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「ボサノヴァ」ナラ・レオン
ボサは「隆起、傾向、素質」といった意味。
ノヴァは「新しい」。
つまりボサノヴァは、ニューウェイブだった。
ブラジルでの全盛期は1950年代の終わりから
60年代の前半ころまで。
その後はもっとテンポが早く、
リズミカルな音楽が流行っていく。
美しいメロディ、ハーモニーと
心地よいリズムにのった
プライベート・ウィスパーソング
ナラ・レオンがボサノヴァを表現する言葉。
まるで彼女自身のようだ。
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「ボサノヴァ」ナラ・レオン
ボサは「隆起、傾向、素質」といった意味。
ノヴァは「新しい」。
つまりボサノヴァは、ニューウェイブだった。
ブラジルでの全盛期は1950年代の終わりから
60年代の前半ころまで。
その後はもっとテンポが早く、
リズミカルな音楽が流行っていく。
美しいメロディ、ハーモニーと
心地よいリズムにのった
プライベート・ウィスパーソング
ナラ・レオンがボサノヴァを表現する言葉。
まるで彼女自身のようだ。
GlevumSunday
「小鳥のような声」ナラ・レオン
1959年、秋、海軍兵学校で開かれたコンサートで、
ナラ・レオンは、始めて舞台に立つ。
みなさん、ボサノヴァの一番若いメンバーを紹介します。
今日、始めて人前で歌います。ナラ!
そう紹介されるとナラは、パニックになった。
お客さんに背を向けて、半泣きで歌った。
けれどもその歌は大喝采を受けた。
かわいらしいヒザと前髪、
小鳥のような歌い方、ギターの腕前のよさ。
コパカバーナの少女、ナラ・レオンは、
徐々に人気を獲得していく。
各地でライブに呼ばれ、レコーディングに参加する。
1963年、プロとしての初仕事となる演劇作品
「哀れな金持ちの娘」に出演する。
マスコミもナラを賞賛した。
ナラ・レオンは、将来もっと上手になるだろうと
思わせるギターを弾き、とても音感がよく、
素晴らしい声を持っている女の子だ。
こうして、ボサノヴァのミューズへの第一歩を踏み出した。
ditadura3
「ボサノヴァとの訣別」 ナラ・レオン
デビューから、瞬く間に人気を博していった、ナラ・レオン。
いつからか「ボサノヴァのミューズ」と呼ばれるようになった。
このころブラジルの政情は、不安定だった。
ナラは、愛や海や花をモチーフにするボサノヴァの歌詞に
否定的になっていった。ミューズと呼ばれることも気に入らなかった。
自分の言いたいことを主張している音楽を求め始めた。
そして1964年4月1日、ブラジルで軍事クーデターが起こった。
その2週間後、ナラは「オピニオン」という歌をコンサートで歌う。
殴ったっていい
捕まえたっていい
何も食べ物が与えられなくてもいい
でも私は意見を変えない
ナラは、マスコミから自分を「反逆分子」と思うかと問われる。
軍事政権に賛成しないのか、と。
人々の悲劇や、問題、悲しみ、苦悩や喜びを歌うのが
「反逆分子」なら、そう呼ばれることから逃れられないわ
「パリへ」 ナラ・レオン
ブラジルの軍事政権は検閲という圧力で、
アーティストたちの表現の自由を奪っていった。
軍警察はナラ・レオンを逮捕したがっているという情報がはいる。
ナラと夫の映画監督カカー・ヂエゲスは、
ブラジルから出国し、パリに移り住んだ。
ナラは、パリでとても幸せだった。
誰も私のことを知らなかったし、
普通の生活ができたの。
ナラは、ボサノヴァのミューズであることからも解放された。
pincusvt
「再び、美しきボサノヴァのミューズ」 ナラ・レオン
1970年、ナラ・レオンはパリで穏やかな生活を送っていた。
ブラジルの音楽にフランス語の歌詞をつけたり、
フランス語からポルトガル語の歌詞を作る仕事をしていた。
そして、音楽を通じて「ブラジル」を見いだしたいと思っていた。
軍事政権の灰色のブラジルではなく、
思春期時代の希望に満ちたブラジル。
上手く説明できないのだけれど、
でも、急に、唯一歌いたいと思ったのが
ボサノヴァだったの。
ギターを手に取って歌いはじめた。
そこにブラジルから、ナラ・レオンのアルバムを
録りたい、という手紙が届く。
ボサノヴァ集だった。
ナラは、再び音楽が好きになった。
そのアルバムのタイトルは
「美しきボサノヴァのミューズ/Dez anos depois」
女神は帰ってきた。
「作家の時間割」トーマス・マン
午前8時前に起きる。
妻とコーヒーを飲み、
風呂に入って着替え、
8時半に妻と一緒に朝食をとる。
9時に書斎に入ったら、来客にも電話にも家族の呼びかけにも
一切応じない。
ベニスに死す、魔の山などを著したトーマス・マンの
仕事の時間割だ。
すべての文を完璧に
すべての形容詞を的確に
歯を食いしばって一歩ずつ、ゆっくりと進む
子どもたちは9時から正午までは
絶対に物音を立ててはいけないと躾けられた。
自分にも家族にも厳しい創作活動だった。
「作家の時間割」オノレ・ド・バルザック
午後6時に軽い夕食をとった後、ベッドに入って寝る。
午前1時に起きて書きもの机の前に座ると7時間ぶっ通しで書く。
午前8時から1時間半仮眠。
午前9時半から4時まで仕事。
19世紀フランスを代表する作家バルザックは、
自分を容赦なく追い込んだ。
大きく膨れ上がった文学的野心と次々に訪れる借金取りと
際限なく飲むコーヒーがそれを後押しした。
私は生きているのではない。
自分自身を、恐ろしいやり方で消耗させている。
だが、どうせ死ぬなら、
仕事で死のうと他のことで死のうと同じだ。
自身を削り、1日1日が、日なたにおいた氷のように溶けていくと感じながら、
90篇あまりにわたる「人間喜劇」を執筆したのだ。
「作家の時間割」ボーヴォワールとサルトル
人は女に生まれるのではない、女になるのだ
「第二の性」を著した女性作家シモーヌ・ド・ボーヴォワール。
20世紀フェミニズム運動の象徴的存在であり、
実存主義の哲学者サルトルのパートナー。
二人の間には「お互いに自由に恋愛し、それを一切隠し立てしない」
という取り決めがあった。
ボーヴォワールは朝起きて恋人とお茶を飲んでから
10時ごろに仕事を始める。1時ごろまで続けると、
サルトルのところへ行って昼食をとる。
恋人と一緒の時もあった。
それからサルトルのアパートで3、4時間、
黙って二人で仕事をする。
恋人がいるときは、夕食の後、自分のアパートに帰る。
サルトルは、自分のアパートで正午まで仕事をすると、
秘書が予定をいれた会合に1時間ほど出かける。
1時半にはボーヴォワールと一緒に食事してから仕事。
夜は政治集会に出かけたり、社交の場に行ったり、
ボーヴォワールと映画を見たり。
そしてバルビタール系睡眠薬を飲んで
2、3時間死んだように眠る。
それほど長時間働かなくても、豊かな結果を生むことはできる。
とサルトルは言う。
2人の奇妙で几帳面な関係は50年という長時間続いたのだった。
「作家の時間割」ジョルジュ・サンド
ほとんど毎晩、最低でも20枚の原稿を書く。
女性作家、ジョルジュ・サンド。
男装趣味や数々の男性遍歴、ショパンとの逃避行など、
自由奔放なイメージがあるが、仕事ぶりは真面目だった。
いつも夜遅くに執筆する。
それは10代の頃、病弱な祖母の世話をしていて
身についた習慣だった。
夢遊病のようになって書いていたこともあった。
書いたものを棚の上に置いておかなかったら
タイトルすら思い出さなかっただろう。
それでも彼女は書く。
夜はサンドが一人で考えることのできる
唯一の時間だったから。
「作家の時間割」シラー
夜、突然、机の前の椅子にどすんと座る。
それから冬には午前4時か5時まで机についている。
夏は午前3時まで。
そのあとはベッドに入り、たいてい9時か10時まで寝る。
ドイツの詩人で歴史学者、哲学者、劇作家でもあった
フリードリヒ・シラー。
邪魔が入るのを嫌い、ほとんど夜にだけ仕事をした。
手元には濃いコーヒーかワイン入りのチョコレート。
年代物のライン産ワインかシャンパンということも多かった。
それらをときどき口にして疲れをとる。
そして、ひっきりなしにタバコを吸う。
嗅ぎタバコも欠かせなかった。
そのうえ、仕事部屋の引き出しのひとつに
腐ったリンゴをいっぱい入れていた。
リンゴが腐敗していくにおいが執筆を促す刺激として
必要だと考えていたのだ。
この習慣のせいでシラーは病気がちになっていった。
それでも深夜の創作をやめられなかった
我々は貴重な財産 -時間- を軽んじてきた。
時間の使い方を工夫することによって
我々は自分を素晴らしい存在に変えることがことができる
「歓喜に寄せて」。のちにベートーヴェンが「第九交響曲」を書いた詩も、
この邪魔の入らない時間に生まれたのかもしれない。
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