‘澁江俊一’ タグのついている投稿

澁江俊一 14年9月21日放送

140921-03

宮沢賢治と冬眠

今日9月21日は、
宮沢賢治の命日である。

詩人、草野心平に
「冬眠」という詩がある。

冬眠というタイトル以外に言葉は何もない。
ただ黒い丸がひとつ書かれただけ。
世界で最も短い詩とも言われている。

ただの記号じゃないか。
こんなものを詩と呼ぶべきではない。
1951年の発表当時、
この詩は様々な議論を呼んだ。

しかし冬眠というタイトルとともに
この黒い丸を見ていると
様々なイメージが浮かんでくる。

心平が好んで詩に描いた蛙が
その黒い丸の中ですやすやと
眠っているようにも見えてくる。

草野心平は同じ東北出身の
宮沢賢治を生前から高く評価し
死後その再評価に尽力した。

もしも賢治が長生きして
この詩を読んでいたら、
きっとにっこり笑って
心平に激励の手紙を
書いたのではないだろうか。

topへ

澁江俊一 14年9月21日放送

140921-05
mila-sera
宮沢賢治とはっぴいえんど

今日9月21日は、
宮沢賢治の命日である。

松田聖子の大ヒット曲「風立ちぬ」。
作詞は松本隆、作曲は大瀧詠一。
日本語ロックの草分け、
はっぴいえんどの2人だ。

リリースの直前に、
松本は最愛の妹を病気で亡くしている。

 草の葉にくちづけて
 忘れたい 忘れない あなたの笑顔
 想い出に 目を伏せて
 夏から秋への 不思議な旅です

「風立ちぬ」の歌詞を松本が妹へ贈る
別れの歌だと読み解く人も少なくない。

松本が大きな影響を受けたと語る
宮沢賢治もまた死にゆく妹へ
「永訣の朝」という美しい詩を書いた。

 けふのうちに
とほくへいってしまふ
 わたくしのいもうとよ
 みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
 (あめゆじゅとてちてけんじゃ)

はっぴいえんどの解散ライブは
1973年の今日、9月21日。
奇しくも宮沢賢治の命日と同じ日だった。

topへ

澁江俊一 14年8月16日放送

140816-02

金閣寺の炎

今日8月16日は、京都五山送り火の日。
京都という街と炎は、とても、縁が深い。

戦後日本を代表する小説として
世界的にも評価の高い三島由紀夫「金閣寺」。
主人公溝口は、本人にとって
絶対の美であった金閣寺に火を放つ。
実際に起きた事件がモデルとなったこの小説、
なぜ今も世界中で読み継がれるのか。

溝口が燃やしたかった
金閣寺とは、何の象徴なのか?
読者次第で様々な解釈ができることも
国境を超えて読まれる理由だろう。

事件と小説の決定的な違いは
ラストシーンにある。
金閣寺に火を放った後、
溝口の心にふと浮かんだ言葉、「生きよう」。
犯人にはなかった、この生命力にこそ、
この小説がいつまでも愛される理由があるのだ。

topへ

澁江俊一 14年7月27日放送

140726-03

生物学の原則

今日7月27日は、政治を考える日。

かつて政治の原則とは、
まったく違う原則に従って行動した
ひとりの政治家がいる。

社会の習慣や制度は、生物と同様、
相応の理由と必要性から発生したものであり、
無理に変更すれば大きな反発を招く。
現地をよく知り、状況に合わせた政治をおこなうべき。

それが「生物学の原則」。
彼の名は、後藤新平。
岩手に生まれ、医者から政治家になった男だ。

後藤の最初の大きな業績は、台湾の統治だった。
はじめに現地の法制度や風習を徹底的に調査し、
住民の反発を最小限にしながら、
平均寿命がわずか三十歳だった当時の台湾に
農業技術を普及させ、伝染病を減らし、
鉄道や道路やダムをつくった。

それはいわゆる植民地支配のイメージとは
かなりちがったものであり、
現地では今も高く評価されている。

「生物学の原則」
いまこそ多くの政治家に、
もう一度思い出してほしい原則だ。

topへ

澁江俊一 14年7月27日放送

140726-04

大風呂敷

今日7月27日は、政治を考える日。

人を愛し、人に愛された政治家、後藤新平。
時計会社シチズンの命名者であり
NHKの前身、東京放送局の初代総裁でもあった彼はまた
ボーイスカウト日本連盟の初代総裁でもあった。

後藤が描くあまりに壮大な都市計画は、
しばしば「大風呂敷」と揶揄された。
しかし彼は、こんな言葉を残している。

人は日本の歴史に50ページ書いてもらうより、
世界の歴史に1ページ書いてもらうことを心掛けねばならぬ。

その「大風呂敷」は
今の言葉で言うなら「夢」であり「ヴィジョン」だ。
それこそが人々を動かす、最も強い力だと
後藤は誰よりも知っていたのだ。

topへ

澁江俊一 14年6月15日放送

140615-03

作曲家のメモ

1953年に結成した「ビッグ・フォー」で、
アイドルさながらの
人気ピアニストとして活躍していた中村八大には
誰よりも苦しい時期があった。

初リサイタルの失敗、莫大な借金、
極度のスランプ、そして薬物への依存。

それでも助けてくれる友人がいた。
音楽家としての原点に帰るため
八大はアメリカとヨーロッパに渡り
現地で生の音楽を浴びるように聴いた。

そして1961年。
生まれ変わった八大は、
新たな一歩となる「上を向いて歩こう」を
初めて人々の前で演奏する。

中村八大22才のメモにはこんな言葉がある。

「中村八大は誰よりも苦しく、
 誰よりも幸せでなければならない。」

世界中で愛された「上を向いて歩こう」は
若くして苦しみと幸せのすべてを
誰よりも味わった作曲家だからこそ、
生み出すことのできた歌なのだ。

topへ

澁江俊一 14年6月15日放送

140615-04
dreampower-jp
本当はロックンロール

日本の有名なロックンロール!

ライブ中によく、そう叫んでは
「上を向いて歩こう」を歌った忌野清志郎。
その時、会場には必ず、
この上ない一体感が生まれた。

アメリカ遠征中の若きジャイアント馬場や、
日本人初のメジャーリーガー、マッシー村上。
そして野茂英雄…アメリカに渡り、
夢を叶えようとした日本の孤独なヒーローたちを
励ましたこの曲は、清志郎にとって、
間違いなく最高のロックンロールだったのだ。

topへ

澁江俊一 14年5月11日放送

140511-03
m-louis
シンボルの理由

日本サッカー協会の
シンボル八咫烏(やたがらす)。

熊野三山にまつわり、
古事記の時代からあがめられた伝説のカラス。
三本の足を持ち、勝利に導くといわれ
まさに日本サッカー協会にふさわしいシンボルだが
なぜ、八咫烏が選ばれたのだろう。

きっかけは、ひとりの男だった。
中村覚之助(なかむら かくのすけ)。
明治11年、熊野に生まれた覚之助は
学生時代にサッカーと出会い
日本初のサッカー指導書「アッソシェーションフットボール」を出版。
日本初のサッカーチームをつくり、
横浜でアメリカのチームと日本初の対外試合をした。
多くの観衆で盛り上がった試合は2対2の引分けだったという。

しかし日本サッカーの普及を見届けることなく
覚之助はわずか29歳で、この世を去る。

後の昭和6年、
覚之助の後輩で、日本サッカー協会の創設に尽力した
漢文学者、内野台嶺(うちの たいれい)が、
覚之助の故郷、熊野にちなんで八咫烏を
シンボルにしたと言われている。

ああ、伝説のカラスよ。
どうか日本を素晴らしい結果へと、
導いてください。

topへ

澁江俊一 14年5月11日放送

140511-05
IsakFotografi
世界を育てたプレー

80年代に一斉を風靡し、
その素晴らしいプレーで世界中を魅了した、
日本人サッカー選手がいる。
ジダンも、デルピエロも、中田も、メッシも、
彼の存在に大きく影響を受けたと公言する。

その日本人の名は、大空 翼。
世界50カ国以上でTV放送された
マンガ「キャプテン翼」の主人公だ。

野球少年だった原作者、高橋陽一は、
当時マイナーだったサッカーをあえて選ぶ。
努力や根性じゃない、サッカーの楽しさを描こう。
それが高橋の狙いだった。

最初の3話、読者の反応は伸びなかった。
第4話、ストーリーをすべて描き直して
生み出した翼の大技がある。
「オーバーヘッドキック」。
読者アンケートは、大好評だった。

理屈じゃない。
スーパープレーにこそ、サッカーの楽しさがある。

大きな自信を、高橋はつかんだ。
翼とそのライバルたちは
「ツインシュート」「タイガーショット」「スカイラブハリケーン」など
人間離れした大技を、次々と繰り出していく。

子どもたちを夢中にしたその大技が、
世界のサッカーレベルを大きく上げてくれたのだ。

topへ

澁江俊一 14年4月27日放送

140427-03

反抗し続ける哲学者

今日、4月27日は哲学の日。

戦後日本を代表する哲学者、鶴見俊輔。
彼の母、愛子はあまりに厳しい母だった。
大きな家に生まれた人間は必ず悪人になると信じ、
息子に成功や出世を目指すことをまったく望まず、
地道な仕事に就くことを心から願っていた。
そういう彼女の父は、明治日本の超大物、後藤新平なのだから
その複雑な心境は、想像するに余りある。

柱に縛りつけ、何度もひっぱたき、お前は悪人だ!となじる。
激しい折檻を繰り返す母に、幼い俊輔は徹底的に反抗する。
門限を破り、無理にたばこを吸い、
万引きをし、同級生をいじめ、何度も自殺未遂をはかる。
当然、友達はいない。学校に行かず読書にふけった。
中学も2度退学し、逃げるようにアメリカに渡った俊輔は
生まれ変わったように勉強し、ハーバード大学でトップの成績をおさめた。
戦後は常に弱者や少数者の側に立ち、権力に反抗する哲学者として活躍する。
まるで母が望んだ地道な人生を、すべて肯定するかのように。

鶴見俊輔は後に、母について、こう語っている。

 私のあらゆる著作は、
 おふくろが私にした仕打ちに対する答です。

母の暴力の奥深くにあるゆがんだ愛を、
鶴見は痛いほどわかっていたのだ。

topへ


login