2010 年 9 月 のアーカイブ

三島邦彦 10年09月12日放送



人と、壁。/ラスコーの洞窟壁画

歴史的な発見のきっかけは、
犬が穴に落ちたことだった。

1940年9月12日。
フランスのある田舎町の森の中で、
少年たちが犬と遊んでいた。
森には数年前の落雷で空いた穴があり、
そこに犬が落ちてしまったのだ。

犬を助けようと穴に降りると、
穴は、洞窟につながっており
少年たちはその壁に牛や馬、鹿の絵を見つける。

ラスコーの洞窟壁画発見の瞬間だった。

一万五千年の時を経て、洞窟の壁が、
少年とクロマニヨン人を結びつけた。


人と、壁。/ロジャー・バニスター

1マイル、約1609メートル。
半世紀前、この距離を4分以内で走ることは、
人類が決して越えられない壁だと言われていた。

あるスポーツ記者は、
「人類が南極点と北極点に到達し、
ナイル川の源流を発見し、海の最深部に達し、
未開のジャングルを踏破した現在も、
1マイル4分という領域はいまだ未踏のまま、
多くの者たちの努力を拒み続けている。」という記事を書いた。
ある医者は、1マイル4分は人体の限界であり、
その挑戦は生命に危機を及ぼすこともあると警告を発した。

しかし、その壁は破られた。

1954年、イギリスの大学生ロジャー・バニスターが、
1マイルを3分59秒4で走り抜けたのだ。

この2ヶ月後、
ジョン・ランディという選手が3分58秒0の世界新記録を出し、
つづく1年の間に23人ものランナーが1マイル4分の壁を破った。

誰かが壁を超えたとき、そこにもう壁はなくなる。
ロジャー・バニスターは、
1マイル4分の壁から人類を自由にしたのだ。


人と、壁。/ウォーレン・バフェット

ニューヨーク、ウォール街。

壁の街という名前は、この街を作ったオランダ人が
外敵の侵入を防ぐために
材木で壁を築いたことに由来する。

2008年にはビル・ゲイツを抜いて
世界の長者番付第1位に躍り出た天才投資家、
ウォーレン・バフェットは
ウォール街から1万キロ離れたところに住んでいる。
そして、こんなことを言う。

みんなが貪欲になっている時は警戒しろ。
みんなが警戒している時は貪欲になれ。

ウォール街の逆をいって富を築くのも
また壁を味方にしたといえるだろうか。


人と、壁。/富山県警山岳警備隊

山を見ると、登りたくなる。
壁を見ると、越えたくなる。

そんな登山家の聖地は飛騨山脈、通称北アルプス。
その厳しく切り立つ岩肌は、山と言うよりもはや壁。
どんなベテランの登山者でも
思わぬ事故に遭遇することもある。

しかし、そこには富山県警山岳警備隊がいる。
富山県警山岳救助隊は1965年に結成され
隊員数27人。救助した人は3,000人。
日本一の山岳警備隊と呼ばれ、
「落ちるなら、富山側へ」と言われるほど登山者の信頼は厚い。

想像を絶するような過酷な状況での人命救助の場で
人体の限界という壁に直面した時、彼らを支える言葉がある。

苦しくても、苦しくない。 

彼らもまた、壁を越えているのだ。


人と、壁。/ネルソン・マンデラ

倒れている時、地面は壁になる。
壁をなくすには、立ちあがればいい。
立ちあがった時、地面は壁ではなく、道になるから。

南アフリカ共和国の元大統領、ネルソン・マンデラ。
人種の壁と闘い続けた彼は、こんな言葉を残している。

転ばないことより、
転ぶたびに立ちあがること。
そこに人生の輝きがある。

倒れることを、恐れない心。
それが、壁を道に変える極意のようです。

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三國菜恵 10年09月12日放送


人と、壁。/坂口弘

坂口弘は
死刑を言い渡されて7年が過ぎようとしている。

彼は、拘留所のなかでペンを執り
短歌を書きつづけた。
そしてそれを、新聞の寄稿欄に投稿していた。

定期的に届く歌に
多くの人がハッと心を動かされ、
気づけば、彼は歌壇の「常連」になっていた。

紙を滑る筆ペンの音の心地よさよ 房(ぼう)にも秋はひそやかに来ぬ

彼の短歌は一冊の本になって
壁の外で、ささやかな脚光を浴びている。


人と、壁。/ピーター・ブルック

イギリスの舞台演出家、ピーター・ブルック。
彼は、なにもない空間に可能性を見出すことによって
伝統の壁を軽々と超えた。

 どこでもいい、なにもない空間―
 それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。
 ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、
 もうひとりの人間がそれを見つめる―演劇行為が成り立つためには、
 これだけで足りるはずだ。

いままで誰も見たことがなかったピーター・ブルックの演劇を
言い表す言葉はどこにもなかった、
それはいま、ふたつの言葉で表現されている。
「古典的、かつ、前衛的」


人と、壁。/中村一義

自らつくった心の壁が、
自らを閉じ込めてしまうこともある。

ミュージシャン・中村一義にもそんな時期があった。
自分の部屋をスタジオにして閉じこもり
壁のように閉ざしたドアの向こうで
ひとり聴きつづけた心の声。

自分の心に光をあてたその歌に救われた若者は多い。

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細田高広 10年09月11日放送


ストラディバリウス

現代の技術をもってして、
何故300年も前のヴァイオリン、
ストラディバリウスを越えられないのか。

その秘密を解き明かそうと、
いくつもの科学者チームが分析をしてきた。

木材に秘密がある。ニスの塗り方が決め手だ。
いくつもの仮説は生まれた。
しかし、ストラディバリウスには近づけない。

ヴァイオリニスト
イツァーク・パールマンは言う。

ストラディバリウスは ”音”を持っています。
すでに音楽がそこにある。
自分は弓を楽器の弦にのせて動かすだけで、
音楽が流れ出てくるのです。

科学はまだ、感性を超えられない。


レス・ポール

3度のグラミー賞を
受賞した音楽家にして、
発明家の殿堂入りも果たした男。

レス・ポール。

彼が生まれなければ、
B.Bキングも、ジェフ・ベックも、
キース・リチャーズも生まれなかった。

彼のギターを愛する男を並べれば、
アメリカの
ポピュラー音楽史になってしまう。

94歳で無くなるまで、
毎週月曜日にイベントを開催し、
現役でギターを弾き続けたレス・ポール。

彼は、語る。

成功する秘訣は、
今より少しだけ上を目指すこと。
これを続けることだね。

天国でもきっと、
レス・ポールは鳴りやまない。


スティーブ・ヴァイ

 譜面はモナリザよりも美しい

と言ったのは、
ギタリストのスティーブ・ヴァイ。

フランク・ザッパから技術を学び、
バークレー音楽院で理論武装をした。

奇抜な衣装を身に纏い、
長髪をたなびかせるその姿。

3本のネックがついたギターから
繰り出される、
ギターの制約や定石を完全に無視した
フレーズの数々。

そんなスティーブ・ヴァイを
ファンたちは変態ギタリストと呼ぶ。

「上手」や「かっこいい」を追い求めても、
新しい音楽は生まれないから。

「変態」は、音楽家にとって
最大の誉め言葉かもしれない。


久保田五十一(いそかず)

バット職人、久保田五十一。

父親が51歳の時に生まれたから、
五十一と書いて、「いそかず」と読む。

51という数字の魔力だろうか。
彼は「51番」を背負うある男と
運命の出会いを果たす。

メジャーリーグのシアトルマリナーズで活躍する、
イチロー選手だ。

木を見極め、精巧な技術を駆使してバットを仕上げる。
イチロー選手は、そんな久保田がつくるバットしか使わない。

それでも久保田は、控えめに言う。

バッターと木が主役。私は脇役です。

10年連続200本安打への期待がかかる今年。
イチロー選手と久保田の記録は、
どこまで伸びるだろうか。

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八木田杏子 10年09月11日放送


あるお婆さんと蝉

都会と田舎では、セミの鳴き方も違うらしい。

青森の八戸から東京に来たお婆さんは、
排気ガスに咳き込みながら、
セミの鳴き声が違うことに気がついた。

わずかに残された木々にしがみついて、
せわしない鳴き声をたてる東京のセミ。

そんなセミも、
山にかこまれた田んぼが青々と広がる場所では、
のんびりと鳴いているらしい。

明日は日曜日。
せめて、一日のんびりと過ごしませんか。


ある教師の宿題

夏休みを振り返ってみよう。

頑張った夏は、これからのチカラになる。
さぼった夏は、これからもずっと足をひっぱる。

ある小学校の先生は、
漢字ドリルをやらなかった子供に、
その何倍もの夏休みの宿題を出していた。

おどろいた親に、先生はこう言った。

私は厳しいから、
そのときは恨まれるけど、
あとから感謝されるんです。

やり残した夏の課題は、ありませんか。
まだきっと、間に合いますよ。


ある歌手とサトウキビ

昭和20年の夏
沖縄には270万発の銃弾と6万の砲弾が撃ち込まれた。
ロケット弾は2万、機関銃の弾はおよそ3000万発だそうだ。

それでも沖縄の海は青い。
空も高くぬけるように青い。
あの年の夏も、きっと青かっただろう。
さとうきび畑の風も
きっと同じように吹いていただろう。

沖縄から生まれたバンド「かりゆし58」は、
「ウージの唄」に想いをこめる。

ウージの小唄ただ静かに響く夏の午後
あぜ道を歩く足を止めて遙か空を見上げた
この島に注ぐ陽の光は傷跡を照らし続ける
「あの悲しみをあの過ちを忘れることなかれ」と

沖縄に行くと、誰もが癒される。
その居心地のよさは、
辛い体験をした人たちが、破壊された土地の上に
もう一度築きあげてくれたもの

それを忘れないようにしたい。

もうすぐ、65年目の夏が終わります。

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小山佳奈 10年09月05日放送



「フランツ・カフカの日常」

朝8時に役所に行き、
午後2時まで働く。
午後3時に家族と昼食をとり、
仮眠をし、散歩をし、夕食をとった後は、
夜10時半から午前5時まで執筆。

これが、
20世紀最高の作家、
フランツ・カフカの
すべてであった。

独身で
役所勤めで、
実家暮らし。

おそろしく規則正しく
おそろしく不規則な生活。

そこから彼は
おそろしく奇妙な作品を
次々と生みだした。



「公務員 フランツ・カフカ」

カフカは優秀な
公務員であった。

「労働者傷害保険協会」という
聞くからにまじめそうな役所に
勤めていたカフカは
それにも負けないまじめな仕事ぶりで
上司からの信頼も厚かった。

何よりも頼りにされたのが
文書の類だった。

友人たちが文壇で活躍する中、
彼は黙々と
協会の年次報告書や
保険に関する論文といったものを
書き続けた。

カフカはあくまで
優秀な公務員であった。



「フランツ・カフカの奇妙な行動」

フランツ・カフカは
数多くの芸術家と同じように
生きている間はほぼ無名であった。

生涯で出版した本は全部で7冊。
それもごく少ない部数しか刷られず
一般の人にはなかなか目につかなかった。

であるのに、カフカはなぜか
せっかく書店に並んでいる本を
ことごとく買い占めた。

売れ残っているのが恥ずかしいのではない。
自分の作品が人の目に触れることを
極度に嫌がったのだ。

そんなカフカは死ぬ間際、
親友のブロートに切願した。


 すべての手紙と作品は破棄するように。

ブロートは深くうなずきながら、死後、
彼の作品を次々と世に送り出した。

私たちは
親友の大いなる裏切りに
感謝しなければならない。



「フランツ・カフカ少年」

14歳のフランツ・カフカが
友人の家に遊びに行った時の話。

「作家になりたい」と口にしたカフカを
その友人の兄が笑った。

それに対してカチンときたカフカは
帰り際、その家の訪問帳にこう書いた。


 出会いがあり、交わりがある。
 別れがあって、そしてしばしば再会はない。

残された中でおそらく
人生最初の作品において
その類まれなる文才と皮肉は
すでに完成されていた。



「フランツ・カフカと女」

カフカはめんどくさい男だ。

フェリーツェという女性と
二度、婚約して、
二度、破棄した。

500通と言う尋常ではない数の手紙を送っては
返事がないと不満をもらす。

彼女がカフカに魅かれ始め
実際に会いたいと言った途端に
さまざまな理由をつけて逃げ回る。

挙句の果てに
仲介役に入った彼女の友人と
こっそり文通を始める。

カフカは本当に
めんどくさい男だ。

そんなめんどくさい男を
好きになってしまうのが、
女という生き物。

その証拠に、フェリーツェは
カフカからの手紙を
生涯、捨てることはなかった。



「フランツ・カフカの発明」

フランツ・カフカ。

作家であり公務員でもあった
彼の仕事は、
工場で事故にあった労働者に
ちゃんと保険が支払われているかを
監督することだった。

現場へ視察に行くと心配性の彼は必ず
「安全ヘルメット」をかぶった。
それを見た工員たちが
ヘルメットを着用するようになると
工場では事故が大幅に減った。
そこから「安全ヘルメット」が
世界中に普及したのだ、とか。

工事現場を見かけたら
カフカをちょっと思い出そう。



「フランツ・カフカと南京虫」

今やらなくてはならないことがあるときほど、
今やらなくていいことがはかどる。

フランツ・カフカは
5年の間、長編小説に
かかずらっていた。

逃げたい一心で書きだした
とある短編は
その短さも手伝って
一気に書き上がった。

それが後に
カフカの名を不朽のものにした
「変身」。

ちなみにこの「変身」、
当初は「南京虫物語」という
タイトルだったという。



「フランツ・カフカの最期」

1924年、
カフカは死んだ。
結核だった。

激しい痛みの中でも
彼は書くことをやめなかった。

最後の作品は「断食芸人」。
自ら食べることを拒む男の話を
食べることを拒まれた作家は
震える手で書きあげた。


 ぼくの書くものに
 価値がないとしたら、
 それはつまり、
 この自分がまるで
 無価値だということだ。

フランツ・カフカは
やはり作家だ。
やさしくて孤独な
世界最高の作家だ。

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五島のはなし(114)

先日、超ハイクオリティの
ラジオCMをつくりつづける会社
RンダムハウスのT島さんから
「もっとインドア派に向けても五島の良さを教えてください・・・」
と言われた。

インドア派に?五島の良さを?
・・・五島に行く必要ないんじゃないか。と正直思ったが、何かあるだろうか?
たとえば、コンカナ王国。
鬼岳のふもとに広がる、温泉を有するリゾート。

あとは、何だろう?
昔だったら素敵な映画館があったんだけどなあ。
正確に言うと、田舎でしかありえない豪華3本立てが見られる映画館。

僕の最初の映画の記憶は「ET」で、
そのとき、ほかに「ナビゲーター」っていう別の宇宙ものと、あともう一本、
なんだったっけ、ぜったい違うはずなのにさっきから「エマニエル夫人」という
タイトルだけが浮かんでくる、、、とにかく3本立てだった。

考えてみれば、よー3本も続けて映画を見るわ。
終わったころには1本目の内容忘れてしまうやろ。
まあでもとにかく映画館はもうない。
ボーリング場?なくなったよね。今またあるんだっけ?
とかいろいろ思いをめぐらせていたら、
T島さんが、ぽつりと「ほら、おいしい食べ物とか・・・」ともらす。

ええ、そうなの?インドア派って、おいしい食事っていうことなの?
言葉づかい的にちょっと違うんじゃないの?と思ったけど、
五島のはなしをいつも読んでくださっているとのことだったので、
そこはスーパーにこやかに「こんど美味しい店のこと書きます!」と答えた。

まず、毎回帰省したときに立ち寄る
焼き鳥のお店「鳥羽」(とば)。ここ、うまいです。
この夏行ったときは、冷製パスタが抜群にうまかった。
いま書いた話の流れ、明らかにおかしいけど、でも事実だからしょうがない。

焼き鳥と言えば、
この夏はじめて行った「とりせん」(せんは漢字だったかも)
もうまかったなあ。

あと、お好み焼き「鉄平」。
ふんわり独特のお好み焼きを食べさせてくれます。
味噌ラーメンもうまい。
ちなみに僕の同級生の名前がこの店の名前。

あと、「望月」のサービスステーキ。
・・・もうたぶん20年近く食べてないけど。
子どもの頃、こんなうまいものはないと思ってました。
でも去年だったけな、雑誌エスクワイアの島特集のとき
「望月」が載ってましたから。相変わらずうまいんでしょう。
ああ、五島牛のうまさを全国の人に知ってほしい。

あとは、香珠子(こうじゅし)海岸にある「椿茶屋」とか
海鮮料理の「心誠」(しんせい)とか、割烹の「奴」(やっこ)とか。
五島ならでは、が食べられます。

でも、年に2回帰省するだけの、しかも基本食に
あまりこだわりのない人間の情報だから、たぶん限定的です。

だれか、五島の食情報、
T島さんに教えてあげて!

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佐藤延夫 10年09月04日放送


異色のひと/モラエス

ラフカディオ・ハーンが来日した数年後、
ひとりのポルトガル人が神戸の町に降り立つ。

ヴェンセスラウ・デ・モラエス。

ポルトガル領事館の日本総領事長を務め
「日本通信」という本を発表したが、
ハーンほど有名にはならなかったし、
もてはやされることもなかった。

最愛の人、おヨネが亡くなると
彼女の故郷、徳島で暮らし始める。
そびえ立つ眉山と自然の美しさに惹かれたのだろうか。
こんな言葉を残している。

  立ち並ぶ木々の茂み、轟音をあげて鳴る珍しい滝、
  囁く小川、美しい田畑で飾り立てたふんだんに緑また緑の風景・・・

いつも和服姿で正座をしていたポルトガル人は、
島国の小さな町で、
緑の中に溶けていった。


異色のひと/尾形亀之助

宮沢賢治の生まれた4年後、
尾形亀之助は、産声をあげた。

どちらも東北出身で
病気に悩まされ
若くして亡くなったが、
ふたりとも詩人だった。
亀之助は、有名になろうとも
金持ちになろうともしなかった。

これは、「ある来訪者の接待」という作品の一説。

  どてどてとてたてててたてた
  たてとて
  てれてれたとことこと
  ららんぴぴぴぴ ぴ
  とつてんととのぷ
  ん んんんん ん

  てつれとぽんととぽれ

世捨て人のように暮らした亀之助が紡ぐ言葉は、
常人の理解を遥かに超えている。


異色のひと/鈴木紀夫

世界50カ国を放浪した青年は、
1974年、フィリピンのルバング島に渡った。
残留日本兵、小野田寛郎(ひろお)を探すために。

冒険家、鈴木紀夫、24歳。
小野田さんを日本に送り届けたあとは、
雪男を探そうと思った。
何度もヒマラヤを訪ねたが、
世間をあっと言わせる証拠は見つけられず、
苦しい胸の内を明かす。

  早く雪男の件は片づけたいのに、神様はどうして助けてくれないのだ。
  神は、この俺の運命を如何に決めてあるのだ。

そして六度目の雪男探索のとき、
雪崩に遭い帰らぬ人となった。

慰霊のためヒマラヤを訪れた小野田さんは、
彼のことを、友と云ったそうだ。


異色のひと/菅野力夫

現存する明治、大正時代の絵はがきには、
時折、髭ぼうぼうの痩せた男が写っている。
彼こそが、世界探検家、菅野力夫だ。

明治44年から、のべ8回も世界探検旅行に赴き、
そのたび、新聞に大きく取り上げられた。

足跡は全て写真で残されている。
スマトラ島では酋長の格好をし、
満州ではラクダに跨がり、
ビルマでは象の前で腕を組み、
ブラジルではアリ塚の上に立ち、
ペルーでは頭蓋骨を持ってポーズをとった。
それが全て、絵はがきにプリントされた。

テレビなどあるはずもなく、
ラジオも新聞も今ほど普及していない時代では、
絵はがきが最大級のマスメディアだった。

世界探検旅行を経験し、
彼が何を語ったのか。
その真実は謎に包まれている。
だけど、
どれほど楽しかったのか。
それは数々の絵はがきが、雄弁に語っている。


異色のひと/熊谷守一(くまがいもりかず)

トレードマークは、
仙人のような長く白い髭。
明治生まれの画家、熊谷守一は
いい絵を描こうとも、有名になろうとも思わなかった。
絵を描くのは、気が向いたときだけ。
知人に金を借りては、千駄木や東中野の借家を転々とする。

絵が売れるようになったのは晩年のことで、
文化勲章も全て辞退した。

  お国のために何もしたことないから。

身の回りだけを見つめ、
自由に、気ままに生きて、97歳で目を閉じた。

  下手も絵のうち。

画壇の仙人と言われたが、
まさに生き方も仙人なのである。


異色のひと/五寸釘の寅吉

人並み外れた運動能力は、
スポーツ以外にも生かされることがある。
たとえば、刑務所からの脱獄。

明治時代の囚人、西川寅吉は
脱獄を六度も重ねた。
濡れた囚人服を壁に叩きつけ、
一瞬の吸着力を利用して壁を乗り越えたという。

盗みに入った質屋では
逃亡する際に五寸釘を踏み抜いたが、
そのまま12キロも逃走し、
五寸釘の寅吉と呼ばれるようになった。

世間を騒がす痛快なアンチヒーローは、
このご時世、なかなか現れにくいようだ。


異色のひと/大上宇市(おおうえういち)

11月になると
赤い小さな実を付けるコヤスノキは
トベラ科の常緑樹で、
日本では兵庫県の一部と岡山県の東部でしか生きられない。
この珍しい植物を発見したのは、
明治時代の博物学者、大上宇市だった。

農業の現状を知らない都会の学者を
名指しで批判する武骨な男だったが、
牧野富太郎とは親交を深めた。
ふたりとも学歴に乏しく、学会から冷遇されたせいかもしれない。

  秋空晴れて日は高し
  今こそ我等の散歩時
  芒(すすき)は野道に招くなり
  小鳥は森によばうなり
  よばう小鳥は何々ぞ
  雀 山雀(やまがら) もず 鶉(うずら)

こんな自作の歌を口ずさみながら、
野山をねり歩いた。
村人には、ヒマ人が来たと疎まれたが、
やがてその研究内容が評価され、郷土の英雄となった。

ひとつの道に通じていれば、いつか必ず花開く。
そんなメッセージが込められているようでならない。

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五島のはなし(113)

きんなごあじろ。
地名です。
きんなごは魚のキビナゴで、
あじろは網代。
定置網の漁場とか魚が集まる場所っていう意味らしい。
観光地でもなんでもありませんが、好きな場所です。

きんなごあじろ

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