安藤隆 2007年1月12日



70歳の男は    
                   

ストーリー 安藤隆                      
出演 大川泰樹            

新宿3丁目の居酒屋で
コピーライターの福岡くんが70歳の男に喋っていた。
女性は失恋しても平均3週間で回復するんですって。
だけど男は平均3ヶ月かかるらしいですよ、と。
70歳の男は「そんなもんでしょ」と口で合わせてひそかなショックを隠した。
なぜなら70歳の男は失恋から立ち直るのに最低でも3年はかかる。
そして70歳の男にとって最後かもしれない、新しい失恋が始まったばかりだった。

70歳の男は55歳くらいに見える。
だけど代償は払っている。
つまり下半身は80歳くらい。
言うことを聞いてくれない。
恋はだから不完全なものだ。
ひどく高い寿司屋に連れてゆきカウンターの下で手を握る。
ひからびた手で湿った柔らかい手を撫で回す。

きょうの朝、70歳の男は、以前女と来た丸の内の大きな本屋の喫茶店へ
ひとりでやってきた。
女が食べたシナモントーストを注文した。
生クリームをたっぷりつけ、はみ出て指についたのを女がしたようにそっと舐めた。
目をつむると女の微笑んだ顔が見えた。
「おいしい」と呟いた女の生暖かい声が確かに聞きとれた。
70歳の男はさっき買ったばかりの黄色の小さな手帳を開き、
1ページめに、ああ、と書いた。

そうやって字を書きはじめたのは70歳の男が18歳だった冬で
生まれて初めての手ひどい失恋の中にいた。
失恋とは結局自分を全否定されるという経験だ。
自分は強く、明るく、人生に祝福された人間だと思いたがっていた甘い18歳が
こわれるのはたやすかった。

あの日の夕暮れ、自転車に乗って走っていた。
胸が急にどきどきした。
何かが起きた。
「僕は自殺する」という未来が不意に見えた。
18歳は必死で家へ戻り部屋に閉じこもってノートに字を書いた。
「何かこわいことが起きた。どうしよう。」と。
こうして本当の自分を受け入れることができるようになるまで
毎日ノートに字を書きつづけることが始まった。

悲しいときに悲しいと書くだけで人は少し息を継げる。
書くことは何をもたらすというよりも、苦しい胸の内をやりすごす作業。
70歳の男は結局失恋したときだけ日記を書く男になった。
そして、きょう、丸の内の大きな本屋の喫茶店で、
買ったばかりの黄色い手帳に、ああ、と書いた。
ああ、の続きを考えて、ああ、だけにした。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP


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