パブロ・ピカソ
生涯に15万点近くの作品を残したピカソは、
世界一多作な芸術家として
ギネスブックにも記されている。
晩年はますます自由で大胆な作風になり
87歳でこんなことを言っている。
この歳になって、やっと子どもらしい絵が描けるようになった。
一人の天才が一生をかけてたどりついた「子供らしさ」を
じっくり鑑賞してみたい。
今日はピカソが生まれた日。
岡本太郎
1960年、大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」。
シンボルタワーのデザインを引き受けたとき、
岡本太郎は言った。
馴れ合いの調和は卑しい。
ぶつかり合って生まれるものが、本当の調和だ。
太郎がデザインしたのは、
先に計画された建物の大屋根を突き破る、
高さ七十メートルの太陽の塔。
万博は終わり、建物は取り壊された。
でも太陽の塔だけは大阪のシンボルとして
今日も空に両手を突き上げている。
葛飾北斎
江戸の浮世絵師、葛飾北斎は、九十まで生きた。
人生四十年の時代に、異例の長寿である。
北斎が脚光を浴びたのは四十代も後半。
滝沢馬琴とのコンビでベストセラーを連発した。
しかし彼に言わせれば、
七十までに描いた作品はとるに足らないもの。
であるらしい。
その言葉どおり、かのゴッホにも影響を与えた代表作
「富嶽三十六景」を完成させたのは、七十五歳のとき。
年を取っても絵に対する意欲は衰えることがなかった。
七十九歳で火事に遭い、すべての写生帳を失っても
まだ絵筆が残っていると言い
八十九歳にしてなお気迫に満ちた極彩色の竜を描いている。
その北斎が息を引きとる間際に残した言葉がある。
あと五年生きられれば、本当の絵描きになれるのに。
まったく…
天才はどこまで行くつもりだったのだろう。
岸田劉生・麗子
子どもが子どもでいる時間はみじかい。
だから親はそのあいらしい瞬間を残そうと、躍起になる。
岸田劉生もまた
70点を超える娘の肖像を描いた。
娘の名前は麗子…
5歳から16歳まで
油絵、水彩画、また日本画やデッサンとして
さまざまな麗子像が描かれた。
麗子像を説明するのはむづかしい。
ときには肩幅ほどもある大きな顔
あるときは怒ったような表情。
どの絵も暗く、ねっとりと濃厚で湿っている。
子供の頃に怖かった暗がりを見る心地がする。
でも、それこそが
劉生が「デロリの美」と名づけ、極めようとした美の世界。
麗子像について当の麗子はこう語っている。
あの絵は、私を通して違うものを描いているの。
なるほど、麗子は画家の娘であった。
伊藤若冲
色鮮やかな花鳥画で知られる画家、伊藤若冲。
若冲は肉を一切口にしなかった。
仏教を篤く信仰していた彼は、
頭も丸く剃っていた。
ある日のこと。
肉屋ですずめが売られているのを見つけた若冲は、
数十羽すべて買いとり、庭に放してしまう。
その節はありがとうございました。
美しい娘に姿を変えたすずめが、若冲の前に現れた。
なんて後日談は、残念ながらないけれど。
若冲の絵には
群れをなしてうれしそうに空に飛び立つすずめの絵がある。
もしかしたら、この絵のアイデアが
すずめの恩返しだったのかもしれない。