渋谷三紀 10年07月25日放送
たとえばこんな映画監督~マイケル・ムーア
ほんとうに、こんな社会でいいのかい?
スクリーンから問いかけるのは、
映画監督マイケル・ムーア。
銃社会、テロ、医療問題・・・
得意のアポなし突撃取材で
アメリカが抱える闇に斬りこみ、
ドキュメンタリー映画を撮り続けている。
ある映画では大手スーパーの本社に乗り込んで
銃弾の販売中止を約束させた。
またある映画では大統領を次の選挙に落選させて
戦争をやめさせようとした。
どんな馬鹿げた考えでも、
行動を起こさないと世界は変わらない。
そう話すムーアにとって、
映画は単なる記録でも、一方的な告発でもなく、
目の前の現実を変えるための戦いなのかもしれない。
たとえばこんな映画監督~ウディ・アレン
映画監督としてのウディ・アレンは
批評家にけなされても、客が入らなくても
つくりたい映画をつくりたいように
つくりつづける、孤高の映画人だ。
その偏屈さは、おなじみのメガネとともに
ウディ・アレンのトレードマークになっている。
けれどある作品で彼はこんな台詞を書いた。
ハートは弾力のある筋肉だよ。
だから凹んでも傷ついても大丈夫、という言葉からは、
ふだん見せない彼の優しさと弱さが見え隠れする。
ただ頭脳明晰なウディ・アレンのこと。
そうやってほろっとさせることさえ、
作戦なのかもしれないけれど。
たとえばこんな映画監督~是枝裕和
自分の内面を表現するよりも
自分のふれた世界が
どれだけ豊かかであるかを記述したい。
そう語るのは、映画監督、是枝裕和。
テレビのドキュメンタリーから
経歴をスタートさせた是枝監督にとってカメラは
相手を見つめるための道具。
相手のこころを探って思い悩むのをやめて
相手をただ見つめ、受け入れる。
すると
見えなかったものが、見えてくるかもしれません。
たとえばこんな映画監督~チャップリン
喜劇王チャップリン。
彼の映画に登場する、ブカブカの靴をはく男は
チャップリン自身の記憶の中から生まれた
深深と雪がふりつもるクリスマス。
食べるものもなく、毛布にくるまるチャップリン親子に
鈴の音が聞こえてくる。
それは施しのスープを配る合図。
「スープをもらってきてちょうだい。」
と頼む母にチャップリンはいう。
「でも、ぼく靴がないんだ。」
母は自分の古い靴を取り出してはかせ、送り出した。
あの日温かいスープを求めて
脱げそうな靴で雪道を走った少年は、
スクリーンで笑いと涙を生み出すキャラクターに姿を変えた。
目の前の悲劇も、別の視点から見れば喜劇のタネになる。
チャプリンの喜劇を見て人が泣くのは
その笑いが悲しみから生まれたものだから。
たとえばこんな映画監督~宮崎駿
アニメーション映画監督、宮崎駿。
彼には忘れられないエピソードがある。
知り合いの子どもを車に乗せたときのこと。
サンルーフを開けたらよろこぶだろうと思ったのに、
雨が降ってきたからと、やめてしまった。
宮崎監督は後悔した。
子どもをよろこばせることを仕事にする自分が、
シートがぬれる。
そんな大人の事情を優先させるなんて。
たしかに。
いまこの瞬間を全力で楽しみたいとき、
身につけた理屈や経験は、ときどきじゃまになる。