右手と左手
ストーリー 中山佐知子
出演 大川泰樹
右手と左手はなかなか顔を合わせることがない。
右手が包丁を持つとき、左手は玉葱を押さえている。
右手が鉛筆を持つときは、左手はノートの上にある。
顔を洗うときは横並び。
電車の中ではどちらかがつり革を握り
もう一方が本を開く。
キーボードを叩くときは
お互いにずっと下を向いたままだ。
そういえば今日は一度も顔を見ていない、と
左手は思う。
「Very Annie Mary」という映画のタイトルの
Annieという綴りが左手は好きだ。
左手が耳を澄ますと
自分が打つキーボードのAとeの音にはさまって
右手のnとiの音が聞こえる。
それが好きだ。
ピアノならバッハのインベンション1番
あるいは8番。
左手は右手が弾いたばかりのメロディを追いかけて走り
いつの間にか追いついてしまう。
それがとても好きだ。
右手と左手はなかなか顔を合わせるときがない。
腕組みのときは互い違い。
重なり合うときもどちらかが背中を向けている。
でも、右手は左手とぴったりくっついて
左手に背中をあたためてもらうのが好きだ。
右手と左手はなかなか顔を合わせることがない。
だから、右手と左手は
お互いに言うべき言葉を忘れている。
けれど、やがてその瞬間がやってくる。
右手と左手が
何も持たず、何の役目も負わずに
祈りの形に向き合って
双子のように同じ体温を確かめ合う、そのときに
右手と左手は、沈黙のなかから
たったひとつの言葉を見つけ出す。
ありがとう
出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP