秋の色1 金色の小さき鳥
11月はどんな色、と、訊かれたら
なんと答えればいいだろう。
庭の花はほとんど枯れた。
今年は山の紅葉を見ることもなかった。
でも…
ああ、そうだ、と与謝野晶子は思ったに違いない。
金色の ちひさき鳥の かたちして
銀杏散るなり 夕日の岡に
大空に両手を広げたイチョウから
金色に輝く鳥が舞い降りて来る。
なんと華やかな秋の色だろう。
まだ間に合う。
冬の扉が開く前に
すぐそばにある秋を見に行こう。
秋の色2 石鹸の泡つぶ
秋になって
草が色づくことを草紅葉(くさもみじ)という。
ヨモギ、エノコログサ、チガヤ、メヒシバ
青々と繁っていたときは雑草とひと言で片づけていたのに
秋の色に染まったとたん
思わず足を止めて、名前を知りたくなる。
そんななかに
ひとり秋の色にも染まらず花をつけている草を
北原白秋は見つけた。
秋の草 白き石鹸(しゃぼん)の泡つぶの けはひ幽(かす)かに 花つけてけり
赤や黄色のなかに
消え入りそうな白い花を咲かせる草は
どんな名前を持っているのか知りたい。
秋の色3 さびしき青
同じ景色のなかで
同じ季節を過ごしているのに
私は本当にあの人と同じものを見ているのだろうか。
あの人と寄り添っているのだろうか。
ふとそんなことを考えて寂しくなってしまうのも
冷たく乾いた秋風のせい。
わが妻よ わがさびしさは青のいろ 君がもてるは 黄朽葉(きくちば)ならむ
若山牧水のさびしい心は青の色
そして妻は枯れた落ち葉の色。
冬の寒さがやってくる前に
すれ違った心と心をもう一度近づけて
あたためておきましょう。
秋の色4 野菊のうた
露が凍って霜のようになったものを「露霜」という。
露霜にあたると花も葉も色あせてしまうけれど
それもまた美しいと思う心が日本人にはあった。
伊藤左千夫が「野菊の墓」のなかで
野菊にたとえた民子は
なにもかもあきらめて心を石のようにして
嫁に行ってしまうけれど
その嫁入り先での暮らしぶりについて
左千夫は何も書いていない。
ただ民子が亡くなった後の
みんなが後悔するさまを描くことで
民子が弱っていく様子が想像できるようになっている。
伊藤左千夫が歌に詠む野菊はかわいそうだ。
秋草の いづれはあれど 露霜に 痩せし野菊の 花をあはれむ
露霜にあたって
花の色が褪せ、葉が茶色になっても
野菊は辛抱強く立っている。
枯れた枝の先に花を残していることもある。
忘れないで、という野菊の声が聞こえる。
秋の色5 白壁の柿
緑の竹林、白い壁、赤い柿の実
会津八一が絵のような秋の風景に出会ったのは
平城京の西のはずれ、秋篠寺のあたり。
夏におとずれた奈良を
どうしてももう一度見たくなって
病気の躯をおして出かけた。
奈良のお寺の仏さまはいずれも古い友人のようなもの
病気の躯でも慈悲深く迎えてくださるだろう…
そんな気持で出かけた八一が見つけたのが
命が照り輝くような柿の実の色。
まばらなる 竹のかなたのしろかべに しだれてあかき かきの實のかず
その秋の色はずしりと重い。
秋の色6 白い芒
島木赤彦は柿の実の赤い色が好きだった。
赤彦ではなく柿人(かきびと)という名前を使ったこともあったし
その住まいは柿の陰と書いて「柿陰(しいん)山房」と名付けていた。
けれども、その庭に柿の木はない。
芒(すすき)の穂 白き水噴くと見るまでに 夕日に光り 竝(なら)びたるかも
この芒の穂の上に垂れ下がる柿の色は
赤彦の心のなかだけにある。
秋の色7 燃え上がる公孫樹
もしもイチョウの木がなかったら
秋はどんなにか寂しいだろう。
でも野生のイチョウは日本にはいない。
仏教とともに中国から持ち込まれ
人の手で植えられて広まったのだ。
イチョウの生命力はたくましい。
2億年も昔から地球に存在しつづけているイチョウは
恐竜とともに滅びることもなく生きながらえ
いまでは世界中に子孫を増やしている。
その寿命も2000年と気が遠くなるほど長い。
病を得た中村憲吉にとって
そんなイチョウはあまりにもまぶし過ぎた。
燃えあがる 公孫樹(いちょう)落葉の金色に おそれて足を 踏み入れずけり
けれども
45歳で亡くなるまでに3000首を超える美しい歌を詠んだ
中村憲吉の生涯もまた
金色に輝いているのではないだろうか。