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三島邦彦 11年8月14日放送



前を向く言葉/小津安二郎

映画監督、小津安二郎。
「東京物語」や「秋刀魚の味」など、
人生の機微を淡々と描く独自の作風で、
世界中の映画監督に大きな影響を与えた。
国内では戦前から若き巨匠としてその名を知られていたが、
33歳で徴兵され、
「ちょっと戦争に行ってきます」という言葉を残して、
2年間を中国で過ごした。

帰国後第一作は、「戸田家の兄妹」。
一人の軍人も出てこない、ホームドラマだった。
映画記者の、戦争映画を撮らないのかという質問に、小津はこう答えた。

何?今度の映画かい?戦争ものじゃないよ。だって考えてもみたまえ。
二年間も毎日泥んこの中に足をつっこんで来ているのに、
また映画でそれをすぐやれるかというんだ。

その後も小津は、人々のささやかな生活にひそむドラマを描き続け、
生涯一本も戦争映画を撮らなかった。
小津の戦争から帰国してすぐのインタビューに、こんな言葉がある。

生まれたことを感謝しなくちゃいかんのだよ。
自分がこの世に生きているという事実に対して、自信を持ち、
生き甲斐を感じなくちゃいかんのだね。



前を向く言葉/藤沢周平

小説家、藤沢周平は、18歳で終戦を迎えた。
世の中の価値観が大きく変わりゆく様を目にして、
これまで見知らぬ他者が自分の運命を左右してきたことの恐ろしさに気がついた。
藤沢は、後にこう語る。

いざというそのときに、
自衛隊から借りた銃を持って辺地に行くか、
それとも家の中で降服のための白旗を縫うかは、
今度こそ自分で判断するつもりである。

30歳を過ぎて本格的に作家となった藤沢周平。
「蝉しぐれ」「たそがれ清兵衛」などの時代小説にはどれも、
歴史の表舞台には登場しない主人公たちの、
一世一代の決断が描かれている。

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三島邦彦 11年7月17日放送



ヨーロッパの芸術家/ ジョアン・ミロ

20世紀絵画の巨匠、ジョアン・ミロ。
バルセロナに生まれ、パリで花開いた彼は、
狭い世界に閉じこもるのを嫌い、
作家のヘミングウェイなどと交友を深めた。
シュルレアリスト達を魅了したその奔放な作風は、
こんな言葉からもうかがえる。

リアリティは出発点であって、到達点ではない。

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三島邦彦 11年7月17日放送



ヨーロッパの芸術家/ カズオ・イシグロ

長崎で生まれたひとりの男の子が、
4歳の時、両親に連れられイギリスへと渡った。

男の子の名前は、カズオ・イシグロ。
約30年後、3作目の小説『日の名残り』が、
イギリス最高の文学賞、ブッカー賞を受賞し、
現代イギリス文学を代表する作家のひとりになった。

日本を舞台にした作品と、ヨーロッパを舞台にした作品。
その両方で、ヨーロッパや日本という地域性を超えて人間の奥深くを見つめる、
イシグロ独自の世界を展開する。

彼の作品を彼の作品たらしめるもの。
それを彼は、「声」だと言う。
「声」について、彼はこう語る。

本物の作家になるというのは、
本を出すかどうかなんてことではかならずしもなく、
一定の技巧を身につけるということでもない。
自分の声を見つけた時点で、人は本物の作家になるのです。



ヨーロッパの芸術家/モーツァルト

最も天才という言葉がふさわしい音楽家、モーツァルト。

自分の息子が天才だと気付いた父親は、
ウィーン、パリ、ロンドン、そしてイタリアへ、
息子を連れて何度も演奏旅行に出かけた。
6歳の時にはウィーンで7歳のマリー・アントワネットに出会い、
7歳の時にはフランクフルトでゲーテにその才能を認められる。

ヨーロッパの全てが、彼の才能を祝福し、彼を音楽家として成長させた。

音楽家にとっての旅の重要性について、彼はこう語る。

旅をしない音楽家は不幸です。
才能がある人も、一か所にとどまっているとダメになってしまいます。

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三島邦彦 11年6月12日放送



あの人の師/萩本欽一

コメディアン、萩本欽一。
浅草の劇場で働き始めて5ヶ月目、
父親の家が火事になった。
当時まだ見習いの欽ちゃんの月収は3千円。

しばらくは違う仕事に就こう。
そう決めて、師匠の池信一へ申し出た。

数日後、師匠から呼び出された。

お前な、ここにみんなが出してくれた金がある。 

4万5千円。一年分の給料より多い金額。

  すごいだろ、みんなが500円ずつだしてくれた。
  そうじのおばちゃんも500円だしたんだぞ。
この4万5千円を使い切るまでは、ここにいな。

その日、大泣きをした欽ちゃんが、やがて、日本中を笑顔にすることになる。



あの人の師/大杉勝男

その日はきれいな月が出ていたという。

1968年9月6日、
後楽園球場では東映フライヤーズと
東京オリオンズの試合が行われていた。
試合は両者譲らず延長戦。
11回の裏、大杉勝男(おおすぎ かつお)に打順が回ってきた。
大物ルーキーとしてプロ入りし、3年目でレギュラーを獲得したものの、
ここしばらくはスランプに苦しみ、この日もここまでノーヒット。

そんな大杉のもとへ、打撃コーチの飯島滋弥(いいじま しげや)が近寄った。
飯島は、バックスクリーンの上にぽっかりと浮かんだ月を指差して言った。

 あの月に向かって打て。

「この言葉で、ホームランの打ち方がわかった。」後に大杉はそう語る。

大杉の打球は、月に向かって高々と舞い上がり、
美しい放物線を描きながら歓喜に湧くスタンドに突き刺さる。

後に2度のホームラン王になる強打者が誕生したきっかけは、
師がくれた、わかりやすく、美しい、たったひとつの言葉だった。

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三島邦彦 11年6月12日放送



あの人の師/竹本住大夫

伝統芸能、文楽。
物語の語り手を「太夫」と呼ぶ。
人間国宝、七代目竹本住大夫(たけもと すみたゆう)は、
父も人間国宝という文楽の家に育ったが
父の勧めにより進学した。

しかし徴兵され、戦地におもむく送別会で
義太夫を語る住太夫を見て父は言った。

 お前そないに好きやったら、帰ってきて太夫になれ

これはしめた、生きて帰ろう、と
住太夫は決心したそうだ。

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五島のはなし(143)

Visionの書き手のひとりである三島邦彦くん。
おばあさんが五島の富江出身という。
それはまあいいとして
彼が貸してくれた「日本の漁師」が相当よい。

各地の漁師さんに話を聞いてまとめたものです。
大事なことがいっぱい書いてます。
作者(というか「聞き書き手」である)塩野米松さんの文章もよいです。

マーケティングとかも大事かもしんないけど
こういう本も学校の必須の教科書にしたらどうかなあ。

新成長戦略とかなんとかそんな言葉に踊らされて、
やんなくていいこといっぱいやってんじゃないのかなあ。
そしてそのやんなくていいことをめいっぱい
後押しするような仕事を自分はやってるのではないかなあ。
新成長しない戦略のほうが、いま、もっと大事なんじゃないかなあ。
わからん。ほんと、わからんことばっかり。

五島の海を思いつつ。

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三島邦彦 11年5月22日放送



生き物のはなし/コンラート・ローレンツ

卵からかえったひなは、
最初に見た生き物を母親だと思いこむ。

この、「刷り込み」理論の研究などで、
動物行動学をうちたてたノーベル賞学者、コンラート・ローレンツ。

従来の動物学の主流であった解剖による研究とは一線を画し、
生きた動物とともに暮らし、
徹底的に観察することによって、
その行動に隠された法則を発見した。

幼いころから家に様々な動物を引っ張り込んでは
熱心に観察していた彼。

一緒に暮らす両親や妻の忍耐が、
彼の生き生きとした発見を支えていた。
彼はそんな自らの研究生活への
家族の理解に深く感謝し、こう語った。

 ネズミを家の中で放し飼いにして、そいつが家じゅう勝手に走りまわり、
 敷物からきれいなまるい切れはしをくわえだして巣をつくっても
 我慢してくれ、といえる夫は、私のほかにはいそうもない。



生き物のはなし/ファーブル

「哲学者のように思索し、芸術家のように観察し、
詩人のように感覚し表現する偉大なる学者。」
と称えられた昆虫学者、ファーブル。

彼が人生をかけて何度も追加や修正を繰り返した『昆虫記』は、
単なる観察記録に終わらず、世界への発見に満ちている。

晩年、その『昆虫記』の決定版を完成させるにあたり、彼はこう語った。

 昆虫の世界は実にあらゆる種類の思索の糧に富んでいる。
 もしも私が生まれ変わり、また幾度か長い生涯を再び生き得るものとしても、
 私はその興味を汲みつくすことはないであろう。

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三島邦彦 11年5月22日放送



生き物のはなし/大根常雄さん

海の命を恵みとして受け取る仕事。それが漁師。
石川県の漁師、大根常雄(おおね つねお)さんは、
無数の生き物たちを抱える能登の海について、こう語る。

 海はちゃんとうめえようになっとる。
 ここは恵まれたいい海よ。
 船を下りても、年寄りはみんな海を見に、毎日きとるわ。

人間もまた、海に育てられる生き物のひとつのようです。

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三島邦彦 11年4月16日放送


チャップリンとあの人/放浪紳士チャーリー

「チャップリン」と聞いた時に浮かぶあの顔。

真っ白な顔に口ひげを生やし、だぶだぶズボンに小さな上着、
大きな靴をはいてステッキを持つあの姿。
その名も、放浪紳士チャーリー。
自らが映画の中につくりあげた
このキャラクターをチャップリンはこう説明する。

 小さな口ひげは虚栄心。
だぶだぶなズボンは、人間の不器用さ。
大きなドタ靴は貧困の象徴。
 窮屈な上着は貧しくても、品よく見せたいという
必死のプライドを表してるんです。

人がいちばん笑うものは、人間らしさ。
いちばん泣くのも、人間らしさ。
チャップリンはそのことを誰よりも知っていた。


チャップリンとあの人/ ヒトラー

同じ年の同じ月に生まれた二人は、どこか顔も似ていた。
チャップリンとヒトラー。
誰よりも人間を愛し、映画を通じて世界にその愛を伝えていたチャップリンと、
誰よりも人間を憎み、暴力を通じて世界にその力を誇示したヒトラー。
チャップリンにとってヒトラーは、どうしても無視ができない存在だった。

1939年、ヒトラーのポーランド侵攻のニュースを聞いたチャップリンは、
妻であり女優のポーレット・ゴダードを主人公にした映画を撮る計画を中止し、
『独裁者』という作品を制作する。
ヒトラーを批判し、馬鹿にするには言葉が必要だと考えたチャップリンは、
かたくなに守り続けてきたサイレントを捨て、
初めて台詞を映画に取り入れた。
そうして、暴力を否定し人間の愛を訴える、
映画史に残る6分間のスピーチが生まれた。
  
他人の幸福を念願としてこそ生きるべきである。
 お互いににくみあったりしてはならない。
世界には全人類を養う富がある。人生は自由で楽しいはずである。 


チャップリンとあの人/ジャン=リュック・ゴダール

その作品の難解さでいつも世界を戸惑わせるフランスの映画監督、
ジャン=リュック・ゴダール。
映画研究家でもある彼は、チャップリンをこう評した。

 彼はあらゆる賛辞を超えたところにいる。それは、最も偉大な映画作家だからだ。

子どもにも、大人にも、ゴダールにも。
チャップリンは、笑われ、愛され、尊敬された。

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三島邦彦 11年03月26日放送


あの人の師/吉川英治

天下をとる人は、誰を師とするのだろう。
作家、吉川英治の答えは、
豊臣秀吉の一生を描いた『新書太閤記』に書かれている。

どんな凡下な者でも、つまらなそうな人間からでも、
彼は、その者から、自分より勝る何事かを見出して、
そしてそれをわがものとして来た。

小学校を中退して以来、職を転々とし、
独学で己の小説を磨いた吉川英治もまた、
出会うすべての人が師であった。
我以外皆我師(われいがいみなわがし)、
吉川が好んで色紙に書いた言葉である。

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