タンデムストーリーズ①「ガストン・ライエ」
身長は、たった163センチ。
そのハンデをもろともせずに、
パリダカの二輪部門で2度の優勝歴を持つ、
小さな巨人、ガストン・ライエ。
誰もが、そんな足の着かないバイクで
いったいどうやって? と、不思議がる。
ガストン・ライエの答えは、至ってシンプル。
だったら、どうやったら足を着かないで、走りきれるかを考えたのさ。
現役引退後も、みんなと同じようにバイクを楽しみ、
世界中のバイク乗りに愛されたライダーだった。
タンデムストーリーズ②「マックス・フリッツ」
BMWという名車を語るなら、
そのエンブレムがプロペラに由来していることよりも、
そのオートバイの生みの親、
マックス・フリッツという男を知っている方がかっこいい。
エンジニアであった彼の最大の功績は、
水平対向2気筒、通称ボクサーツインと呼ばれる
エンジンを完成させたこと。
そのスタイルは、
1923年の初号機から今に続くビーエムだけのもの。
ドイツ、ミュンヘンにはBMW本社併設の博物館があるが
展示のほとんどをバイクが占める。
ビーエムのカーオーナーたちが、
ちょっとがっかりするくらいに。
タンデムストーリーズ③「ビバンダム」
ことしで111才になる。
世界的に有名な彼の名前は、ビバンダム。
そのからだは、うずたかく積み重なった
白いタイヤでできている。
創業者である、
ミシュラン兄弟のユーモアから生まれた
彼の名前は、「ヌンク・エスト・ビバンダム」という
ラテン語で書かれた最初のポスターから。
「今こそ飲み干すとき」という意味がある。
白いタイヤ男は、
生まれたときからからマーケットを飲み干す勢いで、
現在も世界トップシェアに君臨する。
タンデムストーリーズ④「チェ・ゲバラ」
23才の医学部生、エルネスト・ゲバラは
友人とふたりで一台のバイクにまたがり旅に出た。
アルゼンチンからチリ、ペルー、
そしてベネズエラへ。
相棒になったバイクは、英国製のノートン500。
タフなヤツというあだ名だったけれど
実際はひどいポンコツで、旅の間に壊れて鉄くずになった。
本当の旅がはじまったのは、それからだった。
バイクは、彼らが経済的に恵まれていることの象徴だった。
その垣根がなくなったとき
はじめて人々はゲバラに心を開いた。
百万長者よりも、文盲のインディオの方が好きだと言うゲバラが
旅行中に記した日記は、こう締めくくられている。
この流浪は、僕を想像以上に変えた。
僕は人民のために生きるだろう。
タンデムストーリーズ⑤ 山村レイコ
80年代は、バイクに乗る女の子、
ただそれだけで珍しがられる時代だった。
山村レイコが、そうだった。
バイクで旅する楽しさを伝えたいと、
彼女はエッセイストになった。
パリダカを走る国際ラリーストにもなった。
その魅力は、やっぱり書くことで伝えた。
そしてロハスが流行るずっと前に、
酪農や農業をして生きようと決めた。
大好きなバイクが自然との距離を近くしたから。
生きること、楽しむこと、働くこと
山村レイコのなかで
この三つは、いつも同じこと。
タンデムストーリーズ⑥浮谷東次郎
浮谷東次郎は14才のとき、バイクで1500キロを旅した。
とにかくよく飛ばす男は、カーレーサーになった。
けれど、最初は群を抜いて遅かったという。
のちの、最後尾からのゴボウ抜き逆転優勝は、
彼が理詰めで勝ち取ったもの。
そんな浮谷東次郎を語る言葉がある。
カッコよく革ジャンを着ていました
そうか、こういう人がカッコいいんだ。
タンデムストーリーズ⑦ 藤沢武夫
昭和24年、真夏の阿佐谷で
本田宗一郎と藤澤武夫が出会い、
「技術の本田、経営の藤澤」の伝説が生まれた。
ホンダが、世界のホンダと称される由縁は、
原動機付き自転車「カブ号」の爆発的ヒットにある。
そのカブ号に目をつけ、
抜群のセンスで売り込んだのが藤澤だ。
「自分に似た人間なら、2人いらない」
そう断言する本田が、選んだ相棒だった。
神話のような本田の決断の数々も、
必ず藤沢の意見があった上でのこと。
「ホンダの社長は技術畑でなくては」、
という藤澤哲学にもとづいて
つねに経営がシナリオを書き
技術が主役をつとめるホンダのサクセスストーリーは、
いまや、MBAの教科書になった。