ある日、ご近所の玄関の前で黒虎の猫が座っていた。
ほとんど玄関の風景に溶け込んでいた。
もうずっと座っていたのかもしれないし
これからしばらく、たぶんこの玄関が開くまで
座っていそうな気がした。
猫は座り込みが得意だ。
お腹が空くと自分のお皿の前にいつまででも座っている。
かなり根気があり、辛抱強い。(暇ともいえるが)
そういう姿を見ると可哀想になるのが
ちょっと困る(玉子)
ある日、ご近所の玄関の前で黒虎の猫が座っていた。
ほとんど玄関の風景に溶け込んでいた。
もうずっと座っていたのかもしれないし
これからしばらく、たぶんこの玄関が開くまで
座っていそうな気がした。
猫は座り込みが得意だ。
お腹が空くと自分のお皿の前にいつまででも座っている。
かなり根気があり、辛抱強い。(暇ともいえるが)
そういう姿を見ると可哀想になるのが
ちょっと困る(玉子)
世界最大の
ソーシャルネットワーキングサービス「Facebook」。
2004年にハーバード大学の学生
マーク・ザッカーバーグが「Facebook」を設立すると、
さまざまな投資家が彼に近づき、買収の話を持ちかけた。
しかし、どんな金額を提示されても、
ザッカ―バーグに会社を売る気はなかった。
彼は言う。
別にお金が欲しいわけじゃない。
僕にとってFacebookはニ度と思いつくことのない
素晴らしいアイデアなんだ。
伝説はガレージからはじまる。
「Hewlett-Packard」は1938年、
ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードが
カルフォルニア州パロアルトの小さなガレージではじめた。
「Apple Computer」は76年、
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが
ジョブズの実家のガレージではじめた。
「Google」は98年、
セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジが
カリフォルニア州メンローパークのガレージからはじめた。
インターネットショッピングの「Amazon」も
1994年にシアトルのガレージからはじまった。
だがそれにはこんな裏話がある。
創業者のジェフ・ベゾスが、事業が成功したあとで
「うちの会社もガレージからはじまった」と言うために
わざとガレージを選んだのだという。
ウェブ上でユーザー同士が自由に交流を楽しむ
ソーシャル・ネットワーキングサービス。
中でも世界最大のユーザー数を誇るのが、「Facebook」。
2004年、当時ハーバード大学の学生だった
マーク・ザッカーバーグと数人の仲間が
大学内の学生交流のためにはじめた。
すると、そのサイトが学生の間で評判になり、
他の大学にも次々と公開されるようになった。
そして2006年、一般の人々にも公開が及ぶと人気は爆発し、
世界中の人々が「Facebook」に自分のページを開きはじめた。
現在の会員数は5億人を超える。
設立からわずか6年でアメリカ合衆国の総人口をも上回る
ユーザーを集めたモンスターサイト「Facebook」。
マーク・ザッカーバーグはこう語る。
ぼくたちはFacebookを
単なるウェブ上のコミュニティとは考えていない。
Facebookはリアルライフの映し鏡。
リアルライフそのものなんだ。
デジタル時代の天才たち④
「サーゲイ・ブリンとラリー・ペイジ」
2004年のある日、シリコンバレーの中心を走る
ハイウェイ沿いに奇妙なビルボードが設置された。
書いてあるのは難解な数学の問題と、
ウェブサイトのアドレスを思わせる「.com」の文字だけ。
企業名は何も書いていない。
じつはそのビルボードは「Google」の求人広告。
数式の解答をアドレスバーに打ち込むと、
「我々が探しているのは世界最高のエンジニア。
あなたこそその人です」と書かれたページにたどり着く。
セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ。
ふたりの天才がつくった革新的な検索エンジン
「Google」は求人の方法もまた革新的である。
1996年、スタンフォード大学の大学院生、
ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンは
どんな検索サイトよりも正確に情報を探し出せる
検索システムの研究に没頭していた。
あるとき、ラリー・ペイジは
サイトとサイトを結びつける「リンク」が
重要な鍵を握ることに気づいた。
そこで、彼はリンクの解析をするために、
インターネットに存在するすべてのサイトを
自分のコンピュータにダウンロードすることを試みた。
「そんな馬鹿な」。指導教官も驚くほどの
大それた考えだったが、ラリーは実行する。
そしてついに、すべてのウェブサイトの
リンク構造を解析し、「ページランク」と呼ばれる
独自の検索アルゴリズムの開発に成功した。
この「ページランク」がのちに世界最大の検索エンジン
「Google」の誕生につながるのである。
ラリー・ペイジは語る。
できるはずがないと思われることに挑戦すべきなんだ。
こうしようと決めた目標に向かうときは、
ちょっとまぬけでなくちゃいけないのさ。
パソコンや携帯電話のメールで使われる「絵文字」。
世界で最初の絵文字は1982年、当時IBMの技術者だった
スコット・ファールマンによってつくられた。
コロンとハイフン、カッコを組み合わせ、
横向きにすると人の笑顔に見えることから
「スマイリー」と名づけられた。
それ以来、さまざまな人の手によって
多くの絵文字がつくられ、
文字が整然と並ぶコンピュータのテキストは、
人間の豊かな感情に彩られるようになった。
スコット・ファールマンは言う。
良かったのか悪かったのかわかりませんが、
これは私が世界に上げた贈り物です。
今起きていることを140字以内の短い文章で投稿する
コミュニケーションサービス「twitter」。
投稿することを“tweet”というが、
それは鳥のさえずりという意味。
2006年の創業からわずか3年でユーザーは1億人を超え、
1日に5000万もの投稿が世界中を飛び交う。
「Twitter」の共同創業者、ビズ・ストーンは語る。
世界中の人々がつながれば、思いを分かち合えます。
鳥の群れが、隣同士つつきあいながら、
全体で美しいうねりをつくるようにね。
僕たちはその流れを支えたいのです。
「Apple Computer」はふたりのスティーブによってつくられた。
ひとりはスティーブ・ジョブズ。
もうひとりはスティーブ・ウォズニアック。
ジョブズとウォズニアックが出会ったのは1971年。
ウォズニアックの自作したコンピュータを
ジョブズが見に訪れたことから交遊がはじまる。
ウォズニアックは振り返る。
いやー、似てるなあって思ったよ。
コンピュータの設計について話さなくてもわかってくれたし。
すぐに仲良くなってエレクトロニクスや音楽について、
いろいろと話し合ったんだ。
パーソナルコンピュータの革命は、
ビジネスではなく少年同士の友情からはじまった。
2008年11月、渋谷駅にあらわれた巨大な壁画に人々は驚き
カメラを向けた。
縦5.5メートル、幅30メートルのその壁画は
「明日の神話(あすのしんわ)」と名付けられた岡本太郎の作品だが
展示されている場所はJRと京王線の連絡通路で
人通りは激しく、気温も湿度もコントロールされてはいない。
作品を保護するためのガラスもない。
20世紀でもっとも人気のあった芸術家といわれる岡本太郎だが
彼は自分の作品がガラスのなかに展示されるのを極度に嫌った。
もし作品が傷つけられたら自分が直すとまでいっていた。
その考えに従って
本当にむきだしのまま展示された岡本太郎の「明日の神話」は
夏の重い湿気に耐え、冬の乾燥にも負けず
渋谷のランドマークとして、
24時間、誰でも見ることができる。
美術館で、ただ人の訪れを待つ芸術作品より
それはもしかして、幸せなことなのかもしれない。
岡本太郎の代表作といえば
1970年の大阪万博のシンボルタワー、太陽の塔。
しかし万博当時は
3つの顔を持ち、両手をひろげたその姿は
「醜悪」「不気味」といわれ
「あまりに岡本太郎的」という非難まで浴びた。
しかし、岡本太郎は自分の著書にこんなことを書いている。
うまくあってはならない きれいであってはならない
ここちよくあってはならない
たとえ不快であっても見る人を惹きつけ、圧倒するのが
真の芸術だと説いているのだ。
批判の多かった太陽の塔だが
万博が終わってみたら署名運動が起こり
万博公園に永久保存されることになった。
その代表作をいつでも誰でも見ることができるというのは
いかにも岡本太郎らしい。
青山の「こどもの城」の入り口には
岡本太郎の「こどもの樹」が立っている。
「こどもの樹」もまた、24時間誰でもみることのできる
岡本太郎の作品だ。
「こどもの樹」は真ん中の幹から腕のような枝が生え
その先端には顔がある。
怒った顔、笑った顔、泣いた顔にベロを出した顔
それは本当に子供の表情だ。
大人になって忘れてしまった顔がそこにある。
岡本太郎は自分のことを子供の代表といっていたそうだ。
既成概念と戦い、束縛には反抗し、反逆児と呼ばれたが
岡本太郎本人としては
素直に自分を表現していたということなのだろう。
子供はひとりひとりが自分の顔を持っていないといけない。
隣の子と同じ顔ではいけない。
「こどもの樹」にはそんなメッセージが込められている。
岡本太郎が「若い時計台」をつくったのは1966年、
55歳のときだった。
数寄屋橋公園に立つそれを見た人は
誰もが万博の「太陽の塔」を連想するけれど
実は「若い時計台」の方が4年も早い。
同じ1966年にソニービルがオープンしたが
マリオンができるのは18年後だし
数寄屋橋あたりにはまだ古いビルが建ち並んでいた。
岡本太郎の「若い時計台」は
そんな時代に数寄屋橋公園に出現したのだ。
顔の文字盤を支える胴体からはいくつもの腕が
四方八方に伸びている。
それは角度によって踊っているようにも見えるし
握手を求めているようにも見える。
日が暮れるとネオンの仕掛けで色が変化する。
しかし、いちばん驚くのは
この時計台、どこから見てもどんな新しいビルを背景にしても
斬新な存在感を主張していることだ。
そばに寄ったときと、道路を隔てて眺めたときでは印象が違う。
角度や時間帯によっても違う。
誰もが24時間見ることのできる作品だから
いつ見ても面白く新しく。
それが「若い時計台」の若さなのかもしれない。
岡本太郎の墓は多磨霊園にある。
その墓標は「午後の日」という太郎の作品で
大きく無邪気な子供の顔だ。
作品は顔と両頬に当てた手だけだけれど
この子はたぶん、暖かい日の当たる座敷で
畳に腹ばいになっているに違いない。
そして、そばにいるお母さんと楽しい話をしているに違いない。
そんな風におもえてくるほど
かわいらしく、あたたかい作品なのだ。
そして、それから、ひとつの思いが浮かんでくる。
これはもしかして、岡本太郎本人なのではないか.
自分がこうありたいと願っていた子供の姿ではないか。
あとひと月もすると桜の便りも聞けるだろう。
1600本の桜が咲く多磨霊園の桜並木のすぐそばに
岡本太郎は子供の顔をして眠っている。
大正から昭和のはじめにかけて一世を風靡した漫画家
岡本一平の墓は、多磨霊園にある。
墓標は埴輪に似ているが、
顔はまん丸で無邪気に笑っている。
それは一平の長男岡本太郎の「顔」という作品で
母岡本かの子をモデルにしたといわれている。
両親の複雑な夫婦関係や
母にかまわれなかった太郎の幼少時代は
誰知らぬものとてないけれど
それでも、太郎も父も
岡本かの子を愛していたのだな、と
この墓標を見るとつくづく思う。
岡本太郎が創造したものは
絵画や彫刻だけではなかった。
椅子、灰皿、スキー板
デパートのショーウインドーのディスプレイ
果ては鯉のぼりのデザインにまで手を染めている。
生活のなかに生命感あふれる遊びを創造することは
彼の喜びでもあったし
また芸術を社会に広げていくための空間的な広がりを求めていた。
そのひとつは、みんなが手に取れる大量生産のものをつくることであり、
もうひとつは銀座の空に絵を描くといった物理的な空間の占有である。
そういえば…
岡本太郎は飛行船のデザインまで手がけている。
戦後二番めの飛行船として1973年に空を飛んだレインボー号は
岡本太郎によって魚のような原色の絵が描かれ
日本の空を飛びまわった。
レインボー号には本当なら
スポンサーである企業の名前が入るはずだったのだが
岡本太郎は「大空はみんなのもの」という理由で猛反対。
もともと宣伝活動のための飛行船だったにもかかわらず
企業もその意見を受け入れた。
原色の絵で飛びまわる飛行船は話題になり
岡本太郎と、それから名前を消した企業の名を
世の中に広めることになった。
■■応募受付日■■
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2月24日(木)・25日(金)・28日(月)
10:00-17:00 @TCC事務局(〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-7-15 )
一般&新人の「印刷」:
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10:00-17:00 @都立産業貿易センター(浜松町)
新人の「混合」は一日間のみ:
4月11日(月)
10:00-17:00 @都立産業貿易センター(浜松町)
女であり妻であり母であり、
勤め人であり土を耕す人でもあった詩人、永瀬清子。
彼女は
心の底を隠したがる人間には詩は書けない、と言い
生涯、自分と向き合い続け、学び続けた。
晩年の学びを、彼女はこう語った。
人々のさまざまな忠告は、
常に私自身の発見と事実とに反していることが多い。
たとえば「安静に」「脂肪をとるな」「塩をとるな」「働くな」。
私自身の生命はつねに私に教えてくれる。
「悩め」「力をつくせ」「戦え」「一歩出ろ」。
戦争の真っただ中で、少女は疑問を抱いていた。
美しいものを楽しむことが、なぜ悪いことなのだろうか。
一億玉砕で死ぬことが、なぜ良いことなのだろうか。
もちろん、そんなことは誰にも言えなかった。
戦争が終わり、大人になって、
あの頃の疑問は正しかったということに気づいた。
同時に、人から思想を植えつけられた自分に腹が立った。
少女の名は、茨木のり子。
自分の言葉に対して潔いほどまっすぐな詩人になった。
後に発表した詩は、こんな一節で締めくくられている。
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
銀行員詩人と呼ばれた石垣りんは
昭和9年、満14歳で銀行に就職し
家族の生活を支えながら定年まで働いた。
幼いころに母と死に別れ、
ふたりめの母も若くして亡くなり、
18歳までに4人の母を持った。
戦争が終わり、30歳を迎えた石垣りんは、
臨終の床にある祖父と、こんな会話をした。
「私は、ひとりでもやっていけるかな?」
「やっていけるよ。」
「私のところで人間やめてもいい?」
「いいよ。人間、そんなに幸せなものじゃないから。」
こうして、彼女は生涯、
妻にも母にもならない道を選んだ。
しかし、そんな彼女の書く詩には
人間の生活への深い思いが溢れている。
銀行員詩人石垣りんの別名は、生活詩人。
その名言集にはこんなことばもある。
齢三十とあれば
くるしみも三十
かなしみも三十
柴田トヨさんが詩を書きはじめたのは、
90歳を超えてから。
趣味の日本舞踊が踊れなくなり、
新聞の詩の投稿欄に応募したのがはじまりだった。
その詩は、たちまち読者をひきつけ、
処女作品集はベストセラーとなる。
98歳でも
恋はするのよ
夢だってみるわ
雲にだって乗りたいわ
もうすぐ100歳になるトヨさんの中には
永遠の少女が生きている。
長野県松本市の裕福な家庭に生まれた少女は
小さなころから、幻聴や幻覚に悩まされていた。
その異常な日常を受け入れるためだろうか。
彼女は自分に見えている世界を鉛筆や絵の具で書きとめはじめた。
アーティスト、草間彌生。
10歳の時に描いた母の肖像画には顔の上に
着物の上に無数の水玉が描かれていた。
草間は60年代後半には
ニューヨークでハプニング・アーティストとして
知られるようになった。
やがて創作の形式として、小説や詩も用いはじめる。
過激で性的な作品群は、草間自身の屈折した人生と重ね合わされ
マスコミを騒がせた。
そんな中、草間彌生は言い切った。
私の小説はすべて私の想像から創出されたものであり、自叙伝ではない。
ただし、詩集は別格である。
小さな頃描いた、幻覚を現実として認めるためのドローイングの
ように。幼く澄んだ言葉で紡がれた「すみれ強迫」という詩がある。
ある日 突然 わたしの声は
すみれの声になっているの
心しずめて 息をつめて
ほんとうなのね、みんな
今日に おこったことたちは
悩みを抱える人が彼女のおむすびを食べると、
自然と自分を取り戻していく。
「森のイスキア」主催、佐藤初女さん。
10代で胸を患い、30代まで闘病生活。
治りたい。でも、だめかもしれない。
若き日に、祈る思いで歩いた海辺に、
87歳の初女さんが立ったとき。
色も模様もちがう貝殻を見つめてこう言った。
神様でしょうか、これを作ったのは。
佐藤初女さん。
その言葉にも、おむすびにも、
命の詩(うた)が流れている。
谷川俊太郎の詩に
画家・佐野洋子が絵をつけた詩集「女に」。
その詩集はふたりが結婚した翌年に出版された。
その中の一節、
もう何も欲しいとは思わないのに
まだあなたが欲しい。
詩とはパーソナルな芸術だ。
この美しい詩集はそう教えてくれる。
詩人、小池昌代(こいけまさよ)の代表詩集。
ババ、バサラ、サラバ
20篇ほどの詩がおさめられているが、
最後までその言葉の意味は明かされない。
読者すべてが抱くであろう
ババ、バサラ、サラバって何?という
問いの答えだろうか。
小池はこう言う。
現代詩を書いていると唇が寒くなる。
濁った音はあたたかい。
唇の破裂と爆発を、そこに生じる摩擦熱を
寒いわたしは求めていた。
ババ、バサラ、サラバ。
口だしてみると、不思議な呪文のように
ちょっと切ない、じわっと心が熱をもつ。
そんな感覚になるのはなぜだろう。
「意味」を伝えることを超えて
詩人、小池昌代は言葉と格闘する。
1923年のある日のこと。
人類初のエベレスト登頂が期待されるイギリスの登山家
ジョージ・マロリーに、ニューヨークタイムズの記者が尋ねた。
「あなたはなぜエベレストに登るのか?」
彼は答えた。
Because it is there
そこに山があるからさ。
その翌年、マロリーは
エベレストの頂上をめざしたまま帰らぬ人となったが
Because it is there
この言葉は後につづく登山家の気持ちを代弁する言葉となった。
エベレスト初登頂の記録は
1953年のエドモンド・ヒラリーだが
ジョージ・マロリーも実は登頂に成功したと考える人は多い。
小学校は中退した。借金は15年かけて返済した。
妻には毎日文句を言われ、選挙に出れば4回も落選した。
いまならダメな奴のレッテルを貼られそうな人物が
アメリカの大統領になった。
彼の名は、エイブラハム・リンカーン。
私は人の奴隷になりたくない。
また奴隷の主人になりたいとも思わない。
これが民主主義に対する私の考え方である。
「人民の、人民による、人民のための政治」で知られるゲティスバーグの演説や
「奴隷解放宣言」に貫かれる自由と平等、
何よりも人間に対する温かな目線は、
彼自身、毎日を生きることに必死な平凡なひとりの人間であることを、
誰よりも自覚していたからこそ生まれたのではないだろうか。
ちなみにアメリカで最も尊敬されている大統領は、
いつ調査しても、答えは決まって「リンカーン」だそうだ。
哲学者ソクラテスは結婚についてこう言った。
結婚はした方がいい。
良い妻を得れば幸せになるし、
悪い妻を得ても哲学者になれる。
「ソクラテスの妻」と言えば現在では悪妻の代名詞だが、
その妻クサンティッペは世界三大悪妻の一人に数えられている。
またソクラテスはすぐにカッとなっては夫を罵り、
時として暴力も奮う妻についてこんな言葉も残している。
あの女に耐えられれば、
誰にでも耐えられる。
しかし、妻の立場からすると哲学者ほど始末の悪いものはなかった。
定職にもつかず、毎日若い者を集めてはタダで講義をする。
まともな収入もない中で彼女は3人の子どもを懸命に育てた。
やがてソクラテスが無実の罪で死刑を宣告され
謝れば罰金で済む程度の話なのに、
自分を裁く者こそ間違いだと言い張ったあげく、
すんなり刑を受け入れてしまった。
この知らせを聞いたクサンティッペは、怒鳴りも罵りもせず、
ただソクラテスを思って泣いた。
「スタンドバイミー」「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」
などのベストセラーで知られる作家、スティーブン・キング。
モダンホラーの第一人者であり、作品の多くが映画化される人気作家の彼も、
小さい頃はSFやホラーの好きな普通の子どもだった。
ある日、お気に入りの漫画を描き写した彼のノートを見て、
母親のネリーがこう言った。
「自分で書きなさい、スティーヴィー。
『コンバット・ケーシー』 の漫画なんてつまらないわ。
ケーシーはいつも乱暴をして人を 痛い目に遭わせるばかりでしょう。
もっと面白いことがあるはずよ。自分で書きなさい」
この言葉をきっかけに、彼は自らの創作を始める。
しかしその道は決して楽なものではなかった。
子供の頃は食べていくので精一杯な生活。
大学を卒業してからも妻と生まれたばかりの二人の赤ん坊を養うために、
昼は高校の英語教師、夜はクリーニング店でアルバイトをした。
それでも彼は書きつづけた。27歳のとき、
超能力を持つ少女が自分をいじめたクラスメイトを皆殺しにする
ホラー小説「キャリー」でついにデビューを果たす。
後に彼は成功の秘訣についてこう語る。
才能は食卓塩より安い。才能ある人と成功者の差は、努力の量だ。
1970年9月13日。29歳の消防士ゲーリー・マルカは
15時間の夜勤明けだった。
しかしせっかくの日曜の朝。
妻と子供を連れてセントラルパークへ遊びに行った。
着くと、何やら騒がしい。そうか、今日はマラソンがあったっけ。
何を思ったか、マルカは出走15分前に参加を申し込んだ。
結果は堂々の1位。
今では4万人以上のランナーが参加する、
ニューヨークシティマラソンの
記念すべき初代チャンピオンは、なんと徹夜明けの消防士だったのだ。
マルカは70歳の今も現役のランナーで、
前回大会も3時間46分の好タイムで見事完走し
3時間半を切る予定だったが、
忙しくて調整が足りなくてね。
と涼しい顔でひと言述べている。
20世紀初めのある日。
ひとりの男が食肉工場の前を通りかかった。
そこでは、作業員が上から吊るされてスライドしてくる肉を
自分の分担する部分だけ切り取っていた。
これだ、と男はひらめいた。
その男は、自分の自動車工場に
このベルトコンベア式流れ作業を取り入れた。
組立て作業の分業化によって、製造スピードは500倍にあがり、
一台作るのにたった93分しかかからなくなった。
その男はフォードモーターの創始者、ヘンリー・フォードだった。
フォード社の「T型フォード」は、
他社の車が1000ドルの時代に290ドルまで値段を下げ、
車を裕福な人の贅沢品から、一家に一台の庶民の足に変えた
フォードはこんなことを言う。
できると思えばできるし、できないと思えばできない。
どちらにせよ、君は正しい。
かつてアウディには、一人の日本人デザイナーがいた。
彼の名は、和田智。
37歳のとき、日産からアウディに移籍した。
和田はある日、上司に呼ばれた。
上司の名はワルター・デ・シルバ。
アルファロメオのデザイナーとして
数々の名車を世に送り出したイタリアの鬼才である。
シルバは思わぬことを語り始めた。
子どもの頃に見たミラノの街の景色。
その中に美しく溶け込む60年代の名車たち。
その光景にいかに自分が胸をときめかせたか。
和田はやがて、話の核心に気づき始めた。
自分たちがデザインしているのは単なる車ではない。
ヨーロッパのエレガンスや文化を創造しているんだ。
そのバトンをいま彼は日本人である自分に託そうとしている。
シルバの想いを完全に理解したとき、もう和田は迷わなかった。
彼がデザインした「A5クーペ」は、「プロダクトデザインのオスカー」と呼ばれる
ドイツ連邦デザイン賞の2010年度のゴールドメダルに輝いた。
いま、彼は確信を持ってこう言う。
デザインとは、過去と今、そして未来をつなぐこと。
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