2010 年 10 月 のアーカイブ

三島邦彦 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、ユーモア。

ビートルズとその他のバンドを決定的に分けたもの。
それは、「ユーモアのセンス」だったのかもしれない。

ある時、インタビューを受けたジョン・レノン。

「フランス人はビートルズに関して
はっきりした意見を持っていないようですが、
 あなた方はどう思いますか?」

という質問に、こう答えた。

  ああ、僕らはビートルズが好きだよ。あいつら、かっこいいもの。

ものの見方を変えれば、状況は一変する。
ジョンはやがて、ユーモアの力を
世界の暴力に立ち向かう武器へと変えていった。


ジョン・レノンと、メディア。

ギターとベースとドラム。
シンプルな構成で、一時代を築いたビートルズ。
ジョン・レノンはビートルズの初期を振り返ってこう言った。

  私たちはアーティストと呼べるようなものではなくて、
単なるロックン・ローラーだったのです。

しかし、その音楽に人々は熱狂した。
ステージでの演奏は観客の叫び声でほとんど聞き取れなかった。

そこで、レコーディングを活動の中心にすえる。
楽器によるシンプルな演奏から、機械を駆使した実験的な音楽づくりへ。
それはビートルズが、ロックミュージシャンから、
アーティストへと変わることでもあった。

この対応能力に関しては、ジョン自身も誇りに思っていたようだ。
後に、こんな言葉を残している。

私たちは有能でした。どんなメディアのなかに置かれても、
なにか価値のあるものをつくり出すことができますから。

もし、まだ、ジョンがこの世にいたならば。
進化するインターネットの世界で
どんな驚きを見せてくれていただろう。

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中村直史 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、オノ・ヨーコ。

ジョン・レノンとオノ・ヨーコの
行動はいつも具体的だった。

戦争に反対して、
ふたりでベッドにこもりつづけたときも。
人種差別の愚かさを示すため、
袋に入ったままインタビューを受けたときも。

奇をてらいたかった訳ではなく、
具体的に、世界を変えたかったのだと思う。

ジョンが亡くなってからというもの、
ほぼ毎年、オノさんは、
ジョンの誕生日に
木を植えて過ごしているという。

今日、10月9日、世界のどこかに木がふえる。
ふたりの具体的な行動が、
今年もまた、ほんのすこし世界を変える。

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三國菜恵 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、俳句。

わび、さびを理解しようとしたジョン・レノン
仏教の修業もこころみたジョン・レノン
日本との結びつきはそれだけではなかった。

俳句は僕が今まで読んだ詩の形式のなかでいちばん美しいものだと思う。

自然、且つ簡潔な言葉で
自分も詞を書こうとしたジョン・レノン。
1969年に発表された「ラヴ」という曲には、
俳句の美意識が生きている。

愛とは感じること
感じることが愛

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三島邦彦 10年10月09日放送


ジョン・レノンと、厳しさ。

ジョン・レノンは、自分たちの音楽について厳しく語った。

ビートルズがいままでにつくったレコードすべてに不満でもあります。
つくり直したくないと思うレコードなんて、ひとつもないのです。

ジョン・レノンは、平和について厳しく語った。

暴力は暴力しか生みません。それは不変の法則です。
しかし国によって状況はまちまちだし、
ときには状況が暴力の行使を正当化することだってあるのだよ、
と言う人がいるかもしれません。妥協とは、そういうことをいうのです。
平和に妥協はない、と私ははっきり言っておきます。

ジョン・レノンは、自分に厳しく働き続けた。

働いている限り、自分が何者なのかなんてことは問題じゃない。
それがぼくの学んだことだ。

亡くなる数時間前のインタビューでジョンが言った言葉は
「死ぬまでこの仕事をつづけたい」だった。

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坂本仁 10年10月03日放送



①ジョゼ・モウリーニョ


 自分が世界一の監督だとは思わない。
 しかし、私以上の監督がいるとも思わない。

そう語るのは、サッカー監督・ジョゼ・モウリーニョ。
ポルトガル、イングランド、イタリアでリーグ戦を制し
チャンピオンズリーグの優勝も勝ち取っている。

モウリーニョには、他の監督が持たない能力がある。
6カ国語を話せるというコミュニケーション能力である。

自ら「私は三流の選手だった」と語る彼は、選手を引退後、
語学を勉強し、さまざまなクラブチームで通訳として働いた。
その過程で世界のスター選手たちとコミュニケーションする
語学力が育っていったのである。

三流選手であったことが、
モウリーニョを超一流の監督にしたのかもしれない。



②ロバートキャパ

20世紀を代表する戦場カメラマン、ロバート・キャパ。
数多くの戦争の第一線に飛び込み、
戦争の悲惨さを痛烈に訴えつづけた。

ロバート・キャパの有名な写真に「崩れ落ちる兵士」がある。
兵士が頭を撃たれて倒れる決定的瞬間を記録したその写真は、
インパクトがありすぎて、
やらせではないかと疑われたほどであった。


 戦争写真家のいちばんの望みは、失業することだ。

そう語るロバート・キャパは、
ベトナム戦争の取材中に地雷に触れて死亡した。
カメラを手にしたままだった。



③ディオゲネス

古代ギリシアのコリントスに高名な哲学者が住んでいた。
その哲学者は質素を好み、禁欲生活を送っていた。

ある日、その哲学者が家の前で横になってひなたぼっこをしていると、
当時絶大な権力を保持していたアレクサンドロス大王が
数名の供を連れてたずねてきた。
王もまた、その哲学者を尊敬するひとりだった。

王は哲学者の前で言った。


 余はマケドニア王アレクサンドロスである。
 ディオゲネスよ、望みを一つ言え。
 いくらかかっても構わぬ。

しばし考えた後、その哲学者は言った。


 そこに立たれると日陰になるからどいてくれ

その哲学者の名は、ディオゲネス。
彼は、人生にとって大事なのは物質的なものではなく、
心の豊かさだと考えていた。



④ブルーノ・ムナーリ

美術作家ブルーノ・ムナーリは語る。


 子どもの心を一生のあいだ自分の中に持ち続けるということは、
 知りたいという好奇心やわかる喜び、
 伝えたいという気持ちを持ち続けることだ。

彼の作品を知る人々はこの言葉に
あっ、そうかと納得する。

持ち運んだり箱に詰めたりできる彫刻。
質感の違う紙を使ってつくった、指先で感じる絵本など
ブルーノムナーリの作品は「鑑賞する」というより、
「遊ぶ」という言葉がピッタリなのである。



⑤カエサル

賽は投げられた。

重大な決定を下し物事が動きだしたという意味で引用されるこの言葉は、
誰しもが知っているユリウス・カエサルの言葉だ。

カエサルは他にも有名な引用句を残している。
「来た、見た、勝った。」
「ブルータス、おまえもか。」

あまりに有名なこの言葉とは逆に、
ほとんど知られていないこともある。
それは、カエサルが現在の本の原型を発明したことだ。

巻物からページをめくる冊子へ。
この発明のおかげで
我々は電車のなかでページをめくりながら
カエサルのガリア戦記を読むことができる。



⑥ウルリッヒ・インダービネン

一年中白銀の雪を冠するアルプスの女王マッターホルン。
4000m級の山々が連なるスイス・アルプスの女王と言われている。

そのマッターホルンには伝説のガイドがいた。
ウルリッヒ・インダービネン。
370回以上もマッターホルンに登り、
96歳まで現役のガイドでありつづけた。

ウルリッヒ・インダービネンは
アルプスの王と呼ばれていた。

垂直の壁を持つ女王も
王である人の前ではやさしくおとなしかったのだろうか。



⑦野依良治

分子とか、モルとか、エントロピーとか
そんな言葉を聞いただけで、
難しくて頭が痛くなってしまう人は多い。

けれど2001年にノーベル化学賞を受賞した
野依良治は次のように言う。


 有機化学は麻雀よりも面白い。

そう、
医薬品の製造などに絶大なインパクトを与えた
野依良治の業績の最初の一歩は
面白いと思うことからはじまったのである。

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佐藤延夫 10年10月02日放送


ドラッカーの言葉1

1909年、ウィーンで生まれた男は、
幼少期に第一次世界大戦を迎え、
若干二十歳で新聞記者となる。
ヒトラーにインタビューをしたこともあったが、
自分の論文のせいでナチスに追われ、ロンドンに移る。

こんな経歴を持つ男が、
のちに「マネジメント」という言葉を生みだした。

経営理論の父と言われる
ピーター・ドラッカーは語る。

将来を築くには、勇気がいる。努力がいる。だが、信念もいるのである。

ドラッカーさん。
あなたの人生を眺めると、
「その通りです」としか言いようがありません。


ドラッカーの言葉2

仮にあなたが、石を切る職人だったとします。

ある人に「何をしているんですか?」と聞かれたとき
あなたは、なんと答えるでしょうか。

1 わたしはこの仕事で生計を立てているのです

2 国中で一番優れた仕事をしているのです

3 私はここに素晴らしい建造物を建てるのです

この3つの中で、経営者らしい答えと言えるのは、3番だ。
ピーター・ドラッカーは、そう語っています。

さっそく週明けにでも、
会社の社長に質問してみたくなる。


ドラッカーの言葉3

さて、質問です。
会社の事業とは、なんでしょうか。

「利益を生み出すための仕組み。」

そう思ったあなたは、
経営理論の父、ピーター・ドラッカーに叱られるでしょう。

その答えは、間違っているばかりでなく、見当違いも甚だしい。
事業の目的は、たったひとつ。
“顧客を創り出すこと”にほかならない。

なるほど、と思った皆さん。
彼はこんなことも言っています。

人は、失敗から学ぶことなどなにもない。
ひとつの成功がすべてを教えてくれる。

確かに、と思ったみなさん。
もうあなたは、ドラッカーの虜になりつつあります。


ドラッカーの言葉4

教師が、ある生徒に言いました。

「将来きみは、他の人に
どんな人物として記憶されたいですか?」

この質問、あなたも少し、考えてみてください。

・・・

答えは、浮かびましたか?
なかなか難しい質問ですね。

考えあぐねる生徒に、
教師は笑いながら言いました。

あなたが答えられるとは思っていません。
でも50歳になっても答えられなかったら大変だ。
人生を無駄に過ごしたってことになるからね。

当時、生徒だったのは、
のちに経営理論の父と言われる、ピーター・ドラッカー。
それ以来、彼は、いつもこの問いを自分に投げかけていたそうだ。

難しすぎる質問は、心の中に、ぐさりと刺さる。
さあ、がんばろう。
何かを見つけるには、まだ間に合いそうだ。
年齢なんて、関係ない。


ドラッカーの言葉5

カリスマ社長。

スーパー経営者。

偉大なリーダー。

経済が停滞すると、人は英雄を求める。
藁にもすがるような気持ちで。
だが、経営理論の父、ピーター・ドラッカーは
その考えを真っ向から否定する。

  生まれついての経営者など、いない。
  リーダーとして効果的にふるまえる習慣を持つ人が
  結果としてリーダーへと育つのだ。

周りを見渡してみよう。
不満ばかり言ってはいられない。
彼も人なり、我も人なり、なのだから。


ドラッカーの言葉6

経営理論の父、ピーター・ドラッカーは
80歳を過ぎても本を書き続けた。
晩年に、記者からこんな質問を受ける。

今までに書いた本の中で
最も優れているのはなんですか?

その質問に対し、彼はにっこり笑って答えた。

次です。

自分が80歳になっても、同じことが言えるだろうか。


ドラッカーの言葉7

経営理論の父、ピーター・ドラッカーは語る。

ピラミッドのごとく永遠にそびえ続けると思われた企業も
今ではまるでテントのようだ。

技術革新とは、地平線の彼方でひらめく洞察力という名の稲妻を捕まえ
永遠に輝く光へ転換することである。

企業の業績をチェックする5つのテスト。

人間はコストではなく資源である。

彼は文章に勢いを与えるため、
言葉のテクニックを駆使している。
ときには比喩を用い、数字を使い、やわらかく、深く、強く。
もちろん、悪口を言う場合は、もっと効果的になる。

学校教育を受けた野蛮人

多忙なオフィスで、渦巻きのような混沌に陥るアシスタント

この歯切れの良さは、気持ちいい。
だから、この人の本が書店に並び続けるのだろう。
日本だけではなく、全世界で。

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Visionがほめられている

そもそも「Vision」で検索したときには
さまざまなVisionがヒットします。
ゲームのVision、盗難防止装置のVision、イベントのVision
曲のタイトルだったり会社の名前だったりもします。
世の中Visionだらけです。
もし私たちのVisionがどこかで話題になっていても
他のVisionに埋もれてしまうのでほとんど気づくことがありません。

でも、少し前にRDOのリファラーが
拾ってくれた記事がひとつありました。
このVisionはゲームでも曲のタイトルでもなく
私たちのVisionです。

しかしなぜVisionのリファラーが拾わないのだという疑問はあります。
このHPがちょっと鈍い??

上の記事写真の元記事はこちら
http://blog.murablo.jp/nuts/kiji/188534.html

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ベベンコビッチの皆さんお元気ですか

ベベンコビッチオーケストラの皆さん、お元気ですか。
ブログで期間限定の動画を発見したので
こちらでも紹介させていただきます(玉子)

ベベンコビッチのブログ:http://blog.goo.ne.jp/bebencobicci

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