ハチ公と上野博士①
秋田で生まれたハチが
上野博士の住む東京へ
もらわれてきたのは、子犬の頃。
博士は、上野英三郎さんといって、
東大の先生だった。
いまや近代農業土木の祖と言われるくらい、
エライ先生だったそうで。
その博士とハチが
過ごしたのは、たったの1年3ヶ月。
けれど、犬たちにとっては、
それは10年近くの歳月。
忠犬ハチ公の話は、
帰らぬ主人を待ち続けた
かわいそうな話ではない。
それは、我が子のように
深く愛された、犬の話。
ハチ公と上野八重子②
ハチは、子犬の頃から
丈夫な犬ではなかったそうだ。
「ハチはよくおなかを壊すから」といって
上野博士の奥様、八重子夫人は、
付きっきりの看病をよくした。
いつものように見送りにいき、
そのまま博士が帰らぬひとになってからは、
奥様が内縁だったため、
これまでの暮らしができなくなった。
ハチをよそへやったのは、
奥様は犬が嫌いだったから
と言うひとがいるけれど。
そうではなくて、
博士を恋しがるハチを見るのが
誰よりもつらかったから。
ハチ公と小林菊三郎③
植木屋の菊さんは、
2番目のハチのご主人だ。
菊さんは、亡くなった最初の
ご主人のお屋敷の庭師で、
秋田からやってきたハチを
東京駅まで引き取りに行ったのも、菊さんだった。
「ハチはご主人の形見だ」といって、
繋がずに、放し飼いにしたのも、菊さん。
だから、ハチは、
10年近くも渋谷に通いつづけられた。
ハチ公と斉藤弘吉④
もし、斉藤弘吉さんという方が
新聞へ寄稿しなかったら
ハチがこれほど有名になることも、
渋谷に銅像として飾られることも、
なかっただろう。
ハチをずいぶん前から知っていた
斉藤さんは、日本犬保存会の会長だった。
だから、渋谷駅で野良犬のように扱われる
秋田犬をふびんに思ったのだろう。
「いとしや老犬物語」という記事が
新聞に載り、ハチはいつのまにか
「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。
ハチ公と安藤照⑤
ハチが新聞に載ってから
日本中がハチ公ブームだった。
銅像は、ニセモノが出回る前にと、
彫像家の安藤照が、大急ぎで作った。
けれど、現在の銅像は
そのときのものではない。
戦時下の金属回収で、ハチ公は
いちど渋谷から姿を消し、
戦後、GHQの後押しと
子どもたちの募金活動により
ハチはふたたび渋谷に帰ってこれた。
忠犬ハチ公⑥
忠犬ハチ公と呼ばれ
一躍有名になった後も、
迎えの時間になれば渋谷駅へ向かい
帰らぬ主人を待っていた、ハチ。
年老いて、足がふらついて
目や耳が悪くなっても。
帰らぬ主人を「わかっていた」と言うひとがいる。
けれど、ハチにとっては、
主人を待つことが、この上ない、しあわせ。
ハチのお墓は、青山霊園にある。
大好きな大好きな、上野博士の隣に。