれないけれど
近ごろでは
マッチは環境にやさしいということが
見直されはじめている。

今日はマッチの発明者ジョン・ウォーカーが生まれた日。


5月生まれのコメディアン ボブ・ホープ

アメリカのコメディアン、ボブ・ホープは
生きている間に二度も自分の死亡記事を読んでいる。
最初は1989年、AP通信社による誤報で
このときはアメリカ合衆国下院で追悼演説まで行われた。

二度めのときは
あらかじめ準備しておいた有名人の死亡記事が
間違ってケーブルテレビのウェブサイトに掲載された。

今日はボブ・ホープが生まれた日
ボブ・ホープは
2003年、100歳の誕生日を祝った2ヶ月後に亡くなっている。


5月生まれの歌姫 美空ひばり

昭和25年5月
小学校を卒業したばかりの美空ひばりは
日系二世米国人部隊に招かれ
人気ボードビリアン川田晴久とともにハワイ公演に出発した。

この頃のひばりと川田晴久は、まるで親子のようだった。
デビューしてもなかなか売れないひばりを
川田は自分の一座に加え、スターへの道を着々と準備していたし
そんな川田をひばりは本当の父のように慕っていた。

そのハワイでの出来事だった。
表の通りで起こった自動車事故をのぞき見るために
窓から顔を出そうとしたひばりを
川田はたしなめた。

 人気ものがうっかり顔を出すと余計騒ぎになる

川田は美空ひばりがスターになる道を準備すると同時に
スターとしての教育も忘れてはいなかったのだ。

美空ひばりがブレイクしたのは
帰国後第一作めの映画「東京キッド」から。
この映画で川田はひばりのためにギターを弾いている。

今日は美空ひばりが生まれた日
生きていてくれたら、もう73 歳になっていた。

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厚焼玉子 10年05月16日放送



世界一遅いマラソン記録  金栗四三

日本のマラソンの父と呼ばれた金栗四三(かなぐりしそう)は
日本人初のオリンピック選手として
1912年のストックホルム大会に出場した。

試合当日のコンディションは最悪だった。
船と列車の長い旅、白夜での寝不足。
マラソンの当日は迎えが来ず、
試合の前に競技場まで走る羽目になった。

さらにその日は摂氏40度を超える記録的な暑さで
参加選手は次々にリタイア。
金栗もレース半ばに日射病で倒れてしまうが
このとき、なぜか彼の棄権は連絡されず
「日本の金栗選手はレース中に失踪」と記録されてしまった。

それから55年
75歳になった金栗四三のところに一通の招待状が届いた。


 「スウェーデンのオリンピック記念式典で
 あのときのマラソンをゴールしませんか」

54年8ヶ月6日5時間32分20秒3という
世界一遅いマラソン記録はこうして生まれた。
1967年3月21日のことだった。
「長い道のりでした」と本人もスピーチしている。

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厚焼玉子 10年03月27日放送

01-makino

牧野富太郎とキツネノボタン

牧野富太郎先生は植物学者であると同時に
植物の名付け親でもありました。
日本の植物で牧野博士に名前をもらったのは
2500種以上にのぼります。

たとえば、春の川辺に咲くキツネノボタン。
牧野先生が名前をつけてくれるまで
この小さな黄色い花は
なんと呼ばれていたのでしょう。

気がつけば、風が暖かく
いままで何もなかった道端に
あっという間に花が咲きます。

春は草花の名前を覚えるチャンスです。
植物事典を一冊、身近に置いてみませんか。

02-gekko

牧野富太郎と月光桜

月光桜と呼ばれる桜があります。
日本にほんの数本しかないといわれる貴重な山桜です。

植物学者牧野富太郎先生は
ふるさとの高知県でこの桜を発見し
アシズリザクラと名づけようとしました。
けれども、その名前が登録される前に
先生はお亡くなりになって
結局、正式な名前はまだありません。

月光桜はその名の通り満月の夜に満開になり
白い光沢のある花びらが月の光に輝くそうです。
正式な名前でなくても
見る人に月光桜と呼ばれる桜の美しさは
誰にだって想像できますね。

03-fuji

牧野富太郎とフジツツジ

フジツツジの「フジ」は富士山ではなく
藤の花に色が似ているからだそうです。
フジツツジも牧野富太郎博士に名前をもらいました。

フジツツジの花は小柄でやさしいけれど
ツツジのなかではいちばん早く咲きます。
冷たい風に負けないしっかりものです。

フジツツジは
牧野博士のふるさと高知県の
海を見下ろす高台にたくさん咲いているそうです。
本州では紀伊半島より西でないと見ることができません。

いっぺん会いに行きたい花のひとつです。

04-waru

牧野富太郎とワルナスビ

白と薄紫の花は小さくて可憐だし
葉っぱと茎に小さなトゲはあるけれど
気をつけていれば問題ないだろう.,,

牧野富太郎先生は、きっとそう思って
ご自分の植物園に植えたのだと思います。

すると、その可憐な花はたちまち侵略者に早変わり。
好き放題にはびこって、
抜こうとすると根っこが切れる。
その切れた根の破片がまた一人前に育ってしまう。
まるで細胞分裂のような増殖をして
ついにお隣の畑にまで侵入してしまいます。

牧野先生はついに音を上げて
「こんな草を背負い込んだら災難だ」
と、ものの本にもお書きになり
その災いの植物につけた名前がワルナスビ。

牧野先生のお腹立ちの様子が
ワルナスビという名前から伝わってきます。

05-uba

牧野富太郎と姥百合

ハート形の葉っぱを持つ百合は姥百合。
姥百合も牧野富太郎先生が名付け親です。

姥はおばあさんという意味の姥。
百合なのに、どうしておばあさんなんでしょうか。

姥百合のせっかくみずみずしく繁った葉は
ツボミがふくらむ頃になると枯れてしまい
花が咲く初夏には
一枚もなくなっていることもあるそうです。

姥百合が咲いたとかけておばあさんと解く。
その心は「葉(歯)がない」

姥百合の名前は
牧野富太郎先生の謎かけになっていました。

06-yamato

牧野富太郎とヤマトグサ

日本植物学の父と呼ばれる牧野富太郎先生が発見した
記念すべき植物の第一号はヤマトグサ。
そして、牧野先生が名付け親になった最初の植物でもあります。

ヤマトグサは、私たちが見ると
ハコベに似た普通の草ですが
実はたいへん珍しい植物なのだそうです。

植物事典をめくる理由が
またひとつできました。

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厚焼玉子 09年12月27日放送

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医者で作家 1 渡辺淳一

医者という職業はかなり忙しい。
医者で作家の人たちは
いつ小説を書くのだろう…はともかく
どうして小説を書きたくなるのだろう。

それに関しては
渡辺淳一先生が明快に述べている。


 医学も文学も「人間とはなにか」という
 問いかけから発している。
 医学は肉体的な面から、文学は精神的な面からという
 違いはあるが
 目的とするところは人間であり
 その点でまさに同じである。

言われてみれば、その通りでありました。

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医者で作家 2 森林太郎

陸軍軍医の森林太郎は
1884年、22歳のときにドイツ留学を命じられ
天皇陛下に拝謁する光栄も賜って
横浜港から出港した。

ライプツィヒ大学とミュンヘン大学で学び
赤十字国際会議には日本代表の通訳として出席。
医学の道は森林太郎に洋々たる未来を約束していた。

1888年、
帰国の途についた森林太郎を追うようにして
ドイツからひとりの女性が日本に向った。
もし、この女性がいなかったら
森鴎外の処女作「舞姫」はなかった。

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医者で作家 3 手塚治虫

手塚治虫は医学部を卒業し
1年間のインターンも務め、さらに国家試験にも合格して
医師免許を持っている。
ただし、患者を診たことは一度もない。

大学時代から漫画が売れはじめ
教授からも医者よりも漫画家になるようにと
すすめられてしまったのだ。

漫画家として長者番付に載るようになっても
「僕の本業は医者」と言いはっていたのだが
博士号を取るための論文に関しては
書く時間はおろか
研究する時間もあろうはずがなかった。

けれども、いつの間にか
手塚治虫は博士号を取っている。
記録によると、それは1961年33歳のとき。

医学雑誌に発表されたその論文のタイトルは
「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」
この長いタイトルは
手塚治虫の超カルトクイズにも出題された。

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医者で作家 4 なだいなだ

芥川賞最多落選記録を持つなだいなだ先生は
もともと精神科のお医者さま。
アルコール依存症を研究のテーマにしていた。

フランスに留学して神経学を学び
1955年に精神科医になると同時に
文筆活動を開始した。

作家と医者、二足のわらじどころではなかった。
放送作家でありコラムニストだった。
短歌と俳句も詠んだ。

61歳からは作家に専念、
74歳でネット上の仮想政党「老人党」を結成。
80歳でまだまだお元気。

精神科のお医者さまってタフなのでしょうか。

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医者で作家 5 北杜夫

作家の北杜夫は
精神科の医者であると同時に患者でもあった。
病名は躁鬱病。

無気力な鬱の状態が長くつづいた後に
やってくる躁状態のときは
ひっきりなしに水を飲まなくてはいられないほど
よくしゃべり、
体重が減るほど動きまわり
また株に手を出して破産も経験している。

その一方で精神科医としての目は
自分のそんな状態を冷静に見つめ
ユーモラスなエッセイにして発表した。

北杜夫のおかげで
躁鬱病はすっかりイメージアップしてしまった。
まわりの理解も深まり
患者は精神科の門を気軽にくぐれるようになった。

日本の精神医学史において
北杜夫の存在は貴重だ。

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作家で医者 6 加賀乙彦

作家の加賀乙彦は精神科医だった。
拘置所で囚人の治療にあたった経験もある。
犯罪心理学の研究室にいたこともある。

犯罪心理学というポイントから
社会を見つめる目を持っている。


 異常な状況においては異常な反応が正常である

加賀乙彦の言葉は
言われてみればあたりまえのこと。
でも、言われなければ気づかなかったこと。

犯罪を通して人の心をさぐる日本の作家は
彼より以前にいなかった。

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医者で作家 7 藤枝静男

作家であり眼科医でもある藤枝静男は
書くことを余裕で楽しんでいるような
幻想的な作風で知られている。

その一方で
近代文学社に毎年の寄付を申し出て
それがきっかけで近代文学賞が設立されたことは
意外と知られていない。

第一回近代文学賞の受賞者は吉本隆明。
これを忘れてはいけない。

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厚焼玉子 09年11月29日放送

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秋の色1  金色の小さき鳥

11月はどんな色、と、訊かれたら
なんと答えればいいだろう。

庭の花はほとんど枯れた。
今年は山の紅葉を見ることもなかった。

でも…
ああ、そうだ、と与謝野晶子は思ったに違いない。


 金色の ちひさき鳥の かたちして 
 銀杏散るなり 夕日の岡に

大空に両手を広げたイチョウから
金色に輝く鳥が舞い降りて来る。
なんと華やかな秋の色だろう。

まだ間に合う。
冬の扉が開く前に
すぐそばにある秋を見に行こう。

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秋の色2 石鹸の泡つぶ

秋になって
草が色づくことを草紅葉(くさもみじ)という。

ヨモギ、エノコログサ、チガヤ、メヒシバ
青々と繁っていたときは雑草とひと言で片づけていたのに
秋の色に染まったとたん
思わず足を止めて、名前を知りたくなる。

そんななかに
ひとり秋の色にも染まらず花をつけている草を
北原白秋は見つけた。


 秋の草 白き石鹸(しゃぼん)の泡つぶの けはひ幽(かす)かに 花つけてけり

赤や黄色のなかに
消え入りそうな白い花を咲かせる草は
どんな名前を持っているのか知りたい。

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秋の色3  さびしき青

同じ景色のなかで
同じ季節を過ごしているのに

私は本当にあの人と同じものを見ているのだろうか。
あの人と寄り添っているのだろうか。

ふとそんなことを考えて寂しくなってしまうのも
冷たく乾いた秋風のせい。


 わが妻よ わがさびしさは青のいろ 君がもてるは 黄朽葉(きくちば)ならむ

若山牧水のさびしい心は青の色
そして妻は枯れた落ち葉の色。

冬の寒さがやってくる前に
すれ違った心と心をもう一度近づけて
あたためておきましょう。

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秋の色4 野菊のうた

露が凍って霜のようになったものを「露霜」という。
露霜にあたると花も葉も色あせてしまうけれど
それもまた美しいと思う心が日本人にはあった。

伊藤左千夫が「野菊の墓」のなかで
野菊にたとえた民子は
なにもかもあきらめて心を石のようにして
嫁に行ってしまうけれど
その嫁入り先での暮らしぶりについて
左千夫は何も書いていない。

ただ民子が亡くなった後の
みんなが後悔するさまを描くことで
民子が弱っていく様子が想像できるようになっている。

伊藤左千夫が歌に詠む野菊はかわいそうだ。


 秋草の いづれはあれど 露霜に 痩せし野菊の 花をあはれむ

露霜にあたって
花の色が褪せ、葉が茶色になっても
野菊は辛抱強く立っている。
枯れた枝の先に花を残していることもある。

忘れないで、という野菊の声が聞こえる。

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秋の色5 白壁の柿

緑の竹林、白い壁、赤い柿の実
会津八一が絵のような秋の風景に出会ったのは
平城京の西のはずれ、秋篠寺のあたり。

夏におとずれた奈良を
どうしてももう一度見たくなって
病気の躯をおして出かけた。

奈良のお寺の仏さまはいずれも古い友人のようなもの
病気の躯でも慈悲深く迎えてくださるだろう…

そんな気持で出かけた八一が見つけたのが
命が照り輝くような柿の実の色。


 まばらなる 竹のかなたのしろかべに しだれてあかき かきの實のかず

その秋の色はずしりと重い。

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秋の色6 白い芒

島木赤彦は柿の実の赤い色が好きだった。
赤彦ではなく柿人(かきびと)という名前を使ったこともあったし
その住まいは柿の陰と書いて「柿陰(しいん)山房」と名付けていた。

けれども、その庭に柿の木はない。


 芒(すすき)の穂 白き水噴くと見るまでに 夕日に光り 竝(なら)びたるかも

この芒の穂の上に垂れ下がる柿の色は
赤彦の心のなかだけにある。

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秋の色7 燃え上がる公孫樹

もしもイチョウの木がなかったら
秋はどんなにか寂しいだろう。

でも野生のイチョウは日本にはいない。
仏教とともに中国から持ち込まれ
人の手で植えられて広まったのだ。

イチョウの生命力はたくましい。
2億年も昔から地球に存在しつづけているイチョウは
恐竜とともに滅びることもなく生きながらえ
いまでは世界中に子孫を増やしている。
その寿命も2000年と気が遠くなるほど長い。

病を得た中村憲吉にとって
そんなイチョウはあまりにもまぶし過ぎた。


 燃えあがる 公孫樹(いちょう)落葉の金色に おそれて足を 踏み入れずけり

けれども
45歳で亡くなるまでに3000首を超える美しい歌を詠んだ
中村憲吉の生涯もまた
金色に輝いているのではないだろうか。

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厚焼玉子 09年7月11日放送



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漱石と子規と道後温泉

夏目漱石が松山中学に赴任すると
後を追うようにして正岡子規がやってきた。
明治28年の夏のことだった。

漱石は月給は80円の英語教師、
子規は30円の新聞記者だった。
子規は漱石が借りた家の一階に陣取って
食べるものも飲むものもすべて漱石にたかって暮らした。

朝6時、ドンドンと響く太鼓の音は朝風呂が開いた合図だ。
松山には道後温泉があって
漱石がやってくる前の年に立派な共同浴場ができていた。
ふたりは毎日のように温泉につかった。

やがて秋も深まり
毎日のように食べた出前のウナギの代金から
帰りの旅費まで漱石に払わせて
正岡子規はやっと松山を出て行った。

やれやれ….
漱石が温泉で手足を伸ばしている姿が目に浮かぶ。

*道後温泉:愛媛県松山市 アルカリ性単純泉 42℃
 http://www.dogo.or.jp/

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露伴と男鹿温泉

幸田露伴が温泉のことで愚痴っている。
明治30年、男鹿温泉に泊まったときのことだ。

夜の9時頃に宿に到着したところ
怪しまれて雨の中を入り口で待たされた。
風呂は大きかったがお湯は水のように冷たかった。
酒は酸っぱく、茶漬けを食べて寝た。

それでも露伴は新聞記者に語っている。
「男鹿島はなかなか素晴らしい景色でした」

温泉については
固く口をつぐんでいたようだ。

*男鹿温泉:秋田県男鹿市 ナトリウム塩化物泉 55℃
 http://www.e-ogaonsen.com/

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森鴎外と山田温泉

明治23年8月、
開通して間もない信越線に乗って
森鴎外先生は山田温泉においでになった。

鴎外先生の記録によると
当時の山田温泉は30軒ばかりの家が並ぶ山里で
それでも宿屋は7軒ばかりあった。
温泉までの道は野生の撫子が咲き
ところどころに冷たい湧き水があった。

秋になったら、と
鴎外先生はお湯のなかで考えていた。
秋になったら子供が生まれる。
それを待って、やはり妻と別れよう。

気の強い妻としっかりものの母の板挟みで
どれだけ自分が弱っているか
やわらかなお湯が教えてくれたのだろう。
その年の10月、本当に森鴎外は妻と別れた。

*山田温泉:長野県上高井郡 塩化物泉68℃
 http://members.stvnet.home.ne.jp/hin-nobe/html/

 
3






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藤村と中棚温泉(なかだなおんせん)

中棚温泉は「小諸なる古城のほとり」にある。
島崎藤村は明治32年から
英悟と国語の教師として小諸に6年を過ごし
中棚温泉に足しげく通った。
そこからは四季折々の千曲川が見えた。

藤村は「千曲川のスケッチ」の序文に書いている。


 もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか
 これは私が都会の空気の中から脱け出して、
 あの山国へ行った時の心であった。

はじめての詩集「若菜集」から3年
さらに自分を研ぎ澄まそうとする藤村の決意だった。

*中棚温泉:長野県小諸市 弱アルカリ性単純泉 37℃
 http://www.nakadanasou.com/







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志賀直哉と城崎温泉

大正2年、志賀直哉は山手線の電車にはねられ
生死の境をさまよった。

城崎温泉に滞在したのは療養のためであり
何かを書こうという意欲ではなかったが
死というものに出会ってしまってからの志賀直哉の心は
悟りに似た境地に達していた。

死はいつでもそばにある。

それでも死ななかった自分の命が
ゆらゆらとお湯のなかに浮かんでいた。

*城崎温泉:兵庫県豊岡市 塩化物泉 70℃
 http://www.kinosaki-spa.gr.jp/



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   左の写真は日本列島お国自慢より


森田草平の塩原心中

森田草平には何かと不祥事が多かった。

高校時代は従姉妹と同棲していることが
学校側の知るところとなって退学。
上京して東大に進学すると
こんどは下宿の娘とややこしいことになってしまった。

卒業して英語教師になると試験を忘れてクビになったし
夏目漱石の紹介でやっと他の学校に就職すると
こんどは心中事件を起こした。

明治41年、3月。
塩原温泉に泊まった翌日、死ぬつもりで山に入ったが
膝まで埋もれる雪に迷い
死ぬ気力もなくしていたところを捜索隊に発見された。

塩原温泉の心中事件は大スキャンダルになったが
森田草平はそれを逆手に取って小説を書き
一躍文壇に躍り出た。

こういう縁で、いま塩原温泉には
森田草平の文学碑が建っている。

心中の相手、平塚らいてふの碑はないようだ。

*塩原温泉:栃木県那須塩原市 塩化物泉、硫酸塩泉など11の温泉 40℃〜77℃
 http://www.siobara.or.jp/welcome.stm


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 上の写真は日本列島お国自慢より

智恵子の最後の温泉

高村光太郎が智恵子を連れて
塩原温泉に行ったのは昭和8年の夏の終わりだった。

それはすでに精神を病んでいた智恵子のための温泉めぐりで
塩原には最後に立ち寄って十日ほど滞在している。
宿の下には川が流れ、涼しい水音が聞こえていた。
晴れた日にはヒグラシも鳴いた。
宿に出入りする写真屋はふたりの写真を撮った。

この旅の前に、光太郎は婚姻届を出し智恵子を入籍している。
自由な結婚を19年つづけた末に
光太郎は病気の智恵子を一生背負っていく決心をしたのだろうか。

塩原温泉は智恵子が最後に旅した場所になった。

*塩原温泉:栃木県那須塩原市 塩化物泉、硫酸塩泉など11の温泉 40℃〜77℃
 http://www.siobara.or.jp/welcome.stm



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与謝野晶子の温泉めぐり

与謝野晶子が温泉めぐりをしていたことは
案外知られていない。
なにしろ子供は11人いるし、
来る仕事をことごとく引き受けても
家計は苦しかったし
今日の食べものにも事欠いているときに
石川啄木は切手を貼らないで原稿を送りつけてくるし。

それでも晶子は北海道から鹿児島まで
70ヵ所以上の温泉をめぐっている。

おかげで全国各地の温泉に
与謝野晶子の歌碑や色紙、ゆかりの宿がある。

これだけ働いた人が行った温泉は
さぞ疲れが取れるに違いない。

*川原湯温泉 栃木県吾妻郡 塩化物・硫酸塩温泉 71℃
 http://www.kawarayu.jp/
*湯宿温泉 群馬県利根郡 硫酸塩泉 63℃
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/onsen/yujuku.html

yosano

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厚焼玉子 09年5月31日放送

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ラウカディオ・ハーンと日本の音1 ヘルン

日本に来て松江の英語教師になったラウカディオ・ハーンには
もうひとつの呼び名があった。

ヘルン先生

それはハーンをローマ字にしてそのまま読んだ
日本風の名前だったが
ヘルンという言葉の響きがすっかり気に入ったハーンは
違いますよ、と直すこともせずに
そのままヘルン先生で通してしまった。

名前だって呼ばれるときは音になるのだから
親しみやすい方がいいに決まっている。

おかげで21世紀になっても
松江に行くとヘルン先生の人気は高い。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音2 怪談

お母さんや近所のおばあさんが
子供たちに話して聞かせる物語は
その土地土地の言葉で伝えられていく。

ラウカディオ・ハーンもまた子供のように
妻の節子にお話をせがんだ。
耳なし芳一、狢、雪女…
そうして一冊の本ができた。

その本のタイトルはローマ字で書かれた日本語で
「KWAIDAN」(くゎいだん)
「怪談」のKとAの間にWが入って「くゎいだん」
それは節子が口にしたままの音だった。

関西より西の地域では古い言葉がいまも残り
お年寄りの口から、古めかしく耳にやわらかい言葉の響きを聞くことがある。
「火事(かじ)」ではなく「くゎじ」
「けんか」ではなく「けんくゎ」

ラウカディオ・ハーンの「KWAIDAN」には
なつかしい言葉の響きが残されている。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音3 山鳩

テテポッポー、カカポッポーと鳴くのは
山鳩だった。
ラウカディオ・ハーンが住んでいた松江の家の
裏の森で鳴く山鳩は
テテポッポー、カカポッポーと鳴いた。

幼いときから両親と離れて暮らし
家族にあこがれつづけたハーンは
その意味を知って涙した。

テテはお父さん、カカはお父さん
ポッポはふところ。

「お父さんのふところ、お母さんのふところ」と鳴く山鳩の声は
ハーンにとってもっとも心地よい日本の音になった。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音4 下駄

It is a sound never forgotten,this pattering of geta over the Ohashi--rapid,merry,musical,1ike the sound of enormous dance;

それは忘れられない音だ。
大橋を渡る下駄は、足早で、ほがらかで、音楽的で、
大がかりな舞踏会の響きにも似ている。

ラウカディオ・ハーンが
松江大橋を渡る下駄の音を描いた原文と日本語訳を
お伝えしました。

足音まで音楽だった日本がかつてあったことを
ハーンは教えてくれています。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音 5 エンジンの神楽ばやし

松江から出雲へ
いまならひと走りの距離も
ラウカディオ・ハーンの時代には
小さな蒸気船で宍道湖を渡る旅だった。

ハーンは日本に暮らすようになってから
文明を連想させる音を極端に嫌うようになっていた。
電信も電話も、蒸気船も…..。

けれども、青い湖水と緑の丘と
さらにその背後に霞む山々を見ていると
船のエンジンの音も
神の名を唱える神楽の囃子のように聞こえてくるのだった。

いま、日本の街には乗り物の音が
逃げ場なく充満している。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音 6 土塀のなかの静寂

ラウカディオ・ハーンが住んだ松江の家は
土塀に囲まれた武家屋敷。
松江城のお堀のそばに建っていた。

その家には三つの庭があり、
ハーンが「音もなく流れていく静かな流れの岸辺」と書いた南の庭は
実際には水がなく、砂を水の流れに見立てた庭で
蜂の羽音まで聞こえる静寂にひたることができた。

北の庭には池があり、ハーンはこの庭で
蓮の葉をたたく雨の音やカエルの合唱を楽しんでいた。

三番めの庭は「野の花の荒れ地」とハーンは書いている。
夜明けから日暮れまで、小鳥の合唱が聞こえ
夜は夜でフクロウが鳴いた。

電信も電話も新聞も汽船もうるさすぎる。
近代化はどうして耳障りな音と一緒にやってくるのだろう。

ハーンは、そんなことをぼやきながら
松江の庭の土塀に守られて静かに暮らしていた。

060515-14

ラウカディオ・ハーンと日本の音 7 守られた静寂

ラウカディオ・ハーンが松江を去って十数年、
日銀に勤めていたある人物がハーンの本を読んだ。
それはドイツで発行された洋書で
「知られざる日本の面影」の英語版だった。

読んで驚いた。
ハーンが本の中で魅力あふれる庭と紹介しているのは
ふるさとの自分の家の庭だったのだ。

それから松江に帰ったその人は
建て増しした部屋を取りこわし
埋めてしまった池をもう一度掘って
ハーンが住んでいた当時の姿に復元してしまった。

自分の住んだ静かな家が工場に呑み込まれることを心配し
心を残しながら松江を去ったハーンの予想は
うれしくはずれ
お堀のそばの武家屋敷はいまでも静かに保存されている。

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ラウカディオ・ハーンと日本の音 8 八雲とハウン

小泉八雲、というのが
ラウカディオ・ハーンが日本に帰化し
日本人になったときの名前だ。

八雲を音読みするとハウンになるという事実は
多くのファンを喜ばせているが
本人にそんなつもりはなかったと
弟子のひとりは語っている。

けれども、繊細な日本の音を聞き分けるハーンの耳が
八雲がハウンになることに気づかなかったわけはないのだ。

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