将棋指し。BOSTON。宇宙。1/村山聖(さとし)
一日中、好きな本を読んでいたい。
一日中、ギターをかき鳴らしたい。
一日中、テレビゲームをしていたい。
たまにそんなことを思うけど
「これから毎日ずっとだよ」
なんて言われたら、素直に頷けるだろうか。
少年は、重い病で入院しているときに、将棋と出会った。
狭いベッドに横たわる自分の背中に、翼が生えたような気分だった。
一日中、将棋をしていたい。
村山聖、6歳。
プロの世界へ羽ばたいていく、ほんの8年前のこと。
将棋指し。BOSTON。宇宙。2/村山聖
村山聖、8歳。
入院中に書いた、ある日の日記。
今日もしょうぎのれんしゅうを六、七時間しました。
朝から夕がたまでです。
そしてまだ、のこっているので夜、やろうと思います。
あと二もんです。だから時間はあと一時間です。
次の日も、その次の日も、
将棋のことしか書かれていなかった。
日記によると、
なぜか天気は、いつも晴れ。
気温は、いつも22度。
病気は、来る日も来る日も彼の体にのしかかってきたけど、
きっと、心は穏やかだったんだろう。
将棋指し。BOSTON。宇宙。3/村山聖
ネフローゼという厄介な病気は、
顔や体を赤ん坊のように、むくませる。
不意に高熱が出て、
体調が悪いと一歩も動けなくなる。
村山聖は、そんな病を抱えたまま
ただ将棋を指していた。
小学6年生のとき、
広島のデパートで行われたイベントで
プロの棋士と対戦。
飛車落ちのハンデだけで
いともたやすく勝ってしまう。
青白い顔で打ち込む指し手はみな鋭く、
本当に青ざめたのは、大人たちのほうだった。
将棋指し。BOSTON。宇宙。4/村山聖
タイムリミット。
時間がない。
それは締め切りだったり、
電車の時刻だったり。
私たちが時間に追い立てられるのは
せいぜい、今日か明日か明後日か。
将棋の世界は、時間に厳しい。
プロの棋士を養成する奨励会に入ると、
25歳までに四段への昇級を義務づけられる。
村山聖は、病気と闘いながら、17歳でそのノルマを果たした。
それでも村山は、言い続ける。
僕には、時間がないんです。
まるで命のタイムリミットを知っているかのように。
砂時計の砂は、少しずつ減り始めていた。
将棋指し。BOSTON。宇宙。5/村山聖
「なんて、強いんだ。」
14時間を超える対局の果てに、投了。
村山聖は負けた。
相手は、羽生善治。
かつて村山が、広島の病院で将棋に夢中だったころ、
羽生もまた東京で、将棋の本を手放さない少年だった。
境遇はよく似ていたけど、
そんなことは、もちろんふたりとも知らない。
食事に行きませんか?
ある日、村山は、羽生にそっと声をかける。
まるで憧れの女性を誘うみたいに。
通算の対戦成績は、村山の6勝7敗。
その続きを、もう見ることはできない。
将棋指し。BOSTON。宇宙。6/村山聖
勝負の世界には、神様が現れやすい。
勝利の女神、しかり。
神懸かり、しかり。
村山聖は、26歳で八段まで昇りつめた。
名人まで、もう少し。
将棋の神様は、村山に微笑んでいた。
なにかと幸運に恵まれた昇級に、ぽつりと感想を述べる。
神様のすることは、僕には予想のできないことだらけだ。
その後、こんな質問を受ける。
「もし神様がひとつだけ願いを叶えてくれるとしたら、何を望みますか?」
村山は答えた。
神様除去。
彼を翻弄するのは、神様だけだった。
将棋指し。BOSTON。宇宙。7/村山聖
村山聖は、旅立った。
平成10年の今日、8月8日。
29歳の若さで。
将棋界の最高峰、A級に属し
名人まで手が届くところにいたのに。
亡くなる少し前、将棋年鑑のアンケートに、こう寄せている。
今年の目標は?
土に還る。
行ってみたい場所は?
宇宙以前。
「More Than A Feeling 〜宇宙の彼方へ」。
彼がこの曲を愛した理由が、少しだけわかった。
将棋盤に刻まれた81枡。
その向こうには、宇宙があるんだ。きっと。