2009 年 7 月 のアーカイブ

薄組・熊埜御堂由香

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くまちゃんと呼ばれ続け、
来年は30歳のくまちゃんになる。

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細田高広  09年7月12日放送

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カフェ・ド・フロールに集う人々① アポリネール

1911年のある日。
詩人のアポリネールは、パリのさびれたカフェに立ち寄った。
彼は安心して席が確保できることを気に入り、
カフェを自らの職場にしてしまう。

以来、食事の時間ともなると、
仕事仲間や友人をカフェに呼びよせては、
様々な議論を楽しんだ。

やがて集まってきたのは
ピカソ、キリコ、ダリ、アンドレ・ブルトン。
お酒と食事と議論を原料にして、
キュビズムやシュルレアリスムなどの
芸術運動は生まれた。

カフェ・ド・フロール、
アポリネールの見つけたさびれたカフェは、
一気に文化の中心地となった。

andre_breton


カフェ・ド・フロールに集う人々② アンドレ・ブルトン

1924年。詩人アンドレ・ブルトンは、
カフェ・ド・フロールに集う仲間達とシュル・レアリスム宣言を発表。
言葉の力で芸術運動を主導した。

ある日、街なかで浮浪者を見かけたブルトン。
「私は目が見えません」と書かれた紙を持っているが、
通行人は寄りつきもしない。
見かねたブルトンは、彼に近寄、あることをする。
するとどうだろう。すれ違う人々が次々とお金を恵み出したのだ。

実は彼、紙の言葉をこう書き換えていた。

春がもうすぐやってきます。僕には、何も見えないけれど。

言葉は、ときに魔法に変わる。

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カフェ・ド・フロールに集う人々③ ジュリエット・グレコ

シャンソンの定番、「枯葉」。
この曲を出世作としてスターになった
ジュリエット・グリコ。

その彼女と恋に落ちたのが、
JAZZの帝王マイルス・テイビス。
1949年二人は手を取り合ってセーヌ湖畔を歩き、
カフェ・ド・フロールでは
サルトルやボーヴォワールとも語り合ったという。
しかし、女神と帝王の恋は、二週間しか続かなかった。

帰国後、マイルスは「枯葉」をジャズで演奏する。
その演奏がきっかけで、「枯葉」はジャズの定番にのし上がったのだ。

あのとき、演奏するマイルスの脳裏では、
グレコが歌っていたに違いない。

Jean_Cocteau


カフェ・ド・フロールに集う人々④ ジャン・コクトー

パリにあるカフェ・ド・フロールの常連で
ピカソとも仲の良かったジャン・コクトー。
彼は20の顔を持つ芸術家と呼ばれた。

詩人として脚光を浴びたかと思えば、
絵を描き、小説を書き、オペラの台本を手がけ、
果ては映画にまで進出した。

ひとつの仕事が終わると、私は逃げ出す。
経験や習慣なんて、まっぴらだ。

何かに慣れることは、自分を硬直化させることだから。
昨日と同じ自分を、コクトーは許せなかった。

私は、いつでも未熟でいたい。

そう。経験に頼ってばかりでは、僕たちは変われない。

gogh


カフェ・ド・フロールに集う人々⑤ カール・ラガーフェルド

パリコレの時期、夜中のカフェ・ド・フロールは
デザイナーたちの溜まり場になる。
カール・ラガーフェルドも、そこに顔を出すひとり。

フェンディ、シャネル、クロエなど
トップブランドのデザイナーをつとめながら
自身のブランドまで展開する男。

そんな彼が2000年に
100キロを越えていた体重を、
いっきょ42キロ減らして周囲を驚かせた。

なぜ、急にダイエットをしたのか。
理由は極めて単純だ。

かっこいい細身のスーツを、着たかったから。

彼は言う。

ファッションとは、いちばん健康的に
体重を落とせるモチベーションである。

Georges_Seurat


カフェ・ド・フロールに集う人々⑥ 山下哲也

曲芸師のように大胆にトレイを操る。

パリで1850年代に開業したカフェ・ド・フロール。
そこで働くギャルソンを評した、哲学者サルトルの言葉だ。

そのカフェで、今、日本人がひとり働いている。
名を、山下哲也という。

生粋のフランスしか雇ったことのないお店だ。
「なぜ日本人がいるのか」と言われることもある。

日本でカフェを開けば簡単なのに。
と言うと、山下は流暢なフランス語で応える。

「それじゃ、簡単すぎる。」

なるほど、彼は根っからの曲芸師なのだ。

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八木田杏子  09年7月12日放送

Woman

ボーヴォワールへの質問

人は女に生まれるのではない。女になるのだ。

そんな言葉を残したボーヴォワールさん、教えてください。
こんな時代に、どうやって女になれば、良いのでしょう。

男に守ってもらえる女では、いられない。
男と肩を並べる女は、たたかれる。

結婚をすれば安心、ではない。
仕事をすれば立派、でもない。

女はこうあるべき、というカタチが無くなって。
自由にはなれたけれど、
ときどき、見失いそうになるのです。

ボーヴォワールさん、教えてください。

もしあなたが、こんな時代に生きていたら。
どうやって女になるのでしょう。

Sartre_et_Beauvoir


ボーヴォワールの答え

人は女に生まれるのではない。女になるのだ。

そんな言葉を残したボーヴォワールさんは、教えてくれました。
こんな時代に、どうやって女になれば、良いのかを。

恋から、逃げてはいけない。

自分の身を滅ぼすとしても、
信じたくなる恋から、目をそらしてはいけない。

でも。

恋に、逃げてはいけない。

女が生きるのは、恋愛だけじゃない。
男のように、自分の人生と使命を、大切に。

ボーヴォワールさん、ありがとう。

それができたら、きっと。
あなたのように、女になれる。

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厚焼玉子 09年7月11日放送



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漱石と子規と道後温泉

夏目漱石が松山中学に赴任すると
後を追うようにして正岡子規がやってきた。
明治28年の夏のことだった。

漱石は月給は80円の英語教師、
子規は30円の新聞記者だった。
子規は漱石が借りた家の一階に陣取って
食べるものも飲むものもすべて漱石にたかって暮らした。

朝6時、ドンドンと響く太鼓の音は朝風呂が開いた合図だ。
松山には道後温泉があって
漱石がやってくる前の年に立派な共同浴場ができていた。
ふたりは毎日のように温泉につかった。

やがて秋も深まり
毎日のように食べた出前のウナギの代金から
帰りの旅費まで漱石に払わせて
正岡子規はやっと松山を出て行った。

やれやれ….
漱石が温泉で手足を伸ばしている姿が目に浮かぶ。

*道後温泉:愛媛県松山市 アルカリ性単純泉 42℃
 http://www.dogo.or.jp/

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露伴と男鹿温泉

幸田露伴が温泉のことで愚痴っている。
明治30年、男鹿温泉に泊まったときのことだ。

夜の9時頃に宿に到着したところ
怪しまれて雨の中を入り口で待たされた。
風呂は大きかったがお湯は水のように冷たかった。
酒は酸っぱく、茶漬けを食べて寝た。

それでも露伴は新聞記者に語っている。
「男鹿島はなかなか素晴らしい景色でした」

温泉については
固く口をつぐんでいたようだ。

*男鹿温泉:秋田県男鹿市 ナトリウム塩化物泉 55℃
 http://www.e-ogaonsen.com/

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森鴎外と山田温泉

明治23年8月、
開通して間もない信越線に乗って
森鴎外先生は山田温泉においでになった。

鴎外先生の記録によると
当時の山田温泉は30軒ばかりの家が並ぶ山里で
それでも宿屋は7軒ばかりあった。
温泉までの道は野生の撫子が咲き
ところどころに冷たい湧き水があった。

秋になったら、と
鴎外先生はお湯のなかで考えていた。
秋になったら子供が生まれる。
それを待って、やはり妻と別れよう。

気の強い妻としっかりものの母の板挟みで
どれだけ自分が弱っているか
やわらかなお湯が教えてくれたのだろう。
その年の10月、本当に森鴎外は妻と別れた。

*山田温泉:長野県上高井郡 塩化物泉68℃
 http://members.stvnet.home.ne.jp/hin-nobe/html/

 
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藤村と中棚温泉(なかだなおんせん)

中棚温泉は「小諸なる古城のほとり」にある。
島崎藤村は明治32年から
英悟と国語の教師として小諸に6年を過ごし
中棚温泉に足しげく通った。
そこからは四季折々の千曲川が見えた。

藤村は「千曲川のスケッチ」の序文に書いている。


 もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか
 これは私が都会の空気の中から脱け出して、
 あの山国へ行った時の心であった。

はじめての詩集「若菜集」から3年
さらに自分を研ぎ澄まそうとする藤村の決意だった。

*中棚温泉:長野県小諸市 弱アルカリ性単純泉 37℃
 http://www.nakadanasou.com/







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志賀直哉と城崎温泉

大正2年、志賀直哉は山手線の電車にはねられ
生死の境をさまよった。

城崎温泉に滞在したのは療養のためであり
何かを書こうという意欲ではなかったが
死というものに出会ってしまってからの志賀直哉の心は
悟りに似た境地に達していた。

死はいつでもそばにある。

それでも死ななかった自分の命が
ゆらゆらとお湯のなかに浮かんでいた。

*城崎温泉:兵庫県豊岡市 塩化物泉 70℃
 http://www.kinosaki-spa.gr.jp/



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   左の写真は日本列島お国自慢より


森田草平の塩原心中

森田草平には何かと不祥事が多かった。

高校時代は従姉妹と同棲していることが
学校側の知るところとなって退学。
上京して東大に進学すると
こんどは下宿の娘とややこしいことになってしまった。

卒業して英語教師になると試験を忘れてクビになったし
夏目漱石の紹介でやっと他の学校に就職すると
こんどは心中事件を起こした。

明治41年、3月。
塩原温泉に泊まった翌日、死ぬつもりで山に入ったが
膝まで埋もれる雪に迷い
死ぬ気力もなくしていたところを捜索隊に発見された。

塩原温泉の心中事件は大スキャンダルになったが
森田草平はそれを逆手に取って小説を書き
一躍文壇に躍り出た。

こういう縁で、いま塩原温泉には
森田草平の文学碑が建っている。

心中の相手、平塚らいてふの碑はないようだ。

*塩原温泉:栃木県那須塩原市 塩化物泉、硫酸塩泉など11の温泉 40℃〜77℃
 http://www.siobara.or.jp/welcome.stm


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 上の写真は日本列島お国自慢より

智恵子の最後の温泉

高村光太郎が智恵子を連れて
塩原温泉に行ったのは昭和8年の夏の終わりだった。

それはすでに精神を病んでいた智恵子のための温泉めぐりで
塩原には最後に立ち寄って十日ほど滞在している。
宿の下には川が流れ、涼しい水音が聞こえていた。
晴れた日にはヒグラシも鳴いた。
宿に出入りする写真屋はふたりの写真を撮った。

この旅の前に、光太郎は婚姻届を出し智恵子を入籍している。
自由な結婚を19年つづけた末に
光太郎は病気の智恵子を一生背負っていく決心をしたのだろうか。

塩原温泉は智恵子が最後に旅した場所になった。

*塩原温泉:栃木県那須塩原市 塩化物泉、硫酸塩泉など11の温泉 40℃〜77℃
 http://www.siobara.or.jp/welcome.stm



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09

与謝野晶子の温泉めぐり

与謝野晶子が温泉めぐりをしていたことは
案外知られていない。
なにしろ子供は11人いるし、
来る仕事をことごとく引き受けても
家計は苦しかったし
今日の食べものにも事欠いているときに
石川啄木は切手を貼らないで原稿を送りつけてくるし。

それでも晶子は北海道から鹿児島まで
70ヵ所以上の温泉をめぐっている。

おかげで全国各地の温泉に
与謝野晶子の歌碑や色紙、ゆかりの宿がある。

これだけ働いた人が行った温泉は
さぞ疲れが取れるに違いない。

*川原湯温泉 栃木県吾妻郡 塩化物・硫酸塩温泉 71℃
 http://www.kawarayu.jp/
*湯宿温泉 群馬県利根郡 硫酸塩泉 63℃
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/onsen/yujuku.html

yosano

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副田高行さん

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森ビルのラジオCMhillscastの今月のゲストは
副田高行さんです。辛口のご意見てんこ盛りであります。
こちらからどうぞ。
http://www.mori.co.jp/hillscast/

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五島のはなし⑳(鳥巣智行 )

鳥巣くんは、僕と同じ会社の新人コピーライターです。
長崎市出身ですが、五島にゆかりがあります。
そもそも、五島にも「鳥巣」という姓が多く、
彼のルーツは五島のはずだ、と勝手に断定しています。
そんな彼が運転免許をとるために、五島に滞在したときの話です。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「五島自動車学校」

それでは、
五島自動車学校の紹介をさせていただきます。

五島自動車学校のそばには海があります。
美しい五島の海が道路を一本挟んだところに広がっています。
本当に目の前、徒歩0分です。
だからちょっとした教習の空き時間にも海で遊ぶことができます。
また、五島では新鮮な魚介類が食べられます。
地元の若い男の子と仲良くなった女の子がたくさんのウニやアワビをもらって、
それを食堂でみんなにふるまっていました。
あと、星も抜群にきれいです。
それに、五島自動車学校では馬にも乗ることができます。
「馬にのりました」という写真入の証明書をもらいました。

それから、教官がユニークです。
私が教わった教官はいわゆる「アメとムチ」タイプの教官でした。
ちょっとでもミスをすると「なんばしよっとやろか、このこ子はぁ!」
といってブレーキをものすごい勢いで踏みながら激昂します。
怖がってびくびくしながら車を走らせていると、
こんどは「アクシェルアクシェル~」といって加速を要求します。
はじめのうちはその厳しさに耐えかねて、
何度もやめてしまおうと思いました。
けれども2・3日経って、
彼の「アメ」の部分にふれることができました。
はじめはうれしかったのですが、
後々、冷静になって気づいたのは、
その「アメ」の大半が下ネタだということです。
肝心な下ネタの内容は失念してしまいましたが、
とにかく車にまつわる下ネタを連発します。

そして合宿が終わるころに気がつきます。
「運転できるようになってる。」
私は無事18日で免許をとることができました。
(鳥巣智行 )

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海のむこう、広告のむこう。~vol.4

みなさまあたたかいコメント、
本当にありがとうございます。
そして相変わらず一向に広告の話になっていません、
すみません。

カンヌに到着した午後。
3日ぶりくらいにシャワーを浴びます。
カンヌで買ったシャンプー「After Shampoo」ってシャンプーじゃなかったり、
リンスだと思ったら「After Dry」ってリンスじゃなかったり
そんなぐらいのことではもうめげません。

すっきりしたのかしなかったのだかわからないまま、
なんとか受付だけでも済ませようと会場に急ぎます。
通行手形みたいなパスをもらうのですが、
そのパス用の写真をその場で撮ってまぁびっくり。
死相とか悲壮感とかいっぺんに出ています。
受付のお姉さんも若干失笑。
これからのカンヌでこれをずっと提げていなくちゃいけないなんて。

ごはんを食べ終えると鬼のような眠気が襲ってきます。
なんといっても5時から起きてますから。
ホテルに戻るとフロントの女の人がにこやかに指差します。
なんと。
荷物が届いているではありませんか。
「エールフランスはロストバゲージに慣れてるから対応が早い」
のだそうです。
慣れる前に荷物なくすなよ。
でもよかった。
その日はあんまり疲れていたので、すぐに眠ってしまいました。

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海のむこう、広告のむこう。〜vol.3

シャトルバスに20分ほどゆられて
着いたホテルは薄暗いB&B。
玄関前にはアラブ人の若者たちが何かよくわからないものを吸いながら
うろうろしています。
こわごわフロントに行くと美人のお姉さんが、
4人部屋しか空いてないとにべもない態度。
絶対ウソだよ。
思いながらも、抵抗する気力もなく1人で4人部屋へ。
とにかくシャワーを浴びようとすると、
そこにはタオルもシャンプーも石けんすらない。
手荷物しかないんですけど、私。
仕方なくドロドロのままベッドで丸くなる。
あぁ日本が遠い。

翌朝5時。
全く疲れも取れないままホテルを出、
またどこをシャトルしているかわからないシャトルバスに乗り、
1時間前からゲートの前に座ってニース行きの飛行機に乗り、
ようやくカンヌだ、と思ったら甘かった。
ニース空港。
いくら待っても自分の荷物が回ってこない。

「ロストバゲージね。」

いま一番聞きたくない英単語を平然と言い放つ空港のお姉さん。
(何だってフランスの女の人はあんなに美人で
 あんなにぶっきらぼうなんでしょう。)
さすがにがまんしていた涙が頬をつたいます。

そのまま手荷物一つでカンヌに到着。
一番に行ったのは、
会場でもなく、ましてやビーチなんかでもなく、
下着を買うためのスーパーマーケットでした。

「サマータイムマジック。」
渡辺美里さんにぜひ歌ってほしい。
みなさん、カンヌに行かれる際はお気をつけください。

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小山佳奈 09年7月5日放送

1

ペリー

1953年。
黒船で浦賀に乗り込んだペリー。

彼は幕府の役人を船上に招き、
「土色をしておびただしく泡立つ酒」を、
大いにふるまった。

役人たちは、
この魅惑的な泡にすっかり飲まれ、
西洋万歳、われらは同士と肩を抱き、
その後、やすやすと不平等条約を
結んでしまった。

ビール。

いまもむかしも
絶望的にうまい。

ペリーは有能な
外交官だ。

2

蔦監督

日本の夏は、
高校生にとって
すこぶる不公平だ。

どんな部活も差し置いて、
野球部だけが脚光を浴びるなんて。

その原因の一つは、
高野連でもNHKでもなくて、
池田高校元監督、蔦監督に
あるのかもしれない。

彼は、
無名高校のたった11人の生徒が、
強豪校を打って打って打ちまかし、
ついには甲子園を制するという
あざやかな魔法を日本国民にかけた。

あぁ、蔦監督。

今年の夏もまた。
日本中の高校生が、
地団駄を踏んでいます。


3.5

高村光太郎

詩人、高村光太郎。

たいていの人がそうであるように。
彼の好きになる女性は、
みんな顔かたちがよく似ていた。

恋焦がれた若太夫に捨てられ、
智恵子と初めて出会ったとき、
つい、口走った。

「若太夫。」

言葉で生きる詩人ですら、
失言はある。

彼がベッドで思わず
前の彼女の名前を呼んでも
一回なら大目に見てあげよう。


4.5

ルイ・レアール

1946年、自動車工ルイ・レアールは
ある一つの水着を思いついた。

そのあまりにも大胆なデザインには、
それに見合う大胆なネーミングが必要だ。

そんな彼の耳に飛び込んできた、
「ビキニ環礁原爆実験成功」のニュース。

これだとヒザを打ったレアールは、
その水着を「ビキニ」と名づけた。

水着と原爆。

人間を狂わせるという意味では、
どちらも正しい。

今日はビキニスタイルの日。

5

エリック・ハイドシェック

ピアニストには、
もう一つ向いている職業がある。

エリック・ハイドシェック。

兵役でアルジェリア内戦におもむいた際、
軍の通信部に配属された。

そこで彼は、
その研ぎすまされた耳と自慢の指遣いで
モールス信号を自在に操り、
あっという間に伍長に昇格。

その時、
モーツァルト・コンツェルト大賞受賞の知らせを
受けていなかったら。

危うく私たちは、
20世紀最高の音楽を取り逃がす
ところだった。


6

夏目漱石

いまどきの子どもは物を知らない。
魚は切り身で泳いでいると思っている。

そんな紋切り型の大人の嘆きに辟易したら、
夏目漱石大先生に登場してもらおう。

彼は田んぼに生えている稲が
いつも食べている米だということを、
大人になるまで知らなかった。

百の知識より、
一のおいしさを
知っていればいい。

稲ぐらい、
とは思いますが。


7

トリュフォーと春樹とそんなようなこと

トリュフォーの映画みたいに、
家を飛び出してみたけど、
寂しくなって
夕飯の時間より前に
家に帰った。

村上春樹の小説みたいに、
昼間からビールを飲んで
ピーナッツの殻を
床に落として
母にものすごく叱られた。

平凡だから、
平凡じゃないことを楽しめる、
平凡な私の
平凡な喜び。


8

茨木のり子


 好きだった顎すじの匂い
 やわらかだった髪の毛
 皮脂なめららかな頬 
 水泳で鍛えた暑い胸廓

茨木のり子が
亡き夫を思って詠んだ詩、
「部分」。

曖昧な全体を無理に見ようとするから、
愛はむつかしくなる。

地球もきみも絶望もひまわりも、
全部、部分。

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五島のはなし⑲

いま、田舎から両親が来ています。
昨日は落語に連れて行きました。
うちはすごくマジメな家で、そんな中、
将来の名人といわれる柳家三三(やなぎや・さんざ)の落語会は
超ナイスセレクトで、健全な笑いと喜びを届けられると思っていたら、
やったネタが吉原(つまり女郎買い)のはなし。
ふだん落語を聴いている人なら遊郭の話なんて当たり前なんですけど、
いやー、なんか、ドキドキしてチラチラ親の横顔を見てしまいました。
でも二人とも爆笑しててひと安心。

うちの母は強烈で、座右の銘は「負くんもんか(負けるもんか)」。
あと「私は悟っている」もよく言う。
悟りを開いた人が勝ち負けを気にするのだろうか・・・

僕が中学1年の時、母と一緒に、名古屋の大学に進学したばかりの
兄のところへ行きました。はじめて一緒に地下鉄に乗った瞬間、
母は持っていた2つのバッグを空いた座席に放り投げ
僕と兄に向って「あんたたち、そこに座らんね!」と叫びました。
「恥ずかしいからやめてくれ」と頼む兄に放った一言が、
「都会ではこがんせんば生きてゆけんと!」。

昨日もバスの中で、(今回の横浜への旅の心構えとして)五島の叔母から
「都会ではあんまり大声で話したらいかん、って忠告されてきたとよ~」と
けっこう大声で話してました。
こうして、時間をおいてみると笑えるのですが・・・

がんばれ、五島(の母)!

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