武田百合子 1
武田百合子を語る時、まずその職業から、と思うのだが、
困ったことに彼女は肩書を極端に嫌う人だった。
夫、武田泰淳の死後、富士山麓での生活を綴った
『富士日記』を発表し、鮮やかに文壇デビューした後も、
「文筆家」と名乗るのを拒んだ。
ある原稿の肩書が「故武田泰淳夫人」となっていた。
それでは困ると編集者が言うと、彼女は笑って答えた。
じゃあ主婦にしてください
さて、武田百合子を何から語りはじめよう。
武田百合子 2
武田百合子夫妻が富士山麓に山荘を構えたとき、
夫泰淳は、百合子に日記を書くよう勧めた。
彼女は首を横に振って、それを渋った。
しかし泰淳はなおも説得を重ねた。
どんな風につけてもいい。
何も書くことがなかったら、
その日に買ったものと天気だけでもいい。
日記の中で反省はしなくてもいい。
反省の似合わない女なんだから。
後年、武田百合子の名を世に知らしめた『富士日記』は
夫の説得の末に生まれた作品である。
武田百合子 3
戦後間もない東京、神田に
「ランボオ」という名の喫茶店があった。
作家武田泰淳はその店の常連客だった。
泰淳は店の女に恋をしていた。
しかし、その恋の進展ははかばかしくなかった。
女は美人で、まわりにはいつも彼女目当ての客がいた。
あるとき泰淳は、女にチョコレートパフェをおごった。
女はうれしそうにそれを食べた。
アメリカ製のチョコレートパフェは当時高級品だった。
それ以来、泰淳は店に来ると
女にチョコレートパフェをおごるようになった。
好きなものを食べさせて、
自分は黙って、はずかしそうに焼酎を飲んでいる。
そんな泰淳を女はいつしか好きになった。
女の名は、鈴木百合子。
のちに武田泰淳と結婚し、武田百合子となるその人である。
もし、チョコレートパフェがなかったら、
武田百合子という稀代の文章家は
生まれていなかったかもしれない。
武田百合子 4
「美しい」という言葉を簡単に使わない。
武田百合子はそう決めていた。
景色が美しいと思ったら、どういう風かくわしく書く。
心がどういう風かくわしく書く。
「美しい」という言葉がキライなのではない。
やたらと口走るのは何だか恥ずかしいからだ。
美しい文章を書こうと思ったら、
美しいものを美しいと書いてはいけない。
勉強になります。
武田百合子 5
戦後間もない頃、「ランボオ」という喫茶店で
武田百合子は働いていた。
作家たちの溜まり場として繁盛していた店の常連客に、
のちに百合子の夫となる武田泰淳がいた。
痩せて元気がなく、女に話しかけるのが下手な人、
というのが百合子の印象だった。
泰淳からの求婚を受けたときも、
それをありがたく思う気持ちはなかった。
戦争で焼け野原になって、
ずっと酒を飲んでいる百合子に、
先のことは何も考えられなかった。
しかし、ともかく、ふたりは結婚する。
以後泰淳の死まで結婚は25年間続くことになる。
結婚することを、俗にゴールインと呼ぶ。
だが百合子と泰淳、ふたりにとってそれは、
ゴールではなく、スタートだった。
武田百合子 6
武田百合子は戦争を経験している。
空襲で家が焼け、親類を渡り歩いた。
裕福だった少女時代から一転、生活は貧窮の底に落ちた。
七月三十日(金) くもりのち晴れ、風涼し
朝起きぬけに、花畑のまんなかで
髪の毛をとかしているといい気持だ。
朝 麦飯、じゃがいもベーコン炒め、さばみりん干し、のり
夕食 麦飯豚ロース
『富士日記』に繰り返し綴られる、平凡な日々。
しかし、平凡な日々の中にこそ、幸せがある。
武田百合子 7
武田百合子の『富士日記』は、
富士山麓に山荘を建てた昭和39年に始まり、
夫武田泰淳が他界した昭和51年に終わる。
13年の間に、溜まった日記帳はじつに12冊。
「長い間よくあきずに書きましたね」
百合子はよくそう言われた。
その度に彼女は胸の内でつぶやくのだった。
私だってキョトンとしているのだ。
よくまあ、この私が書き続けたものだ。