保持壮太郎+小野麻利江 09年8月23日放送
コンラート・ローレンツ
夏。
あちこちの玄関先に、
アサガオの鉢植えが並ぶ。
いままで
どれだけの小学生が
自由研究と称して
アサガオ観察をしたことだろう。
もはや研究され尽くしたと
言ってもいいはずなのに。
また、この夏も。
でも動物行動学者の
コンラート・ローレンツの
言葉を聞いてちょっと納得する。
誰もが見ていながら、
誰も気づかなかったことに気づく、
研究とはそういうものだ。
ことしも
新しい研究成果に
期待しよう。
ロバート・ソロー
天才たちの生きる世界を、
しばしば僕たちは想像する。
ゴッホの目から見た風景は、
きっと鮮やかな色彩に満ちている。
フェルマーだったら、
世界にいくつもの数式を見るだろう。
ラフマニノフならば、
そこに美しいメロディを感じるはずだ。
経済学者はどうだろう。
マクロ経済学の巨匠、
ロバート・ソローはこう答えた。
私は何を見てもセックスのことを連想してしまう。
極力、私の論文からはそのことを排除するようにしているが。
なるほど。
オスカー・ハマースタイン2世
ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の中で、
主人公のマリア先生が
雷を怖がる子供たちのために歌う、
「My Favorite Things」。
子猫のひげや、銅の光るケトルなんかのことが歌われる
風変わりな歌詞だけど、
わたしが、オスカー・ハマースタイン2世の代わりに
歌詞を付けたとしたら、
「お気に入り」たちに、何を選ぶだろう。
柴犬のしっぽ。
良く冷えた牛乳瓶のふち。
ぎょうざの羽のパリパリ。
水たまりに浮いた虹色の油。
飛行機から見る雲。
東京タワーの明かりが、消える瞬間。
挙げるときりが無いから、もうやめておくけど、
これだけは歌詞のとおりだ、ってことが、
いま、はっきりとわかった。
悲しい気持ちになるときは、
私はただ 自分のお気に入りを思い出す
そうすれば、そんなにつらい気分じゃなくなる。
ディック・ブルーナ
いつも正面を向いている白いウサギ、ミッフィー。
自転車に乗るときも
自転車は右に向かって進んでいるのに
ミッフィーは顔をこちらに向けている。
前を向いて歩きなさい!
お母さんにいつも叱られていた小さな女の子は
ミッフィーが不思議だった。
ウサギさんはよそ見をしてもいいの?
そんなミッフィーの生みの親は、
ディック・ブルーナ。
キャラクターはいつも、
本と向き合っている、あなたのことを見ている
歩くとき、いつもこちらを見ているミッフィーには、
そんな深い愛情のこもった意味が、あるのだという。
小さな女の子もオトナになったら
絵本作家の愛情が、きっとわかります。
メイナード・ファーガソン
トランペットを手にした少年や少女が
まずぶち当たる困難な壁、
それは高い音をいかに正確に出すかということだ。
唇はやわらかく
息を早く吹き込み
横隔膜でしっかり支える。
理屈ではわかっていても肩や喉にチカラが入る。
演奏会の3週間前になってもまだ出ない音がある….
そんな悩みを経験した人にとって
メイナード・ファーガソンの高音は
この世の自由を謳歌しているように聞こえる。
どんな理屈もテクニックも
彼の高音の前に平伏する。
空気を切り裂くハイノート、ダブルC.
3年前の今日
天才トランペッター、メイナード・ファーガソンの死とともに
空へ駆け上がるあの高音が失われてしまったのが
惜しまれてならない。
キース・ムーン
楽器を壊しながら演奏する
それが、ロックバンド「ザ・フー」のスタイルだった。
なかでも過激だったのが
ドラマーのキース・ムーン。
キースの破壊力はステージだけにとどまらず
ホテルの窓からテレビを放り投げたこともあるし
プールにクルマを沈めたという噂もあった。
しかし彼のドラムは天才的で
音と音の隙間に極限まで装飾音を詰め込んだ
アドリブだらけの演奏はコピー不可能といわれた。
計算なんてどこにもなかった。
32歳という若さでキースが亡くなって
いま、「ザ・フー」のドラマーは
リンゴ・スターの息子、ザック・スターキー。
ザックは自分の父ではなく
キース・ムーンにドラムを教わっている。
アドルフ・ロース
装飾がないということは、
精神的な強さのしるしだ。
と、かつて
建築家アドルフ・ロースは言った。
装飾は罪であり、
装飾の多さは文化水準の低さをあらわすと主張した。
この言葉はさまざまな誤解を生んでいるけれど
本人の著書からその解釈を見出すことができる。
我々が森の中を歩いていて、
ピラミッドの形に土が盛られたものに出会ったとする。
それは我々の心の中に語りかけてくる。
「ここに誰か人が葬られている」と。
これが建築なのだ。
彼は、建築を見る人が自分の気持ちを入れることのできる
余白をつくったのだ。
クリフォード・ギアツ
文化人類学者、クリフォード・ギアツは、
インドネシア・ジャワ島の文化や習慣を書き記していく中で、
ひとつの強い確信に、たどりつく。
われわれは誰かから目配せをされても、
文脈がわからなければ、
それがどういう意味か理解できない。
愛情のしるしなのかもしれないし、
密かに伝えたいことがあるのかもしれない。
あなたの話がわかったというしるしなのかもしれない。
文脈が変われば、目配せの意味も変わる。
でも、幸せな片思いをする人は言うだろう。
「あなたの文脈」を、「わたしの文脈」に勝手に置き換える。
そんなカンチガイがなかったら
恋もはじまらない。