2011 年 1 月 のアーカイブ

名雪祐平 11年01月30日放送


長谷川町子1

14歳の少女が、
飴をしゃぶりながら寝ころがって、
つぶやいた。

田河水泡の弟子になりたいな。

漫画のらくろで
当時、日本一人気だった大漫画家の
弟子になりたい、と
ぽろっと言っただけ。

すると、母がすぐこう言ったのだ。

それはいい。早速頼みに行きなさい。

未来を変える一言だった。

やがてサザエさんを描く少女、
長谷川町子が、
夢をつかむまで、あとすこし。


長谷川町子2

のらくろで有名な漫画家、
田河水泡は編集者に言った。

うちには女の子の弟子がいるよ。
珍しいでしょう。

そう聞いて
興味が湧かない編集者はいない。

少女の名前は、長谷川町子。
わずか15歳で、
雑誌・少女倶楽部に『狸のお面』
でデビューする。

漫画家人生が順調に
はじまった。

けれど、
どんなに才能があっても、
紙が不足しては描けない。

戦争が激しくなっていた。
サザエさん誕生は、戦争のあと。


長谷川町子3

サザエさんのふるさと。
それは福岡県百道(ももち)の海。

戦争で疎開した漫画家、長谷川町子が
よく散歩したことから、
海にちなんだ名前ばかりの
サザエさんのアイデアは生まれたという。

それから新聞の四コマ漫画を28年。
ほぼ休まなかった。

長谷川は、いつもこう言っていた。

漫画は面白くなくては駄目なのよ。

このあたり前のような言葉は、
マンネリに陥らないための
自分への戒めだったのかもしれない。

サザエさんは、戦わない。
宇宙を飛ばない。
お城に住まない。

それでも1回1回
シャキッと見事に終わらせる。

長谷川が胃を壊しながら、
格闘して描き続けたのは、
ごくごく普通の主婦が主人公という
画期的漫画だった。

その主婦が、
戦後日本を代表する大ヒロインになったのだ。


長谷川町子4

サザエさんで国民的人気を得た
漫画家、長谷川町子。

健全な漫画。
ヒューマニズム…。

そんな作風に自分で飽きてしまい、
まったく違うヒロイン像を
考えつく。

それが『いじわるばあさん』。

いじわるを漫画にするのは、
いたずらを考えるようなもの、
かもしれない。

だから、毒があっても、辛辣でも、
いじわるばあさんは、
人々の気持ちをとらえ、ヒットした。


長谷川町子5

1920年の今日、1月30日。
漫画家、長谷川町子は生まれた。

終戦直後、
26歳で『サザエさん』を発表。

以来、新聞連載で、単行本で、テレビで
ずっと愛され続けている希有な漫画である。

60年間以上、サザエさんは28歳のまま。
でも、作者は歳をとる。

生涯独身だった長谷川は、
70歳になって姉と3つ約束する。

 どんな病気にかかっても入院しない

 手術は受けない

 葬儀・告別式はしない
 また死後、納骨が済むまでは公にしない。

もう、覚悟があったのかもしれない。
1992年、長谷川は72歳で永眠し、
約束通り、納骨式の翌日まで
その死は公表されることはなかった。

人見知りな、最期だった。

人見知りなど縁のなさそうな、
サザエさんが
今週もテレビで笑っている。


田河水泡1

ちょっと間抜けで、ユーモラス。

田河水泡の漫画『のらくろ』シリーズは、
戦前に大人気になった。

主人公、のらくろは、日本軍の二等兵。

天涯孤独の野良犬が、
軍隊で失敗ばかりしながら、成長していく物語。

しかし。

犬の分際で、兵士とは何事か!

とうとう軍部の圧力がかかり、
連載中止へ追い込まれた。

娯楽作品であり、また
戦争の風刺などとんでもない時代に
生まれた意義深い作品だった。

一人の漫画家の勇気が
そこにあった。


田河水泡2

『のらくろ』シリーズの漫画家、
田河水泡には、多くの弟子があつまってきた。

でも実は田河先生は、教えない先生だった。
だから、大きく育ったのかもしれない。

『サザエさん』の長谷川町子。
『あんみつ姫』の倉金章介。
『猿飛佐助』の杉浦茂。

弟子たちはいつも、こう言われていた。

漫画はね、
人の言うことを聞いたりしちゃだめだよ。
強烈に自分の個性を発揮しなくちゃ。
下手でもいいんですよ。
人まねはいけない。

昨今、何でも教わりたがる
風潮にいる現代人には
耳が痛いお言葉。


漫画家の墓

思わず、微笑みたくなるお墓がある。

漫画家たちのお墓がそう。

田河水泡のお墓には、
のらくろが笑って寄り添っている。

藤子・F・不二夫のお墓にも
ドラえもんがいる。
四次元ポケットに名刺を入れられる。

石ノ森章太郎のお墓には、
サイボーグ009や仮面ライダーが
オールカラーでりりしい。

さすが、漫画家。
亡くなっても、キャラクターの墓守が
サービス精神を発揮している。

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岡安徹 11年01月29日放送


千葉すず

天才と呼ばれたスイマー。千葉すず。
中学記録、高校記録を塗り替えた。
大きな期待を背負いオリンピックに出場するも、
メダルに手は届かなかった。

バッシングにさらされ、1度は引退。
しかし、3年後に現役復帰し、日本選手権で優勝した。

「がんばる」という言葉は、
私はあまり好きではありませんでしたが、
結局、振り返ってみれば、
がんばりっぱなしでした。

もがいた分だけ、進んできた。
天才と努力家は、結局ほとんど区別がつかないのだ。


弁護士 大平光代

弁護士 大平光代の一生は、波瀾万丈。
少女時代はいじめをうけ、割腹を図る。
一命は取り留めるも非行にはしり、
16歳で極道の妻となる。

そんな人生を一転させたのは、
後の養父となる男性のコトバだった。

あんたが道を踏み外したのは、
あんただけのせいやないと思う。
親も周囲も悪かったろう。
でもな、いつまでも立ち直ろうとしないのは、
あんたのせいやで。甘えるな!

この出会いを転機に、猛勉強の末
難関の司法試験に1回で合格した。

人生に迷ったら、本気で叱ってくれる人に会いに行こう。


北林谷栄

「メイちゃ~ん」。
映画『となりのトトロ』で迷子になったメイを捜す声。
これぞ日本のおばあちゃん、というその声を担当したのが、
北林谷栄。

30代という若さで
老婆役を数多くこなした名女優。
その役づくりは徹底していた。

生活感がしみこんだ服が必要と思えば、
案山子の服を買いとる。
老婆の表情に真実味が必要と思えば、
健康な歯を抜き、入れ歯にして顔と声を変えた。

女優という人生を、演じきった。
その心意気は若々しく、老いなかったのだろう。

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岡安徹 11年01月29日放送


水木しげるの妻/武良布枝

ゲゲゲの女房こと、
漫画家水木しげるの妻、武良布枝さん。

ふたりは見合いの席で出会い、5日で結婚。
売れない漫画家だった水木さんとの暮らしは、
食べものの心配と質屋通いが日課だった。

土手の野草をつんで食卓に並べたこともあれば、
ペンを握りアシスタントをこなしたこともあった。
お金はいつもなかったけれど、
夫の才能を疑ったことはいちどもなかった。

水木さんのとなりに布枝さんがいなかったら、
鬼太郎も悪魔くんも生まれていなかった。
というのも十分ありえるお話。

漫画を描くのが才能なら、
その才能を開花させるのもまた才能。

水木さんは言う。

家内は「生まれてきたから生きている」ような人間です。

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宮田知明 11年01月29日放送


オノ・ヨーコ

人の何倍もの、困難な経験をしながらも、
強い女性として生きてきた人、オノヨーコ。

気丈に見える彼女だが、
本人が自分自身を分析しているとおり、
人には想像もつかないような弱いところがある。

その一端を垣間見せた、
近年のジョンレノン スーパーライブでの、
大勢の人の前で泣きながら語った、彼女の言葉。

彼は私にたくさんアイラブユーを言ってくれた。
私ももっとたくさん言えばよかった。

そこには、アーティストでも、シンガーでも、
フェミニストでもない、
1人の男性を愛する、だた1人の女性がいた。

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岡安徹 11年01月29日放送


並木路子とリンゴの唄

戦後の大ヒット曲『リンゴの唄』。
世の中をパァっと明るくした、と言われる
この曲も、レコーディングは決して
明るく楽しいものではなかったらしい。

歌い手並木路子は、終戦時
身内を失い、悲しみの底にいたからだ。
そこでスタッフがかけたコトバがある。

「君ひとりが不幸じゃないんだよ。」

並木は、ひととき悲しみを忘れて、歌った。
その唄はやがて日本中の悲しみをどこかへやってしまった。
暗い時こそ、小さな明かりが目立つのだ。

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渋谷三紀 11年01月29日放送


文筆家・岡本太郎の母/岡本かの子

文筆家、そして岡本太郎の母、岡本かの子。
彼女は、恋多き女性、そして恋深き女性。

若い頃のかけ落ちに始まり、
夫と恋人とが同じ屋根の下で
生活した時期もあったという。

人一倍傷つきやすく
誤解もされやすかったが
相手と真正面から向き合う生き方を
曲げようとはしなかった。

人間は悟るのが目的ではない。
生きるのです。
人間は動物ですから。

その言葉通り、本能のまま生きる
かの子の子として生まれたことは、
太郎にとって大きな幸運だったに違いない。

だって、子どもも子どもの感受性も、
母親に産み落とされ、育まれるものだから。

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五島のはなし(128)

なるべく見ないようにしてるブログ。

http://khulmann.blogspot.com/

見ると五島に帰りたくてしょうがなくなるから。

http://takoyanikki.blogspot.com/

でも見ちゃうけど。

この正月、ブログの主である

あこがれのおふたりと釣り行けたけど

ぼくの技術ではだめだったー。

リベンジにいかねば、と。

この海に屈服

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八木田杏子 11年01月23日放送


クララ・シューマン

シューマンの妻、クララ・シューマンは
少女のころから天才ピアニストとして知られていた。

クララのプロデビューは1828年、9歳のときで
モーツァルトのピアノコンチェルトのソリストをつとめ
人気を博した。

そんなクララの家に
父の弟子としてシューマンが住むようになったのは
1830年のことだった。

20歳の大学生と11歳の天才ピアニストは
兄と妹のように仲が良かった。

その出会いが逃れられない運命の出会いだと
ふたりが気づくまでに、まだ数年の余裕がある。


シューマンの才能 

クララの父の弟子としてやってきた
20歳のシューマンは、焦っていた。

大学を辞めて本格的にピアノを学び始めた彼は、
指の訓練のための練習曲を弾かされていた。

となりでピアノを奏でる11歳のクララは、
ソロコンサートのための曲を弾いていた。

やがてシューマンは、
演奏よりも作曲にのめりこんでいく。

1年ほど作曲理論を学んでから
書き上げた作品は出版され、独創的と言われた。

ピアニストとしては
シューマンが足元にもおよばなかったクララが、
彼の音楽に夢中になる。

彼女は自作の曲をシューマンに捧げて、
書き直してほしいとねだった。

シューマンの旋律に導かれて、
クララの初恋がはじまる。


クララ・シューマンの自由 

婚約から3年。
シューマンとクララの結婚は長い道のりだった。

クララの父親が、結婚に反対したのだ。

すでにピアニストとして一世を風靡していた
クララのキャリアが
結婚によって終わってしまう。

父の心配にクララの気持ちは揺れる。

シューマンは辛抱強く待ちつづけ
愛を伝える手紙を書き送った。
父はシューマンをあきらめないクララを責めた。

やがて…
19歳になったクララは、父親の助けを借りずに、
パリの演奏旅行へ出発する。

独りぼっちの不安と負担で、不眠と頭痛に苦しんだけれど
ピアノの音色は澄み切っていた。

父親に見捨てられても自分の足で立てる。
その自信が、クララを自由にする。


クララ・シューマンの結婚生活 

1840年、やっとシューマンと結婚をしたクララは
次々と子供を生み育てながらヨーロッパをめぐって
演奏活動をつづけた。

忙しかった。
その忙しさはクララ自身の日記にも記されている。
それでも妻になる幸せは、クララの想像を超えていた。

この幸福を知らない人たちを、
わたしはどんなに気の毒に思うことか。
それでは半分しか生きていないと同じではないか。

ピアニストとして名を馳せ、
作曲家としても後世に名を残し
シューマンの妻であり、
大勢の子供たちの母だったクララの
忙しく幸せな日々をを喜びたい。


クララ・シューマンとヨハネス・ブラームス

シューマンが亡くなったとき、
未亡人になったクララと残された家庭を支えたのは
ヨハネス・ブラームスだった。

家族の一員のようになっていたブラームスに
クララは夫の楽譜や蔵書を自由に使わせた。
ブラームスはクララを尊敬し
作品ができあがるとまずクララに見せるのを習慣にした。

クララはブラームスの楽譜を、心待ちにしていた。
彼の音楽を誰よりも深く愛し、
美しく奏でられることを誇りにしていた。

音楽家としても人間としても
ふたりは支えあいながら、年を重ねていく。

クララが70歳までピアニストでいられたのも、
ブラームスが60歳を超えても作曲を続けたのも、
ふたりの親密な友情があったから。

60歳になったブラームスは、
「ピアノのための6つの小品」を作曲して、
74歳のクララに捧げた。

叙情的でおだやかな
長い友情にふさわしい曲である。


クララ・シューマンの生き様 

クララ・シューマンは、
100マルク紙幣の顔になっている。

彼女は、夫であるロベルト・シューマンが入院したときも
病院で息をひきとったときも
友人からの援助はすべて断り、苦境に立ち向かった。

ピアニストとして演奏活動をつづけながら
シューマンの作品を世に出すことにつとめ
シューマン全集の編纂にもあたった。

ピアノを弾いていると、
過度の苦しみを背負ったわたしの心が、
まるでほんとうに大声で泣いたあとのように、
軽くなるのです。

ドイツはクララ・シューマンの生涯をたたえて
その肖像を100マルク紙幣に残した。


ヨハネス・ブラームス

20歳のヨハネス・ブラームスは、
自分の作品とシューマンの曲は似ていると感じた。

ためらいがちに自宅を訪ねていくと、
ブラームスの曲を、まずシューマンが絶賛し
その妻クララも、若き才能に惚れこんだ。

シューマンは華々しくブラームスを紹介し
それがきっかけになって
やがてベートーベンの後継者とまでいわれるブラームスの
大作曲家への道がはじまる。

若いみずみずしい感受性は、
シューマン夫妻の刺激になっただろうけれど
ブラームスがシューマン夫妻に被った恩もまた大きい。


シューマン夫妻の交換日記 

シューマン夫妻は、
伝えきれない想いを、交換日記につづった。

ピアニストである妻のクララと共に
ロシアの演奏旅行に出かけたとき、
シューマンは発熱やめまいに苦しんでいた。

一方クララは演奏会の拍手を一身に受け、
華やかな貴族の夜会に出かけていく。

シューマンは何も言わずに、ひとこと日記に書いた。

この苦痛とクララの行動にはもう我慢ができない。

それを読んだ彼女も書いた。

わたしはしばしば、あなたを怒らせていたようだ。
ただわたしの至らなさと鈍感のせいだ。

シューマンが忙しくなったときは
クララが寂しさを日記にぶつけた。
そのとき夫は、妻への愛を書きしるした。

やわらかく傷つきやすい心は
口に出す言葉より日記の文字をラクに受け入れるのだろうか。

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小宮由美子 11年01月22日放送


本を愛して① ウィリアム・ユーアート・グラッドストン

4回にわたってイギリスの首相をつとめたグラッドストン。
彼は、責任の重みに押し潰されそうなとき、
次の3つの気晴らしの方法のうちのどれかを実行した。

大きな木を斧で切り倒すか。
ロンドンの町を歩き回って売春婦と話をするか。
本の整理をするか。

中でも本の整理は、お気に入りだった。
彼はいつも大量に本を買い、その本を本棚におさめる作業に没頭した。

心から本を愛するものは、命あるかぎり
 本を家へおさめる作業を人まかせにはしないだろう

グラッドストンの遺作となったエッセイのタイトルは
『本とその収納』。1898年、彼が世を去った直後に出版された。


本を愛して② 一柳齋柳一

明治の末から、大正、昭和のはじめにかけて活躍した
寄席芸人、一柳齋柳一。
九代目團十郎に似た、苦み走った渋い男前。
偉い人間がキライで、筋っぽい若手の噺家をかわいがった。

彼は皿回しの名人だったが、非凡な記憶力に恵まれ、
ときおり寄席で記憶術を演じ、拍手喝采を浴びた。

本が好きで博学、楽屋では「先生」と呼ばれていた柳一。
しかし意外にも、柳一は蔵書というものを持たなかった。
一度読むと、内容のことごとくを覚えてしまったから、だという。


本を愛して③ 私および友人たちに

かつて本は、人の手によって
何年もかけて書き写されることで作られた。
そのため非常に高価で、購入には一財産が必要だった。

「本を盗むべからず」
持ち主たちが、蔵書に有名な呪いの言葉を書き留め
泥棒よけとしたのも、無理のないことだった。

やがて印刷技術が生まれ、図書館が全盛期を迎えると
本に添えられる言葉も変わった。
ヴィリバルト・ピルクハイマーのコレクションの
蔵書票には、次のような言葉を見つけることができる。

<私および友人たちに>

文学という宝物を公開し、みなで分かち合うという思想は、
イタリアから始まり、やがて世界に広まっていく。


本を愛して④ 少年と古書店主

少年が、美しく彩られた中世の彩飾写本のとりこになったのは
15歳のときだった。
手持ちの小遣いは5ポンドあります。彩飾写本を売ってください」と、彼はロンドンの古書店に片っ端から手紙を出したが、返ってくるのは
当然のことながら、そっけない、ないしは慇懃なお断り。
その中で、ただひとりの古書店主が、長い手紙を少年に送った。

5ポンドでは何ほどのことも出来ないが、がっかりすることはない

古書店主が同封してくれたカタログのコピーは、
少年の写本への興味と憧れを掻き立てるには十分なものだった。

この古書店主は、アラン・トマス。
世界中に顧客を持ち、自分の好みに徹したコレクションを
残したことでも知られる深い学識の持ち主。
そして少年は、クリストファ・ド・ハーメル。
のちのロンドンのオークション会社、サザビーズの
中世写本部門の責任者となる人物である。


本を愛して⑤ 中井履軒 

本という存在は、人を楽しませ、人をとりこにし、
そして、人を正す。
江戸時代を生きた儒学者、中井履軒(なかいりけん)は
晩年、視力を失ってからも、
常に論語をひらき、机の上に置いていた。
不思議に思った人がその訳を尋ねたところ、
たとえ目が見えなくとも、聖なる教典が置かれてあると思えば、
自ずから心がひきしまるからだ、と履軒は答えたという。


本を愛して⑥ 作家のペンネーム

知人の珍しい苗字を拝借して「太宰治」。

エドガー・アラン・ポーにあやかって「江戸川乱歩」。

極めつけは、
目をつぶって電話帳を開き、
鉛筆で突いたら里見とあったので、「里見弴」。

後世に名を残す作家たちのペンネームの付け方は軽妙で
遊び心が効いている。

小説を書いてみたいと思って、なかなか筆をとれないときは
ペンネームから考えてみるのはどうだろう。
分身のもつ筆のほうが、なめらかに滑り出すかもしれない。


本を愛して⑦ ジョン・ダントン

17世紀、ロンドンで本屋を営んでいた男、
ジョン・ダントン。
幸せな結婚生活を送っていたが、その期間はあまりにも短かった。
妻が若くしてこの世を去ってしまったのだ。
だが、ダントンは半年後には再婚。
心変わりの早さをこんなふうに表現した。

ただ人を代えたというだけなのだ。
それで我が家における女性の徳の質に変わりがあったわけではない。
二人目の妻は、最初の妻のいわば増補改訂版であり、
新装版であるとも言えようか

ユーモアがあるというのか、正直すぎるというのか。
意見が分かれるところではある。

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五島のはなし(127)

五島に帰って
最初に釣り糸をたらした瞬間
クエが釣れました。

クエです、クエ。

超高級魚。・・・の子。

すぐさま海にお帰りいただいた。

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