ラフカディオ・ハーンが来日した数年後、
ひとりのポルトガル人が神戸の町に降り立つ。
ヴェンセスラウ・デ・モラエス。
ポルトガル領事館の日本総領事長を務め
「日本通信」という本を発表したが、
ハーンほど有名にはならなかったし、
もてはやされることもなかった。
最愛の人、おヨネが亡くなると
彼女の故郷、徳島で暮らし始める。
そびえ立つ眉山と自然の美しさに惹かれたのだろうか。
こんな言葉を残している。
立ち並ぶ木々の茂み、轟音をあげて鳴る珍しい滝、
囁く小川、美しい田畑で飾り立てたふんだんに緑また緑の風景・・・
いつも和服姿で正座をしていたポルトガル人は、
島国の小さな町で、
緑の中に溶けていった。
宮沢賢治の生まれた4年後、
尾形亀之助は、産声をあげた。
どちらも東北出身で
病気に悩まされ
若くして亡くなったが、
ふたりとも詩人だった。
亀之助は、有名になろうとも
金持ちになろうともしなかった。
これは、「ある来訪者の接待」という作品の一説。
どてどてとてたてててたてた
たてとて
てれてれたとことこと
ららんぴぴぴぴ ぴ
とつてんととのぷ
ん んんんん ん
てつれとぽんととぽれ
世捨て人のように暮らした亀之助が紡ぐ言葉は、
常人の理解を遥かに超えている。
世界50カ国を放浪した青年は、
1974年、フィリピンのルバング島に渡った。
残留日本兵、小野田寛郎(ひろお)を探すために。
冒険家、鈴木紀夫、24歳。
小野田さんを日本に送り届けたあとは、
雪男を探そうと思った。
何度もヒマラヤを訪ねたが、
世間をあっと言わせる証拠は見つけられず、
苦しい胸の内を明かす。
早く雪男の件は片づけたいのに、神様はどうして助けてくれないのだ。
神は、この俺の運命を如何に決めてあるのだ。
そして六度目の雪男探索のとき、
雪崩に遭い帰らぬ人となった。
慰霊のためヒマラヤを訪れた小野田さんは、
彼のことを、友と云ったそうだ。
現存する明治、大正時代の絵はがきには、
時折、髭ぼうぼうの痩せた男が写っている。
彼こそが、世界探検家、菅野力夫だ。
明治44年から、のべ8回も世界探検旅行に赴き、
そのたび、新聞に大きく取り上げられた。
足跡は全て写真で残されている。
スマトラ島では酋長の格好をし、
満州ではラクダに跨がり、
ビルマでは象の前で腕を組み、
ブラジルではアリ塚の上に立ち、
ペルーでは頭蓋骨を持ってポーズをとった。
それが全て、絵はがきにプリントされた。
テレビなどあるはずもなく、
ラジオも新聞も今ほど普及していない時代では、
絵はがきが最大級のマスメディアだった。
世界探検旅行を経験し、
彼が何を語ったのか。
その真実は謎に包まれている。
だけど、
どれほど楽しかったのか。
それは数々の絵はがきが、雄弁に語っている。
トレードマークは、
仙人のような長く白い髭。
明治生まれの画家、熊谷守一は
いい絵を描こうとも、有名になろうとも思わなかった。
絵を描くのは、気が向いたときだけ。
知人に金を借りては、千駄木や東中野の借家を転々とする。
絵が売れるようになったのは晩年のことで、
文化勲章も全て辞退した。
お国のために何もしたことないから。
身の回りだけを見つめ、
自由に、気ままに生きて、97歳で目を閉じた。
下手も絵のうち。
画壇の仙人と言われたが、
まさに生き方も仙人なのである。
人並み外れた運動能力は、
スポーツ以外にも生かされることがある。
たとえば、刑務所からの脱獄。
明治時代の囚人、西川寅吉は
脱獄を六度も重ねた。
濡れた囚人服を壁に叩きつけ、
一瞬の吸着力を利用して壁を乗り越えたという。
盗みに入った質屋では
逃亡する際に五寸釘を踏み抜いたが、
そのまま12キロも逃走し、
五寸釘の寅吉と呼ばれるようになった。
世間を騒がす痛快なアンチヒーローは、
このご時世、なかなか現れにくいようだ。
11月になると
赤い小さな実を付けるコヤスノキは
トベラ科の常緑樹で、
日本では兵庫県の一部と岡山県の東部でしか生きられない。
この珍しい植物を発見したのは、
明治時代の博物学者、大上宇市だった。
農業の現状を知らない都会の学者を
名指しで批判する武骨な男だったが、
牧野富太郎とは親交を深めた。
ふたりとも学歴に乏しく、学会から冷遇されたせいかもしれない。
秋空晴れて日は高し
今こそ我等の散歩時
芒(すすき)は野道に招くなり
小鳥は森によばうなり
よばう小鳥は何々ぞ
雀 山雀(やまがら) もず 鶉(うずら)
こんな自作の歌を口ずさみながら、
野山をねり歩いた。
村人には、ヒマ人が来たと疎まれたが、
やがてその研究内容が評価され、郷土の英雄となった。
ひとつの道に通じていれば、いつか必ず花開く。
そんなメッセージが込められているようでならない。