蕎麦屋炎上
ストーリー 直川隆久
出演 遠藤守哉
商店街の端っこにある古ぼけた蕎麦屋。
木造の建物は若干傾いでいて、
その外壁を茶色く枯れた蔦がびっしりと覆っている。
店には、八十がらみの頭髪の薄い主人が一人だ。
俺は、ときどきこの蕎麦屋で昼飯を食う。
行きつけの古本屋から近いからだ。
蕎麦は、正直まずい。
いつもべたべたしていて、ざるの上の二、三本を箸でつまめば、
全部の蕎麦が一斉に持ちあがる。
つゆの量もけちくさくて、蕎麦猪口に二分目ほどしか入っていない。
いちど、ある客がそばつゆのお替りを頼んだときだ。
主人は厨房から出もせず、
「あーあ、蛇口ひねりゃつゆが出てくるとでも思ってんのかね。
あがったりだよ。あがったり」
という、聞えよがしの独り言をよこしてきた。
こんなホスピタリティのかけらもない店を、
なぜこの主人は開け続けているのか。
古本屋が言うには
「昔、この商店街が賑わっていたころは、あの店もそこそこうまかった」
のだそうだ。
――「いや、でも、ご多聞に漏れずここいらも人が来ないようになってさ。
起死回生ってことで、商店街の会長がマンションデベロッパーと組んで、
端っこの何軒かの立ち退きをすすめて。
ほかの店は、ま、従ったんだけど、一軒だけゴネたのが、
あの蕎麦屋だったみたいね」
確かに、蕎麦屋の建物は、通りに向かう面以外の三方を
マンションの敷地にぎっちりと囲まれており、
その境界の壁が不自然に高い様子は、
なにやら異様な圧迫感を放っている。
それを知ると、蕎麦屋の主人が店を閉めない理由もわかる気がした。
意地である。いや、意地といえば聞こえはいいが、
「おまえらの思うようにはならない」という攻撃的な反応が
常態と化した、というべきか。
この社会、この世間は、主人の自尊心を、長年かけて、
やすりでこするように毎日削り取っていったのだろう。
その世間に吠えかかるかわりに、
主人は、来る日も来る日も暖簾を掲げ続けているのだ。
さも、不本意な顔で。
コロナ禍となって、しばらくその商店街から足が遠のいていたのだが、
先日久しぶりに古本屋を覗きに行った。
そして、いつものように蕎麦屋の前までやってくると、
何か異様な熱気に店が包まれているのに気づく。
開け放たれた引き戸から中をうかがうと、
どういうものか、店はすし詰めだった。
そして、客は全員真っ赤な顔をして大声で喋りあっている。
あらゆるテーブルの上に、ビール瓶、日本酒の瓶がならび、
転がっていた。
この緊急事態宣言下、酒をだせば、この蕎麦屋でも超満員になる。
酒の力は恐ろしい。
路上には、スーツ姿の市役所職員らしき一群が
メモやらカメラで記録に忙しく、近所の住人であろう人たちが、
マスクの位置を直しながら警戒心もあらわに店の前を通り過ぎていく。
喧騒の奥、見たことのないようなにこやかな顔で、
主人が酒瓶を手に走り回っていた。
俺は、蕎麦屋の中には入らず、もと来た方向へ引き返した。
笑ってはいながらもやけに遠くに焦点のあったような主人の目の残像が、
頭から離れなかった。
一週間後、新聞で、その蕎麦屋が火事となり全焼したというニュースを読んだ。
何者かがガソリンをまいて火を放ったらしい。
俺はもう一度その記事を読み、死傷者はなく…
店の主人の遺体も未だ発見されていない、ということを確認した。
焼けた蕎麦屋に足を運んでみると、炭になった柱の残骸以外、
そこに建物があったことを示すものはほとんど無くなっていた。
足元に、見覚えのある品書きが、踏みしだかれ、
ずぶ濡れになっているのを見つけた。
周囲には焦げ臭い匂いが濃厚に漂っている。
マンションとの境界の壁は、煤で真っ黒に染まっていた。
ガソリンの命を与えられた炎が、
その壁に執拗に噛みつく様子が目に浮かんだ。
誰の犯行かも、主人の行方も、わからない。
だが…俺は、火を放ったのが、
当のその主人であってほしいと考えずにいられなかった。
不本意に続けた店を、本意から焼いたのであって欲しかった。
長年の鬱屈を反動として、
主人の生命が爆発的アクションを見せたのであって欲しかった。
そう思わずにいられなかった。
出演者情報:遠藤守哉(フリー)