‘中村直史’ タグのついている投稿

五島のはなし(136)

茶髪の女の子がふたり
キャーとかアハハとかいいながら
海を眺めておりました。

高浜海水浴場

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中村直史 11年5月22日放送



生き物のはなし/ルドルフ・シェーンハイマー

「私」という存在は何者なのか。
その難題に答えを出そうとしてきたのは
哲学者だけではない。

科学者もまた、
「私」が何者かを探し続けてきた。

その中でも
1930年代に活躍した生物化学者
ルドルフ・シェーンハイマーの研究は
「私」のとらえかたに大きな変革をもたらすものだった。

シェーンハイマーは体の中にとりこまれた食物が、
どのように体の一部となり、
どれくらいの期間とどまり続けるのかを解明した。

その結果、驚くべきことに、
動物の細胞はほんのわずかの期間に
どんどんいれかわっていることがわかった。

つまり、物質的な意味で言えば、
今日の「私」は、数ヵ月後にはもうまったく違う「私」になっている。
シェーンハイマーはこういった。

 生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが、生命の真の姿である。

私という存在は
言ってみれば、移りゆく粒子のよどみ。
そう聞くと、少し世界が変わってみえませんか。



生き物のはなし/阿部宗明

その魚は、自分につけられた名前に
少しがっかりしているかもしれない。
その名も「ウッカリカサゴ」。

名づけ親と言われているのが、
魚類学者である阿部宗明(あべときはる)。

うっかりすると、カサゴと区別できない。
そして、日本の学者が毎日見慣れたカサゴが
別種だったことをロシアの学者に発表され、
「いやはやうっかりしていた」と、この名前がついた。

ちなみに、カサゴは体の斑点が不明瞭なのに対して
ウッカリカサゴの斑点はくっきりしている。

このつぎ魚屋さんに行ったら
じっくり観察してみませんか?
うっかりしなければ、
きっと見分けることができるはず。

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五島のはなし(134)

あ、そうそう、
あこがれのヒラスズキを
つれてきたのは
このルアー。
名をコモモという。
幸運を運ぶ使者のようで
なんかこうすっかり愛着が。

背景の本もよかったとよ

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五島のはなし(133)

五島は遣唐使が中国大陸へと渡る
その最後の寄港地だった。
つまり、中国からとても近いということになる。
そういうわけで黄砂。
鼻くしゅくしゅ、
目はしょぼしょぼ
やっかいだけど、なにげにこれが、
よい感じの朝の景色を生んだりもして。

黄砂の朝

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五島のはなし(132)

ゴールデンウィーク五島にいて
ラクだなと思って
なにがラクかなって思ったら
ひとつは中づりがないことだった。

むやみに情報がとびこんでこない。
そして穴を掘れば貝が出る。

筋肉痛になったとよ

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五島のはなし(131)

いっしょに釣りにいってくれた
クウルさんは
五島の海を知りつくしていて
すっとよいポイントをあけてくれる。
釣ったんじゃなくて、釣らせてもらったんやろうね。

んでも、ずーっと釣りたい魚だったので、
もうなんというか
なんもかんもがいっぺんにふきだすかんじで。

ヒラスズキというんれす。

手がふるえたとよ

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中村直史はなぜあの大物写真を掲載しないのか?

なにしろ、突然メールが来たかと思うと
巨大なヒラスズキ、釣り人のあこがれヒラスズキの大物を
両腕で抱きしめている写真が添付され
憎らしいとに「デスクトップの写真にどうぞ」と
書いてきやがった中村直史。

なぜここでその大物釣りを報告しないのだろう。
さては合成写真か?
それとも他人の釣果なのか??
あの写真は疑惑に満ちている…(玉子)

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中村直史 11年4月16日放送


チャップリンとあの人/淀川長治

13歳ではじめて「キッド」という映画を見た。
泣けて泣けてしかたがなかった。
笑いを求めて映画館にやってきた観客が皆泣いていた。

映画評論家 淀川長治は
大正10年のある日のことを思いだしてこう話した。

生涯、たくさんの映画に魅了されつづけ
そして、その素晴らしさを
伝えつづけた淀川長治。

けれどその中でも、チャップリンの映画は別格だった。
とあるインタビューで
淀川さんにとって映画と言ったら?と聞かれ、
迷わず「チャップリンですよ」と答えた。

 チャップリンは私にとって生きた映画の神様です。
 映画の神様で人生の神様です。
 生きること、愛すること、
私は人生のすべてをチャップリンの映画から学びました。

今日4月16日はチャップリンの誕生日。
あの淀川長治にここまで言わしめた
チャップリン映画を見返してみる、
いい機会かもしれませんね。

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中村直史 11年03月26日放送


あの人の師/新藤兼人

「裸の島」「午後の遺言状」など、
世界に誇る作品を送り出してきた
映画監督、新藤兼人(しんどうかねと)。

彼には、師と仰ぐひとりの映画監督がいた。
その名は溝口健二。
巨匠と呼ばれるその映画監督の人となりを描きだそうと、
新藤は関係者にインタビューを重ね、それを一本の映画にする。
映画に入りきらない分は、一冊の本となった。
タイトルは「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」。

女優やカメラマンなど
親交の深かった36人の証言から
浮かび上がる溝口健二像は、一言では言い表せない。
崇拝され、恐れられ、親しまれ、嫌われ、喜ばれた。

そんな、一言では言い表せない人だったからこそ、
型にはまった、安易な人間の描き方を決してよしとはしなかった。
溝口はこんな言葉を残している。

悲しくて滑稽で、それでほほえましくて、しかもそれでいて
どこか腹だたしい話を、その人間を通してまるごと描くんだ。

そうして撮られた溝口のフィルムに、
若き日の新藤兼人が見たものは、
「映画」ではなく
「真実としかいえないもの」だった。

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中村直史 11年01月09日放送


二十歳のあなたへ/赤川次郎

人気作家、赤川次郎は
二十歳のころ、自分の時間を守るのに必死だった。

実家の家族を支えるために、
高校を出てすぐに勤めに出たけれど、
小説を書く時間まで奪われたくない。

飲み会をはじめとする
会社の行事を断るのは
今よりずっとタブー視された時代だった。

 つきあいが悪いと幹事やらされるんですよ。
 その時だけやって、次からまた行かないんです。

自分を守り抜いた先には、500にも及ぶ作品と
新作を心待ちにするたくさんの読者が生まれた。


二十歳のあなたへ/松本零士

それは、宇宙戦艦ヤマトが
宇宙へと飛び立つずっと前のこと。

九州から700円を握りしめ上京してきた若き漫画家、松本零士は、
二十歳のころ、貧乏アパートの一室で
自分の個性を探していた。

個性は、ふつう、自分の中にあるもの。
けれど松本さんの場合、
彼の下宿に集まるゆかいな仲間たちが運んできてくれた。
喧嘩っぱやいやつ、
寡黙なやつ、
一年お風呂に入らないやつ、
いろんな仲間がいたけれど
わかったのは、「結局みんな同じ」ということ。
さまざまな個性の奥にある「同じもの」の発見が、自分の個性になると思った。

 友人がいっぱいいたから、友人抜きの自分って存在しないんです。

だから松本さんの漫画には、みんなで旅をする話が多い。
ヤマトの乗組員たちも
得意、不得意を補いながら旅をしている。

明日、大人の社会へと旅立つみなさんも、
ぜひ、素敵な旅を。

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