黒猫は写真に撮りにくい。
単なる黒いカタマリのような物体になってしまう。
正面を向いてじっとしていれば目鼻くらいはわかろうけれど
後向きや横向きだと茫洋としてとりとめがなく
ナメクジのようにも見えてくるから困る。
うちの黒猫は保護色を求めるのか
黒電話のそばで丸くなる癖がある。
それを称して「電話に化ける」と言うことにしている(玉子)
黒猫は写真に撮りにくい。
単なる黒いカタマリのような物体になってしまう。
正面を向いてじっとしていれば目鼻くらいはわかろうけれど
後向きや横向きだと茫洋としてとりとめがなく
ナメクジのようにも見えてくるから困る。
うちの黒猫は保護色を求めるのか
黒電話のそばで丸くなる癖がある。
それを称して「電話に化ける」と言うことにしている(玉子)
1. バド・パウエル
バド・パウエルが、
ジャズピアニストとして
人気になった頃。
彼のライブをある男がお忍びで訪れた。
ジャズ・ピアノの神様と言われていた
アート・テイタム。
一曲聞き終えるとテイタムは大きな声で
周囲の人にこう言ったという。
彼は、左手の使い方を知らないね。
その声を聞いたパウエルは、曲目を変更。
テイタムの十八番を、
左手一本で弾いた。
ジャズマンが腕を競ったジャズ全盛期。
ニューヨークでは、夜ごとに音楽が進化した。
2.ジョン・コルトレーン
サックス奏者、
ジョン・コルトレーンのキャリアは
苦悩の日々から始まった。
無名時代に、
マイルス・デイビスに抜擢されてバンドに加入。
口の悪い批評家に「ヘッポコ奏者」と呼ばれ、
ブーイングも日常茶飯事だった。
そんな状況が、彼を猛烈な練習へと駆り立てた。
コルトレーンの家の前を通って、
サックスが聞こえない日はなかった、と友人たちは回想する。
もし君が真剣なら、靴紐だって演奏できる。
コルトレーンが
そこまで言えるほど努力を積んだとき、
世間は彼を「天才」と呼んでいた。
3.ルイ・アームストロング
極貧の家に生まれた、ルイ・アームストロング。
10代の頃には発砲事件を起こし、少年院に送られる。
そこで指導員から教わったのが、コルネットだった。
そんなアームストロングが数十年後にスターになって、
故郷のカーニバルにやってくる。
大盛況のライブの最中、突如、ひとりの老人が
ステージを向かって歩き出した。
手には、タオルでくるんだ何かを抱えている。
老人に気付いたアームストロングは、
その場で泣き崩れたという。
タオルに包まれていたのは、
少年院で吹いたボロボロのコルネットだったのだ。
What a wonderful world.
多くのシンガーがカバーした名曲だが、
本当に歌いこなせるのはアームストロングだけだろう。
4.ソニー・ロリンズ
テナーサックスの巨人と称される、
ソニー・ロリンズ。
「サキソフォン・コロッサス」が絶賛されると、
スターダムを駆け上がった。
ところがその絶頂期に、
彼は突如引退を表明する。
引退後も橋の下で、
延々サックスを吹く姿は目撃されていた。
数年後、カムバックして発表した曲はその名も「橋」。
他にも2回活動休止期間があるロリンズだが、
未でも現役奏者でいる。
さすがはテナーサックスの巨人、
息つぎが上手い。
5.マイルス・デイビス
マイルス・デイビスは、
実にフェアな男だった。
黒人への差別には、
当然、正面から反抗した。
あんたは白人であること以外に何をしたんだ?
オレかい?
音楽の歴史を5回か6回は変えたかな。
一方では
白人を嫌う黒人にも、
同じように厳しかった。
白人のビル・エヴァンスを
バンドに迎えたときには、
黒人仲間からの非難に憤った。
あいつ以上のピアニストを連れてきたら、
俺はそいつがどんな色をしてたってすぐに使ってやる。
そんな彼の元には、驚くほど多様な
アーティストが集まることになる。
マイルスの音楽が
世界中に影響を与えたのは、
ジャズを人類の協同作業にしたからだろう。
6.ハンク・ジョーンズ
評論家からも、同じピアニストからも
リスペクトされているハンク・ジョンーズ。
彼のピアノは実に雄弁だ。
ピアニストのブラッド・メルドーは、
彼のように自然体で歌うピアニストが
理想だと言っている。
そんな天性の才能を持ちながら、
ハンク・ジョーンズは実に努力家だった。
彼は言う。
練習は、1日休めば自分に分かる。
3日休めばカミさんが分かる、
7日休めば仕事が無くなる。
怠け心が湧いて来たら、彼の言葉を思い出してみよう。
7.フランク・シナトラ
フランク・シナトラの好物は
テネシー・ウィスキーの
ジャック・ダニエルズだった。
「酒とバラの日々。」
「酒は涙か溜息か。」
歌にも込められた、酒への想い。
シナトラは、
周囲から飲みすぎを咎められると
こう答えたという。
アルコールは
人間にとって最悪の敵かもしれない。
しかし聖書には敵を愛せよと書いてある。
8.チャーリー・パーカー
ジャズがまだ、ダンスミュージックだった時代。
チャーリー・パーカーは、
誰かのための音楽はつまらないと思った。
閉店後のライブハウスで、
仲間たちと繰り広げたジャムセッション。
観客はいない。踊れなくていい。
自分が酔える音楽かどうかだけ考える。
そうしてジャズの伝統を投げ捨てたら、
モダン・ジャズの創始者になっていた。
自分の楽器をマスターしろ。
そうしたら、そんなくそったれは全部忘れて、
ただ演奏するんだ。
成長とは、学ぶことより、
それを捨てることかもしれない。
ふるさとの馬籠(まごめ)の家には
桑畑のところどころにリンゴの木が植えてあって
隣との境に高い塀があり
その塀の向こうに同い年の少女がいた。
島崎藤村は、少女とリンゴの木の下を歩いた。
裏のたんぼ道で鳥の声に耳をすました。
谷から流れてくるせせらぎでカジカを掬(すく)うこともあった。
人目のないところに隠れて
少女をそっと抱きしめた、島崎藤村八歳の初恋。
今日は初恋の日
島崎藤村の「初恋」の詩は、明治29年の今日
文学界に発表された。
特攻隊員上原良司、22歳は
こんな言葉を残して特攻機に乗った。
愛する恋人に死なれたとき
自分も一緒に精神的には死んでおりました。
天国において彼女と会えると思うと
死は天国へ行く途中でしかありませんから
なんでもありません。
好きだとも言えずに死に別れた初恋の人の
面影を追って
上原良司が沖縄のアメリカ軍機動部隊に
空から突入したのは
終戦間際の初夏のことだった。
今日は初恋の日
17歳の二条天皇が恋をしたのは
叔母にあたる藤原多子(ふじわらのまさるこ)だった。
多子の君は二条天皇の叔父にあたる近衛天皇の皇后だった人で
四つほど年上だったが
美女の誉れ高く、絵と書に秀で琴と琵琶の名手でもあったという。
とはいえ、叔母にあたる人と、
しかも皇后の地位にあった人と結婚なんでとんでもない。
まわりは猛反対したけれど
いまは未亡人なんだからいいじゃないか、とばかり
17歳の若さは無理矢理望みを遂げてしまう。
それは日本史にも残る事件になった。
今日は初恋の日
砂山の 砂に腹這い
初恋の 痛みを遠く 思いいずる日
石川啄木の初恋の歌は
何人もの作曲家が曲をつけている。
なかでも越谷達之助(こしたにたつのすけ)の切ないメロディは人気を博し
日本の代表的な歌曲になった。
ところで、
石川啄木の初恋は13歳。
その相手は啄木にとって高嶺の花だった節子。
だが、啄木は6年にわたる初恋を実らせ
節子と結婚している。
詩人でも詩人でなくても
人に言えない恋のひとつくらいあってもいい。
この歌を聴きながらそんなことを思う。
今日は初恋の日。
早くに母を亡くしたせいか
泉鏡花のあこがれはいつも年上の女(ひと)だった。
母のような姉のような女性、
やさしく美しく、妖艶ではかなげで
それなのに、いざというときは強い。
そんな女性はいるはずがないと誰もが思う。
けれど、鏡花の心と鏡花の書く小説のなかには
確かに存在していた。
鏡花の初恋の人は湯浅しげという
やはり年上の人だった。
その人をモデルにした小説を読むと
生身ではない美しい女がふわりと浮かび出る。
今日は初恋の日
恋のために火付けをして
火あぶりになった八百屋お七と
その恋のお相手の吉三郎がはじめて会話を交わします。
「私は十六になります。」
「私も十六です。」
井原西鶴描く、もどかしく切なく美しい
十六歳の初恋のシーンです。
スサノオのオロチ退治は
英雄伝でもあるけれど、恋の話でもあると思う。
さんざん悪さをして高天原を追われたスサノオが、
突然心を入れかえて人々のためにオロチ退治をするというよりは
好きになったクシナダヒメを助けるためと考えた方が
矛盾がないからだ。
スサノオはオロチを退治した後で
クシナダヒメと結婚し、こんな歌を詠んだ。
八雲立つ 出雲八重垣(いずもやえかき) 妻籠(つまご)みに
八重垣つくる その八重垣を
この三十一文字の歌が
日本の歌のはじまりとなり
その後(のち)、恋人たちは歌を交わし合って思いを伝えた。
スサノオは、いつも間にか歌と恋の神さまになっていた。
スサノオを祭る島根県の八重垣神社では
縁結びの赤い糸を買うことができる。
今日は初恋の日。
この猫は通勤の途中でよく会う。
初対面からなんとなく野良だと思っていたし
実際にそうらしいが、毛並みは悪くないし
激しく人見知りというわけでもない。
ただ、一定の距離の置きかたをみて
「人嫌いではない野良」かなと思っていたのだ。
あるとき写真を撮ってブログに載せたら
猫に詳しいかたからコメントをいただいた。
「お腹が少し大きい様子、お母さんかな」
それからしばらく会わずにいて
ある夕方、この猫の縄張りのあたりを通りかかったら
ご近所さんが犬を散歩させていた。
するとこの猫があらわれた。もう一匹、茶色の大猫も一緒だ。
ご近所さんは2頭のハスキーを街路樹に繋ぐと
やおらカバンから猫缶を取り出した。
毎日決まった時間に餌をやりに来ているらしい。
猫も心得てその時間になるとやってくる。
犬がそばにいても全く気にしない。犬も気にしない。
この猫の茶色と黒の毛の色はサビ猫というらしい。
雌しかこの毛色は出ないそうだ。
ご近所さんの話によると、サビ猫がお母さん、茶色猫が娘だという。
写真を撮ったときにサビ猫のお腹にいたのが
いまや母より大きな猫になっていたのだった。
私の下手な写真を見ただけで妊娠を見破った猫好きの人の眼力に
いまさらながら敬服する(玉子)
「ビート・ジェネレーションの肖像」
ジャック・ケルアック、
アレン・ギンズバーグ、
ウィリアム・バロウズ。
1944年.ニューヨーク118丁目のアパートメントに
集まった若者たちがいた。
彼らはみんな未来に対する前向きな姿勢を失っていた。
華やかなアールデコの時代から
ウォール街の大暴落、
それに続いて起こった世界恐慌。
大人たちによって引き起こされた転落は
社会に対する不信感となってあらわれたのだ。
彼らは社会ではなく自分自身に興味を持った。
後に彼らは
「ビート・ジェネレーション」と呼ばれ
世界中の若者たちに
熱狂的に迎えられる詩や小説をかきはじめる。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
「路上」というたった一冊の本で、
20世紀のアメリカの若者に神とあがめられた作家、
ジャック・ケルアック。
彼の夢はそもそもフットボールの選手だった。
しかし鳴り物入りで入ったコロンビア大学で、
コーチと大げんか。
鬱屈した想いでニューヨークを歩きまわると
そこは生まれ育った田舎町では見たことのない
まぶしさに溢れていた。
酒と、女と、ドラッグ、そして、
そのどれよりも刺激的な友人たち。
彼はあっさりドロップアウトし
狂ったように小説を書き始めた。
もしも彼がその時、コーチに気に入られていたら、
ヒッピーもロックも生まれていなかっただろう。
運命は、だいたい、ちょっとしたことで決まる。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
孤高の詩人、アレン・ギンズバーグ。
1950年代のアメリカを席巻した
ビート・ジェネレーションの中で
いち早く売れたのが彼だった。
彼は同性愛者で、
同じくビート世代の作家、
ケルアックに一目ぼれ。
自由なケルアックに振り回されながらも
彼を出版社にせっせと売り込み続け、
それがケルアックの成功につながる。
それは「ケルアック」という名の
ギンズバーグ最高の作品だった。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
作家、ウィリアム・バロウズ。
妻を間違えて射殺してしまったり、
幻のドラッグを求めてチベットまで旅をしたり
逸話には事欠かない戦後文学の奇才。
彼は博学だったし頭もよかったけれど、
作家になりたいなんて
これっぽっちも思っていなかった。
そんなバロウズの才能を
誰よりも惜しんでいたのは
親友のケルアックだった。
彼はバロウズが床に書き散らした文章を
拾い集めてタイピングしタイトルまでつけて
本に仕立て上げた。
友情。
陳腐な言葉だが、
誰かに対する使命感と翻訳すればうなづける。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
かのカート・コバーンが憧れ、
今なおアメリカの若者のカルト・ヒーローで
ありつづける男。
ニール・キャサディ。
彼自身が書いたものは一篇もない。
だが彼の無軌道な生き方に、
ビート・ジェネレーションの仲間たちは
憧れ、嫉妬した。
ガムのようにたやすく車を盗んだかと思えば
ショーペンハウアーを諳んじ女をくどくニール。
それは小説のヒーローとして申し分のない素材で
ケルアックは彼との旅を一冊の本に記した。
それが「路上」
無軌道なヒーローに世界中の若者は酔い
ケルアックはスター作家になった。
そんな成功とはまるで無関心に
ニールはあっけなく死んだ。
メキシコの道の上で裸で倒れていた。
まさに「路上/オン・ザ・ロード」
ニール・キャサディは自分自身が作品だったのだ。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
若さとは実験である。
作家、ジャック・ケルアックは、
タイプライターの紙を交換する手間が
どうにも許せなかった。
浮かんだ言葉がその瞬間に
逃げていくからだ。
かくして彼は、
トレーシングペーパーを何百枚もつなぎ
40メートルもの巻物を作った。
ケルアックは
わずか20日で17万5千字の小説を書き上げたけれど
そんな面倒くさい巻物を読む出版社はどこにもなかった。
2001年、その巻物にタイピングされた
「オン・ザ・ロード」の原稿には
240万ドルの値段がつけられている。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
作家にとって
世に出ないことは
存在しないも同然である。
作家、ジャック・ケルアックは
ほぼ10年間、
無名であった。
先の見えない毎日の中
彼がそれでも書き続けられたのは
友人たちのおかげだった。
ギンズバーグはダリや知識人と引き合わせ、
バロウズは乞食同然の彼に
執筆できる部屋とタイプライターを用意した。
ケルアックは
世界で一番幸せな無名作家だった。
「ビート・ジェネレーションの肖像」
1967年、
ビートの作家、ジャック・ケルアックは
アルコールの過剰摂取で死んだ。
若者のカリスマとまつりあげられた彼も
晩年は忘れ去られた存在になっていた。
しかし葬式当日。
町の人は異様な光景を目にする。
何百人という若者が全米中から集まり
献花の列をなした。
それから半世紀。
ビートルズ、
ボブ・ディラン、
コッポラ。
みんなみんな、
ビートに憧れて育った。
ケルアックは言う。
「若者よ、狂え。」
Jack Kerouac by photographer Tom Palumbo from New York, NY, USA
この猫ともう15年以上も一緒にいる。
チビのときは病弱だったが、18ヶ月めあたりから
病気をしなくなった。
とはいえ、年を取ると免疫力が落ちるので
数年前にはワクチンに負けて片目が腫れて
血膿を流しつづけたことがあった。
正月休みだったのでほとんど寝ないで看病した。
賢猫は一日に二回、ストンストンと階段を降りた。
トイレでしゃがみ、ササミを半分食べて
またゆっくりと二階に上がって寝る毎日だった。
ときどき膿を出すために腫れた目の下を押すと
小さな声で「ウワン(痛い)」と鳴いた。
けれど、抵抗はしなかった。
飼い主は片目が見えなくなったらどうしようなどと
余計な心配をいっぱいしたが、猫はそんなことを考えない。
猫は過去を悔いることがない、未来を案じることもない。
猫は粛々と自分の運命をただ受け入れている。
この賢猫に教えられたことは多い(玉子)
五島人による五島のためのバンド
ベベンコビッチオーケストラの単独ライブです。
とき:11月2日19時から
ところ:表参道HOLOTにて
詳細はベベンコビッチのHPまたはブログをご覧ください
ブログ:http://blog.goo.ne.jp/bebencobicci
HP:http://www.bebencobicci.jp/
なお、ベベンコビッチオーケストラは
ライブの翌3日には「ナイスミドル音楽祭全国大会」に出演します。
自分の絵は、売るためのものではない。
描きたいときに描くもの。
画家、熊谷守一はそう考えていた。
けれど、絵が売れなければ、貧しい。
4歳の息子が肺炎になっても十分な治療ができず、
命をなくした。
その死に顔を、
画家は描いたのだった。
絵を描かずに死なせた息子の亡骸を
描く自分に愕然とした。
それでも、
売るための絵は描けなかった。
画家は筆をおいた。
絵が描けない画家、熊谷守一。
貧しさから
次々と子どもたちを病で失ったが、
売るための絵は描けなかった。
ようやく60歳近くになって、
書や墨絵にめざめ、
こんどは娘の死をきっかけに
再び“絵を描く画家”に生まれ変わったのだ。
この後、画家は自宅の門から外へは
30年間出なかった。
小さな庭が画家の宇宙になり、
そこに息づく草花や虫、
生き物たちの命とたわむれ、
一日中眺め、
画家は唯一絶対の画風を
獲得していった。
熊谷守一の絵は、
独特である。
単純な色と線で、
対象物の内面まで表現する。
なにしろ、対象物への
愛情にあふれている。画家は言う。
絵でも字でも
うまく描こうなんて
とんでもないことだ。
名誉やお金にはまったく無頓着。
文化勲章も
「これ以上人が来るようになっては困る」
と辞退した。
97歳の死の直前に描いた名作『猫』は、
その自由で、のびやかな猫の表情が
まるで熊谷の自画像のようにも
思えてくる。
童話の父、アンデルセン。
若い日には、
オペラ歌手をめざしたり、
バレエ学校にも在籍したものの
失敗と挫折を繰りかえした。
その経験が、のちの
『みにくいアヒルの子』を生んだ
ともいわれる。
作家として大成功し、
まさしく美しい白鳥となったアンデルセンだったが、
女性に対しては醜いアヒルのように
モテることなく、生涯独身でおわる。
葬儀は、デンマークの国葬をもって
おこなわれた。
女性との縁に恵まれなかったが、
葬儀には王族からホームレスまで、
もちろん子どもたちも参列した。
たしかに、アンデルセンは
たくさんの人々から愛されたのだった。
そしていまも、
世界中の子どもたちを夢中にさせている。
ギリシャの哲学者、ディオゲネス。
みすぼらしい路上生活を送り、
どこでも平気で物を食べた。
そんな彼を見て、
人々は「まるで犬だ」とののしった。
ディオゲネスはこう言い返した。
「人が物を食っているときに集まってくる
おまえらこそ犬じゃないか」
食べることがおかしなことでなければ、
どこで食べてもおかしなことではない。
それが彼の哲学。
さて、現代。
道ばたで、地下鉄の中で、
物を食べている人々も哲学、
しているのだろうか。
ノーベル賞の条件。
それは長生きすること。
功績をあげてからの最長記録は
55年後の受賞。
その1人、エルンスト・ルスカは
25歳の年に電子顕微鏡を開発し、
80歳の年にノーベル賞物理学賞を受賞した。
今の研究開発が
未来のノーベル賞かもしれない。
みなさん、長生きしましょう。
孤独と不安。
それらを絵で表現するとしたら、
どんな色だろう。
どんな形だろう。
1つの見事な答えがある。
ムンクの『叫び』
不気味な赤い空。
ミイラのような男のゆがんだ表情。
自然をつらぬく、けたたましい、
終わりのない叫びに耐えかねて
男は耳をおさえている。
なぜ、ムンクには叫びが聴こえたのか。
病と狂気と死が、
私の揺りかごを見守っていた黒い天使だった。
そんなムンクの孤独と不安が
世界の叫びと激しく共鳴したのだろうか。
ムンクの『叫び』
それはまるで1枚の音。
本のはなし 五味太郎
読むというより、中に入っていっしょに遊ぶ。
そんな絵本を次々生みだす五味太郎。
彼のエッセイが名門私立中学の
国語の試験に出たことがあるという。
作者の意図を次の4つから選びなさい。
全体の論旨を50字以内でまとめなさい。
出題はぜんぶ五味さんの文章がらみだった。
試しにそのテストをやってみたという五味さん。
当然100点かと思いきや、フタをあければ68点。
85点が合格ラインの入試に、
不合格という結果になってしまった。
作者本人だぜ、たのむよ、中学に入れてくれよ。
とこぼしつつ、
この気分を50字以内にまとめてみよう!
と洒落で流すユーモアセンス。
どんなことでも面白がれる、五味さんの器は無限大。
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