瞳の奥の漆黒の、
今夜もまた、
私は掟を破る。
深夜の薄暗いエレベーターホールに
誰もいないことを確かめながら、
マンションのゴミ置き場へ
そろり急ぐ。
コンビニ袋に溜まった
ビールの空き缶たちが
カラカラと情けない音を立てながら、
迷い猫のような私の姿を嗤う。
私が暮らす街は、
空き缶などの資源ゴミを
回収の朝に出すというルールがある。
前夜に出すと、
それを不法に持ち去る輩が
いるからだそうだ。
街の美観、治安が乱れるから。
条例で定められた
指定業者にしか
空き缶は渡すべからず。
理由は山のようにあるらしいが、
持ち去る輩たちにも理由はある。
空き缶、という糧。
その糧を街ぐるみで奪えば、
持ち去る輩が減り、
やがて消えてゆく。
それで街の治安も美観も
保たれるという。
いびつな人間同士の捕食関係。
その禁を、掟を破った者は、
同じマンションに住む
私とあまり歳の変わらない
主婦たちのグループから
吊し上げを食った。
ある夜、
その現場を見咎められた若い女が、
ゴミ置き場の前で
数人の主婦に囲まれ、
責め立てられているところに
出くわしたことがある。
私は大型犬に出会ってしまった
猫のように怯えながら
するりと鬼面の主婦たちの横を
摺り抜け、
ちりちりと焦げるように
心の中で呟いた。
「ねぇ、あなたたちが纏ってる
原色のショールや
アニマル柄のニット。
それに、
あなたたちがベランダに
無様に飾り立てたクリスマスの
イルミネーションの方が、
よほど街の美観を損ねてるよ…」
そんな主婦たちの顔を
思い浮かべながら、
空き缶をひとつひとつ
丁寧にゴミ置き場の籠の中へ
遺棄してゆく。
空き缶たちが音を立てないように、
まるで骨上げをし、
骨壺に収めるほどの慎重さで。
そこに、そのひとは現れた。
漆黒のダウンジャケット。
そのフードを目深く被り、
今流行りのダメージジーンズとは
明らかに違う擦り切れたデニム。
そのポケットに両手を
突っ込んだまま、
私が遺棄する空き缶を
すうっと、見つめている。
「それ、いいですか?」
凍るように身を固くして
構える私に、
とても澄んだ穏やかな声で
話しかけてきた若い男の目は、
とても静かなものだった。
「缶です、空き缶です」
「え?なに?」
「同居人のご飯になるんです」
私はその言葉の意味も解さないまま、
空き缶たちを若い男の手元へと、
がくがくと差し出す。
彼は、私に深くお辞儀をしながら、
とても丁寧にひと言
「ありがとうございます」と
謝辞を述べた。
そして、ゆらりと踵を返し、
街灯の途切れた向こう側の
蹲るようにしてある小さな公園へと
つづく暗がりへと
その姿を溶け込ませていった。
あの夜から、
あのときから、
あのひとが、
私のどこかに触れるようになった。
つぎにあのひとと
言葉を交わしたのは週末。
耳障りなジングルベルをがなり立てる
街のアーケードの路地で
母猫とはぐれた仔猫を
私が見つけてしまったとき。
ただただ、生きようと、
か細く鳴きつづける仔猫を前にして、
途方に暮れていた私の肩越しに、
あのひとは現れた。
彼は仔猫を両手で包み込むように
ふわりと抱き上げると、
あの夜と同じ
漆黒のダウンジャケットの懐に
その仔猫をとても自然に収めた。
「生まれて半年くらいは
経ってるみたいですね」
「お母さん、見つかるといいね」
「もう、ひとりで
生きてゆかないとだめです」
あのひとの声は、言葉は、
私に、というより、
鳴いてばかりの仔猫に
向けられているようだった。
あれから何度か、
あの蹲るようにしてある公園で
私はあのひとと話した。
同じマンションに住む
あの主婦たちの
私とあのひとを見る眼差しも、
いつしか気にならなくなった。
あのひとは、
この公園で、
この街に生きる猫たちと
暮らしていた。
話すことは、
いつも猫たちのことだけ。
私のことは何も訊かない。
あのひと自身のことも何も話さない。
それでも、
あのひとは、
私のどこかに、
温度のある何かを残していく。
それが、
あのひとの言葉なのか、
あのひと自身の存在なのかは、
私にもわからないまま。
わからないままが、いい。
そう、願った。
今夜もまた、
私は掟を破る。
深夜の薄暗いエレベーターホールに
誰もいないことを確かめながら、
仲間を求めて
ゆらりゆらり歩を進める。
縄張りから出て行く
はぐれ猫のように、
あの蹲るようにしてある公園へと
そろり向かう。
漆黒のダウンジャケットを羽織った
あのひとの傍らで、
とても満足そうに毛繕いをしている
足の裏までも漆黒の仔猫が
あのひとにそろり近づく私を
じいっと見つめている。
仔猫の瞳に映り、
像を結び結晶する私の姿は、
どこから見ても
もう猫にしか見えない。
たった今、
私が捨ててきた縄張りに転がる
空き缶の上に、
白いしろい雪が、
薄くうすく、黙って積もってゆく。_