2010 年 7 月 のアーカイブ

小宮由美子 10年07月31日放送


海に生きる人 1

世界初のサーフィン専門雑誌『SURFER』を創刊した人物、
ジョン・セバーソン(John Severson)。
情報の少なかった時代に、雑誌は話題を呼び、
世界中のサーファーたちに支持された。

1971年に雑誌の版権を売却したあと、
ジョンは、サーフィンをしながら
家族と落ち着いて暮らせる地を探し、
世界各地を15年近くも旅し続けた。

ジョンは言う。

 「どこへ旅してもサーフィンが言葉の代わりをしてくれた。
 言葉が通じなくても、サーファー同士はハートが通じ合えるから
 世界中に生涯の友達ができたよ」

ハワイのマウイ島。
彼はいま、やっと見つけた定住の地で波とともに生きている。


海に生きる人 2 

レル・サン(Rell Sun)。

女性プロサーファーのさきがけであり、
そのエレガントなサーフスタイルと美しい生き方から、
「クイーン・オブ・マカハ」と讃えられる伝説の人。

彼女は癌と診断され、余命一年に満たないと告げられても
サーフィンを辞めなかった。

初心者にはにこやかに波をゆずり、自由に、優雅に波に乗る。
立ち上がる体力がなくなってからもボディボードにつかまった。
海に入れば、いつだって笑顔を見せた。

彼女がよく口にしていたという言葉がある。

 「ハワイのアロハ・スピリット。
 それは、本当にシンプルなこと。
 与えて、与えて、そして与える。
 心から与え続けること。
 何も、与えるものがなくなるまでね」


海に生きる人 3

1967年のその日
ハワイ・ノースショアには荒波が押し寄せていた。

誰がこの巨大な波に乗るのか?
海の烈しさに、ただ立ち尽くすサーファーたち。
固唾を飲んで見守るギャラリー。そのビーチに降り立ったのが
エドワード・ライアン・マクア・ハナイ・アイカウ。
通称、エディ。

彼は、いつもと変わらぬ様子で沖へと向かい、
落ちれば命は助からない荒波の頂点から、一気にボードを滑らせた。
その姿は、踊るように優雅だったと伝えられる。
見事に波を乗り切ったエディの名は島中をかけめぐり、
やがて世界中のサーファーの耳に届いた。

その後、船の遭難事故によって33年の短い生涯を閉じた
エディだが、彼は今も「勇者の代名詞」。
大波にチャレンジするハワイアンサーファーたちの間で
語られる合言葉にも登場する。

“Eddie would go.”
エディなら行くぜ。


海に生きる人 4

5階建てのビルほどの巨大な波を乗りこなす
ビッグウェイブ・サーファー、
レイアード・ハミルトン(Laird Hamilton)。

落ちれば命の危険すらある波の表面を、
彼はマッハ40のスピードで降りていく。
その超人的なパフォーマンスを見て
「あなたは恐れを知らない」と言った人に、
彼はこう返したという。

 「僕にとって、恐怖は敵じゃない」
 恐怖心があったからこそ僕は進歩してきた。」

人間が生まれながらに持つ恐怖心。
それをなくそうとするのではなく、むしろ
他人以上に持っていたい、というレイアード。
彼の「恐怖」には、海に対する畏敬の念も含まれる。

 「ビッグウェイブに乗ったとき、
 自分の内に広がるのは謙虚な気持ちだけ。
 とても対抗できない力を目の当たりにして、
 自分のちっぽけさを知る。
 海はいつだって僕らにサインを送ってくるんだ。
 常に、謙虚な気持ちを抱き続けるように、とね」


海に生きる人 5

13年間にわたってワールドツアーをまわり
常に上位にランクインしてきたトップ・サーファー、
ロブ・マチャド(Rob Machado)。

ツアーを引退してから彼が夢中になったのは、
すべてのサーフボードの原型といわれる『アライア』に乗ることだった。
板きれにしか見えないこのシンプルなサーフボードは、
経験豊富なサーファーでも乗りこなすことが難しい。
そのことが、彼のチャレンジ精神をかきたてた。

 「アライアに乗ることは、僕にとって素晴らしい経験になった。
 自分をビギナーの気持ちに戻してくれたからね」

自分にできないことこそが、新しい世界の入り口になる。
できないからこそ、楽しみがある。
マチャドは、それを知っている。

 「よく考えてみると、波に乗るなんて魔法みたいだ」

誰もが憧れる輝かしい経歴の持ち主でありながら、
彼は今も、そんなことを口にする。

挑戦する。そして、楽しむ。
サーフィンは、終わらない。


海に生きる人 6

 「決して水を怖がらず、
 出来るだけ遠くへ行ってごらんなさい」

母は、幼い息子にそう言い聞かせていたという。
そして少年は、たぶん、そのとおりに従った。

のちのオリンピック水泳競技の金メダリスト。
サーフィンの魅力を世界に広め、
近代サーフィンの父と讃えられることにもなった
デューク・カハナモク(Duke Kahanamoku)。
彼の生涯は運命づけられたものだったのかもしれない。

海と出会う季節に。


海に生きる人 7

パドルアウト。
サーフボードの上に腹這いになり、手で漕ぎながら
沖に向かっていくこと。

サーファーたちは、波に乗るために
このパドルアウトを繰り返す。

サーフィンの神様とまで言われるサーファー、
ジェリー・ロペス(Jerry Lopez)が、はじめての挑戦のときに
友人から贈られ、今も大切にしている言葉がある。

 『悩むぐらいならとりあえずパドルアウトしてみろよ』

ジェリーは、自伝に記している。
サーフィンから学んだ多くのことは、サーフィンだけでなく、
人生についての教訓だ、と。

彼はその言葉を、今度は私たちに向けて贈ってくれる。

 「次の一歩を踏み出すときや、
 新しい世界や道を自分の前に開いていきたいけれど、
 いまだに踏みとどまっているようなとき、
 私が友からもらった言葉をぜひ思い出してほしい」

 「悩むくらいならとりあえずパドルアウトしてみろよ」

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五島二日め

五島に三日間帰省した人の記録が
youtubeに載っていた。
二日め、やはり釣っていた….(玉子)

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ついに夏になってしまい

ついに夏になってしまった。
毎日クソ暑い上にお盆も近い。
直史は五島に帰国してしまって
本土に残してきた仕事や仲間たちを忘れ果てて
釣りボケ三昧にちがいない。
ベベンコビッチも毎週「公開練習ライブ」をやるようだ。
練習しながら本番を見せるという驚異のライブだ。
さすが五島のバンドだ。

お盆が過ぎて帰国したとき
直史は日本語がしゃべれるだろうか。
日本語が書けるだろうか。

なんだか心配だ(玉子)

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宮田知明 10年07月25日放送



たとえばこんな映画監督~黒澤明

日本映画界の巨匠、黒澤明が
アカデミー名誉賞を受賞したときのスピーチがある。


 私は、まだ映画のことがよくわかっていません。

そのとき、黒澤監督は80歳。
会場の誰もがその言葉をジョークだと思った。
けれども、黒澤はさらに言葉を重ねた。


 これからも映画という素晴らしいものを
 つかむために努力するつもりです。
 それこそがこの賞に報いる
 唯一の方法だと思うからです。

映画を知り尽くした人の言葉は重い。
世界の黒澤にここまで言わせる映画の素晴らしさを
誰もが再認識するとともに
黒澤が映画にどれほどの愛情をかたむけていたのかを
理解したのだった。



たとえばこんな映画監督~北野武

お笑いタレント、司会者、俳優、作家、歌手、映画監督と、
マルチに才能を発揮している人、北野武。

それだけ多方面に活動できる理由は、
彼のこんな言葉に集約されているのかもしれない。


 鳥のように自由に空を飛びたいなんていうのは勝手だけど、
 鳥が飛ぶためには何万回翼を動かしているか、
 よくみてごらん。

空を飛ぶというたったひとつの行動でさえ、
途方もない労力がいる。

マルチな才能を発揮する人は
マルチに努力をする人だ。



たとえばこんな映画監督~行定勲

「世界の中心で愛を叫ぶ」、「春の雪」、
日本の純愛映画の旗手と言っても過言ではない人、
行定勲。

しかし、彼の恋愛観は、意外と現実的だ。
「運命の出会いとは何か?」と問われた時の言葉。


 出会い頭の瞬間に「運命の出会い」があるわけじゃなく、
 何年、何十年という時間を共に過ごした結果、
 「この人との出会いは必然だった!」
 と思うことなんじゃないかな。

出会いがない!と思ってるあなたも。
運命の人に出会っている可能性は、かなり高いです。



たとえばこんな映画監督~円谷英二

映画は、一見華やかな世界。
でも、映画監督にいちばん大事なことは、
普通の人が必要とされる能力かもしれない。

ウルトラマンやゴジラなど、日本の特撮の礎を築いた
円谷英二は、こんなことを言っている。


 他人から「できますか?」と聞かれたら、
 とりあえず「できます」と答えちゃうんだよ。
 そのあとで頭が痛くなるくらい考え抜けば、
 たいていのことはできてしまうものだ。

もしも、円谷英二がサラリーマンだったとしても。
素晴らしい仕事をしたことだろう。

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渋谷三紀 10年07月25日放送



たとえばこんな映画監督~マイケル・ムーア

ほんとうに、こんな社会でいいのかい?
スクリーンから問いかけるのは、
映画監督マイケル・ムーア。

銃社会、テロ、医療問題・・・
得意のアポなし突撃取材で
アメリカが抱える闇に斬りこみ、
ドキュメンタリー映画を撮り続けている。

ある映画では大手スーパーの本社に乗り込んで
銃弾の販売中止を約束させた。
またある映画では大統領を次の選挙に落選させて
戦争をやめさせようとした。


 どんな馬鹿げた考えでも、
 行動を起こさないと世界は変わらない。

そう話すムーアにとって、
映画は単なる記録でも、一方的な告発でもなく、
目の前の現実を変えるための戦いなのかもしれない。



たとえばこんな映画監督~ウディ・アレン

映画監督としてのウディ・アレンは
批評家にけなされても、客が入らなくても
つくりたい映画をつくりたいように
つくりつづける、孤高の映画人だ。

その偏屈さは、おなじみのメガネとともに
ウディ・アレンのトレードマークになっている。
けれどある作品で彼はこんな台詞を書いた。


 ハートは弾力のある筋肉だよ。

だから凹んでも傷ついても大丈夫、という言葉からは、
ふだん見せない彼の優しさと弱さが見え隠れする。

ただ頭脳明晰なウディ・アレンのこと。
そうやってほろっとさせることさえ、
作戦なのかもしれないけれど。



たとえばこんな映画監督~是枝裕和


 自分の内面を表現するよりも
 自分のふれた世界が
 どれだけ豊かかであるかを記述したい。

そう語るのは、映画監督、是枝裕和。
テレビのドキュメンタリーから
経歴をスタートさせた是枝監督にとってカメラは
相手を見つめるための道具。

相手のこころを探って思い悩むのをやめて
相手をただ見つめ、受け入れる。
すると
見えなかったものが、見えてくるかもしれません。



たとえばこんな映画監督~チャップリン

喜劇王チャップリン。
彼の映画に登場する、ブカブカの靴をはく男は
チャップリン自身の記憶の中から生まれた

深深と雪がふりつもるクリスマス。
食べるものもなく、毛布にくるまるチャップリン親子に
鈴の音が聞こえてくる。
それは施しのスープを配る合図。

「スープをもらってきてちょうだい。」
と頼む母にチャップリンはいう。
「でも、ぼく靴がないんだ。」
母は自分の古い靴を取り出してはかせ、送り出した。

あの日温かいスープを求めて
脱げそうな靴で雪道を走った少年は、
スクリーンで笑いと涙を生み出すキャラクターに姿を変えた。

目の前の悲劇も、別の視点から見れば喜劇のタネになる。
チャプリンの喜劇を見て人が泣くのは
その笑いが悲しみから生まれたものだから。



たとえばこんな映画監督~宮崎駿

アニメーション映画監督、宮崎駿。

彼には忘れられないエピソードがある。

知り合いの子どもを車に乗せたときのこと。
サンルーフを開けたらよろこぶだろうと思ったのに、
雨が降ってきたからと、やめてしまった。

宮崎監督は後悔した。
子どもをよろこばせることを仕事にする自分が、
シートがぬれる。
そんな大人の事情を優先させるなんて。

たしかに。
いまこの瞬間を全力で楽しみたいとき、
身につけた理屈や経験は、ときどきじゃまになる。

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小山佳奈 10年07月24日放送


芥川龍之介 才能

大きな鼻に悩むお坊さんの話とか、
芋粥をいつもの量の3分の2しか
食べられなかったお役人の話とか。

芥川龍之介が取り上げるテーマと言ったら
どうでもいいことばかり。

同人たちもいぶかしむ
芥川龍之介の才能を見つけたのは
文壇の神様、夏目漱石だった。

「みんなの言うことには頓着せず
ずんずんお進みなさい。
大丈夫。
外れたら僕があやまります。」

神様の通行証をもらった芥川は
作家の道を軽やかに歩き始めた。


芥川龍之介 初めての原稿料

初めての給料は
誰にとっても感慨深い。

大作家、芥川龍之介だって
それは例外ではない。

初めて文章でお金をもらったのは
芥川、25歳のとき。

原稿料が届く日の朝、
はやる気持ちを抑えきれず
友人と玄関の前で待ち構えていた。

「1枚1円なら12枚で12円だ。」
「いやいや18円はあるだろう。」
「じゃあ8円おごれよ。」

届いた振替用紙を開けると
そこに書かれていたのは
「3円60銭」。

友人は何も言わずに
芥川の肩を叩いた。


芥川龍之介 イメージ

芥川龍之介は、気を遣う。

腰は低いし、手紙はマメに書くし
訪ねて来た人にはいちいち食事をふるまう。

彼が企画した本が売れなかったときも
その本に参加した120人の作家たちに
自分のお財布から三越の商品券を配った。

そこには冷やかで懐疑的な
孤高の天才のイメージはどこにもない。

寂しがり屋で、やさしくて。
人間、芥川龍之介がそこにはいる。


芥川龍之介 塚本文

バルタザールもイエーツも
文ちゃんは知らなかった。

でも芥川龍之介にとっては、
彼に熱狂する文学かぶれのめんどくさい女子なんかより
文ちゃんと一緒にいた方がよほど安らいだ。

芥川が文ちゃんに送ったプロポーズの手紙は
簡潔で素直で美しい。

「僕のやっている商売は
 日本で一番金にならない商売です。
 うちには年寄りが3人います。
 
 理由はひとつしかありません。
 僕は、文ちゃんが好きです。
 それだけでよければ来てください。」
 
そんな熱い想いで結婚したはずなのに
その後、文ちゃんじゃ物足りなくなって
文学少女を好きになってしまう芥川。

仕方ないですね、
男というものは。


芥川龍之介 子供

芥川龍之介には、
3人の子供がいる。

彼らの名前はみな、
親友からもらった。

長男、比呂志は、菊池寛。
次男、多加志は、小穴隆一。
三男、也寸志は、恒藤恭。

「芸術家だけにはするな」

それが芥川家の唯一の教育方針。
しかし、子どもたちはそれを無視して
音楽家となり、役者となった。

子どもという作品だけは
思うようにいかない。


芥川龍之介 嫉妬

芥川龍之介は、嫉妬する。
志賀直哉という人物と
彼の書く天衣無縫な作品に
憧れ、脅威した。

芥川は志賀にある時こう言った。

「芸術というものが
本当にわかっていないんです」

芸術に終わりはない。
自分で自分を終わりにしない限り。


芥川龍之介 最期の言葉

83年前の今日、
芥川龍之介は自殺した。

彼が最期に遺したと言われる言葉は
あまりにも有名だ。

「将来に対する漠然とした不安」。

でも実は漠然となんかじゃない
もっとたしかな不安がたくさんあった。

親友の発狂。義兄の自殺。
借金。家族内の不和。
そして、文壇のやっかみ。

そんな現実的な数々に体の不調も重なって
彼はやっぱり死ぬしかないなと思った。
そうして彼は睡眠薬をたくさん飲んだ。

亡くなった夫を最期に送り出す時
妻の文ちゃんはこういった。

「お父さん、よかったですね。」

文ちゃんだけは
何もかもわかっていた。

今日は、河童忌。

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八木田杏子 10年07月18日放送



作家の言葉 「唯川恵」

生き方を選べるようになって、
女性は迷うようになった。

唯川恵は、そんな女性たちへの想いを
小説「永遠の途中」にこめている。

結婚して仕事をやめた薫と、結婚せずに仕事をつづける乃梨子。

ふたりの主人公は、お互いを比べながら
競い合うようにして生きる。

そして60歳になると、こんな言葉を口にする。


 自分のもうひとつの人生を勝手に想像して、
 それに嫉妬してしまうのね。

 いつも生きてない方の人生に負けたような気になっていたの。

 人生はひとつしか生きられないのに。

どんな選択をするかよりも、
選んだ答えを信じて生きぬくことのほうが
大切なのかもしれない。



作家の言葉 「伊坂幸太郎」

伊坂幸太郎の小説には
隠されたメッセージがある。

著書「モダンタイムス」に登場する
井坂好太郎という小説家。
その自虐的につくられたキャラクターは
死に際に、作家としての苦悩を吐露する。

「お前の本は売れただろう」と言われると、こう答える。


 薄っぺらいからな。読みやすいから、誰でも読めるんだよ。

そして、たどたどしく、言葉をつづける。


 俺が小説を書いても世界は変わらない。

 今までだって、分かってくれた奴いなかったんだよ。

ジェットコースターのようなストーリー展開にのせられて
あっという間に読み終えてしまうこの一冊を
もういちど、ていねいに読み返してみると、
たった一人でも伝わればいいと願いをこめた言葉が
見つかる。



アスリートの言葉


 蝶のように舞い、蜂のように刺す

モハメド・アリの闘い方は、そう呼ばれていた。

力任せに殴り合う大男たちに、
華麗なフットワークと、鋭い左ジャブで切りこんでいく。

1960年。18歳のアリは、
ローマオリンピックで金メダルをとる。
それでも黒人差別が変わらない現実を嘆いて、
金メダルを川に投げ捨てる。

1967年。25歳のアリは、
ベトナム戦争の徴兵を拒否。
ボクシングライセンスとヘビー級タイトルを剥奪される。

3年7カ月のブランクを経て、実力で王座に返り咲く彼に
声援をおくったのは、ボクシングファンだけではなかった。

差別や戦争とも闘いつづけた、モハメド・アリ。

モハメド・アリは、
ヘビー級ボクシングの闘い方を一変させると同時に
アスリートのあり方も変えていったのだ。


ハプスブルグ家の言葉

約6世紀にわたって、
ヨーロッパで権勢を誇ったハプスブルグ家。

オーストリア、スペイン、ハンガリー、神聖ローマ帝国などの
皇帝・国王をうんだ名門王家は、血を流さずに闘う。

ハプスブルグ家には、こんな言葉が伝わっている。


 戦争は他国に任せておけ。
 オーストリアよ、汝は幸せな結婚をするがよい。

政略結婚があたりまえだった王侯貴族。
そのなかでもハプスブルグ家は、
夫婦仲が良く子宝に恵まれことが多かった。

領土争いが過酷なヨーロッパでは
戦争が上手い国より、戦争をしない国が繁栄する。

どんな戦略も、幸せな結婚にはかなわない。



哲学者の言葉

ヨーロッパ最初の哲学者タレスは、こんな言葉を残した。


 万物の原理は水である。

その意味を解読しようと頭を悩ませる私たちに
哲学者竹田青嗣(せいじ)は、まず言葉との向き合い方を教えてくれる。


 言葉というものは世界の全体や起源を
 言い尽くせないようにできている。

たとえ哲学者であっても、
自分が感じたこと全てを、言葉で表現することはできない。
だから言葉は、言葉どおりに受けとめてはいけないのだ。

では、哲学者の言葉をどう扱えばいいのか。


 「万物の原理は水である」という言葉には、
 タレスの世界への直感がこめられていたはずだ。

哲学者が言葉でたぐりよせようとした直感に、想いを馳せてみる。
そうすると、言葉をきっかけにして、哲学の世界が広がっていく。

おなじように。
恋人、上司、親からもらう言葉も
言葉どおりに受け止めずに、その言葉にこめられた気持ちを考えてみる。

理解するとは、きっとそういうこと。



子どもの言葉


 人生に必要な知恵はすべて
 幼稚園の砂場で学んだ。

そんなタイトルの本が、ベストセラーになった。

人として生きるために大切なことを、
私たちは5歳までに学んでいたらしい。


 何でもみんなで分け合うこと。
 ずるをしないこと。
 人のものに手を出さないこと。
 誰かを傷つけたらごめんなさい、と言うこと。

すべての大人がこれを守ることができたら。
環境問題も、国際問題も、人権問題も
なくなっていたかもしれないのに。
残念ながら、私たちは
オトナになると言い訳を学んでしまうのだ。



名人の言葉

個性とは、つくるものではなくて、
ふとしたときに、出てしまうもの。

名人・羽生善治は、
将棋の話をしながら人生を語る。


 将棋は、まず定跡で打ちます。
 答えがないとか、答えがわからない場面、
 混沌とした場面のときに何を選ぶかで、
 自分の持っているものを出せる。

思いがけないトラブル、先が読めない苦しみ、
それをどう乗りこえるかが、個性になる。

混沌からうまれた自分だけの一手は、
定跡をこえていく。

仕事にも、恋愛にも、あてはまりそうだ。



研究者の言葉

多数決をとったとき、
自分とおなじ意見が多いと、それだけで安心する。

賛成の多い意見が正しいとは限らないのに、
多数は強気になりやすい。

日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹に
こんな言葉がある。


 真実は、いつも少数派

わかってもらえなくて、笑われるかもしれない。
間違いだったと証明されて、恥をかくかもしれない。

そんな不安に足をとられずに、
少数派にまわっても信じることを貫く人が、
真実を塗りかえていく。

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http://www.canneslions.com/work/film/

http://www.canneslions.com/work/film/

Real Player Downloader をインストールして
上記URLから入賞作品を見ることをおすすめします。
見るだけで.flvで保存されます。

やがてこのHPは閉鎖され、見ることができなくなります。
いまのうちに、迅速に「保存」した方が
いいと思うです(玉子)

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細田高広 10年07月17日放送


イングマール・ベルイマン 映画監督

イーストウッド、80歳。
ウディ・アレン、74歳。

創造的な仕事は若い人の方が向いている。
そんな一般論も映画監督たちには
まるで当てはまらない。

スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマン。
彼もまた、重ねた年齢すら映画の燃料にする男だった。

70歳を越えて一度映画からは引退。
だが80歳半ばにカムバックして
再びメガホンを取った。

 老年は山登りに似ている。
登れば登るほど息切れするが、
 視野はますます広くなる。
 
彼の言葉を聞くと、
歳を重なるのがちょっと楽しみになる。


ケリー・ノーブル 歌手

独身女性が「負け犬」と呼ばれ、「婚活」を迫られる。
自由なはずの恋愛は、いつから
義務になってしまったのでしょう。

「負け犬」と揶揄された女性から、
圧倒的な支持を集めたアメリカのシンガー、
ケリー・ノーブル。

どうして、彼女の歌うラブ・ソングが海を越えて
日本女性の胸に響いたのか。
彼女のインタビューを聞いて、
少しだけ分かった気がします。

 負け犬?
彼女たちは負けたわけではないわ。
“間違った結婚”をしていないだけ。

ケリーが歌っているのは、
ラブ・ソングのフリをした、
女性「応援歌」だったのです。


ドリー・パートン 歌手

40年もの間、カントリー音楽界のトップに
君臨しているドリー・パートン。

ショービズの世界で成功を収めた彼女にも、
初めから華麗な衣装が
用意されていたわけではない。

幼少期の暮らしは貧しく、
ボロボロの布袋を縫い合せて作った
服を着ていた。

彼女は言う。

私の見方からすると、
虹が欲しけりゃ、
雨は我慢しなきゃいけない。

その晴れやかな歌声は、
長い雨に耐えて
手にしたものなのだ。


エルンスト・ルビッチ 映画監督

映画監督エルンスト・ルビッチは、
アメリカ人に恋を教えた男。

男女の複雑な心境を、
視線や小物で表現する彼の手法は、
“ルビッチ・タッチ”と名がついた。

だが彼の本領は、手法だけではない。
男と女への鋭い洞察こそ、
ルビッチの持ち味だ。

例えば、こういうセリフ。

 男は2人以上の女性を同時に愛し、
 消去法で1人に絞る。合理的ね。

何人の男女が、
スクリーンの前で冷や汗をかいたことか。
その伝統は今でも「ラブコメ」という
ジャンルに受け継がれている。

恋愛学の講義は、教室より、映画館がふさわしい。


イングリッド・バーグマン

女優イングリッド・バーグマン。
映画「カサブランカ」で脚光を浴びると、
「ガス灯」でアカデミー主演女優賞を獲得。

だが、そのキャリアの絶頂期に、
仕事も家庭も捨てイタリアへと発つ。
巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の作品に心酔した、
というのが理由だった。
世論からは激しく非難され、ハリウッドから追放された。

だが、数年後。
バーグマンはケロッとアメリカに戻ると、
再びアカデミー賞に輝く。
その表情は、追放劇なんてなかったかのように
晴れ晴れとしていた。

バーグマンは言う。

幸せとは、健康で記憶力が悪いことよ。


ジュディ・ガーランド

映画「オズの魔法使い」のドロシー役で
スターになったジュディ・ガーランド。

その朗らかな歌や演技と裏腹に、
子役の頃から、
睡眠薬に頼る生活を送っていた。

大作に出演し有名になる一方、
過密スケジュールと薬物依存に悩まされ、
離婚と自殺未遂を繰り返した。

私は千の人々の喝采より、
愛する人からの一言、二言が欲しい。

映画スターに憧れる、
私たち普通の人に
映画スターは憧れたりする。


レイ・チャールズ

レイ・チャールズの「What’d I Say」(ホワッド・アイ・セイ )。
「ローリング・ストーン」誌が選ぶ、
もっとも重要な500曲の10位にランクされている。

この曲で印象的なのが、エレクトリック・ピアノだ。
当時ポピュラーソング界では
ほとんど使われていなかったこの楽器に、
レイ・チャールズは真っ先に飛びついた。
周りのミュージシャンたちは
「小っちゃいピアノを買った」とバカにしたらしい。

だが彼は、その小さなピアノを
効果的に使う方法を探り、「What’d I Say」をつくった。

  君たちは目が開いているのに、何も見えないんだな。

そう言いながら陽気に歌う
レイ・チャールズ。
その姿は、目を閉じていても見えてくる。

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三島邦彦 10年07月11日放送



哲学者からひと言/大森荘蔵

見るもの、聴くもの、感じるもの。
世界のすべてを疑うところから、哲学は始まる。

戦後の日本哲学界の巨人、大森荘蔵(おおもり・しょうぞう)は、
ある日の対談で、哲学者の素質について聞かれた時、こう語った。


哲学をやるというのは極端に言えば一種の病気で、
健康な人間がちょっと気にするだけのことがどうしてもとことん
気になる因果な病気だとお取りくださっていいんじゃないかと思うんです。

哲学の巨人が世界を疑う姿勢は、とても謙虚だった。



哲学者からひと言/マルクス・アウレリウス

その男を、
劇作家オスカー・ワイルドは「完璧な男」と呼び、
哲学者ヴォルテールは「もっとも偉大な男」と呼んだ。

皇帝にして哲学者。
第16代ローマ皇帝 マルクス・アウレリウス。

昼は皇帝として、巨大なローマ帝国を治め、
夜は哲学者として、自らの思考を書き記した。

読書と瞑想を好んだアウレリウス。
政治を行い、軍を率いるよりも
純粋な哲学者として生きたかった。
けれど、多くの難題を抱えたローマ帝国の皇帝として、
責任を放棄するような人間でもなかった。

圧倒的な権力を持ちながら、
暴君にならなかったアウレリウス。
そこには、徹底した自分への厳しさがあった。
例えば、こんな一文を残している。


善い人間とはどういうものかを論ずるのはもういい加減で切り上げて、
そろそろ善い人間になったらどうだ。

2000年ちかく経った現在でも、
思わず背筋が伸びるような言葉です。

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