佐藤理人 11年02月19日放送
1923年のある日のこと。
人類初のエベレスト登頂が期待されるイギリスの登山家
ジョージ・マロリーに、ニューヨークタイムズの記者が尋ねた。
「あなたはなぜエベレストに登るのか?」
彼は答えた。
Because it is there
そこに山があるからさ。
その翌年、マロリーは
エベレストの頂上をめざしたまま帰らぬ人となったが
Because it is there
この言葉は後につづく登山家の気持ちを代弁する言葉となった。
エベレスト初登頂の記録は
1953年のエドモンド・ヒラリーだが
ジョージ・マロリーも実は登頂に成功したと考える人は多い。
小学校は中退した。借金は15年かけて返済した。
妻には毎日文句を言われ、選挙に出れば4回も落選した。
いまならダメな奴のレッテルを貼られそうな人物が
アメリカの大統領になった。
彼の名は、エイブラハム・リンカーン。
私は人の奴隷になりたくない。
また奴隷の主人になりたいとも思わない。
これが民主主義に対する私の考え方である。
「人民の、人民による、人民のための政治」で知られるゲティスバーグの演説や
「奴隷解放宣言」に貫かれる自由と平等、
何よりも人間に対する温かな目線は、
彼自身、毎日を生きることに必死な平凡なひとりの人間であることを、
誰よりも自覚していたからこそ生まれたのではないだろうか。
ちなみにアメリカで最も尊敬されている大統領は、
いつ調査しても、答えは決まって「リンカーン」だそうだ。
哲学者ソクラテスは結婚についてこう言った。
結婚はした方がいい。
良い妻を得れば幸せになるし、
悪い妻を得ても哲学者になれる。
「ソクラテスの妻」と言えば現在では悪妻の代名詞だが、
その妻クサンティッペは世界三大悪妻の一人に数えられている。
またソクラテスはすぐにカッとなっては夫を罵り、
時として暴力も奮う妻についてこんな言葉も残している。
あの女に耐えられれば、
誰にでも耐えられる。
しかし、妻の立場からすると哲学者ほど始末の悪いものはなかった。
定職にもつかず、毎日若い者を集めてはタダで講義をする。
まともな収入もない中で彼女は3人の子どもを懸命に育てた。
やがてソクラテスが無実の罪で死刑を宣告され
謝れば罰金で済む程度の話なのに、
自分を裁く者こそ間違いだと言い張ったあげく、
すんなり刑を受け入れてしまった。
この知らせを聞いたクサンティッペは、怒鳴りも罵りもせず、
ただソクラテスを思って泣いた。
「スタンドバイミー」「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」
などのベストセラーで知られる作家、スティーブン・キング。
モダンホラーの第一人者であり、作品の多くが映画化される人気作家の彼も、
小さい頃はSFやホラーの好きな普通の子どもだった。
ある日、お気に入りの漫画を描き写した彼のノートを見て、
母親のネリーがこう言った。
「自分で書きなさい、スティーヴィー。
『コンバット・ケーシー』 の漫画なんてつまらないわ。
ケーシーはいつも乱暴をして人を 痛い目に遭わせるばかりでしょう。
もっと面白いことがあるはずよ。自分で書きなさい」
この言葉をきっかけに、彼は自らの創作を始める。
しかしその道は決して楽なものではなかった。
子供の頃は食べていくので精一杯な生活。
大学を卒業してからも妻と生まれたばかりの二人の赤ん坊を養うために、
昼は高校の英語教師、夜はクリーニング店でアルバイトをした。
それでも彼は書きつづけた。27歳のとき、
超能力を持つ少女が自分をいじめたクラスメイトを皆殺しにする
ホラー小説「キャリー」でついにデビューを果たす。
後に彼は成功の秘訣についてこう語る。
才能は食卓塩より安い。才能ある人と成功者の差は、努力の量だ。
1970年9月13日。29歳の消防士ゲーリー・マルカは
15時間の夜勤明けだった。
しかしせっかくの日曜の朝。
妻と子供を連れてセントラルパークへ遊びに行った。
着くと、何やら騒がしい。そうか、今日はマラソンがあったっけ。
何を思ったか、マルカは出走15分前に参加を申し込んだ。
結果は堂々の1位。
今では4万人以上のランナーが参加する、
ニューヨークシティマラソンの
記念すべき初代チャンピオンは、なんと徹夜明けの消防士だったのだ。
マルカは70歳の今も現役のランナーで、
前回大会も3時間46分の好タイムで見事完走し
3時間半を切る予定だったが、
忙しくて調整が足りなくてね。
と涼しい顔でひと言述べている。
20世紀初めのある日。
ひとりの男が食肉工場の前を通りかかった。
そこでは、作業員が上から吊るされてスライドしてくる肉を
自分の分担する部分だけ切り取っていた。
これだ、と男はひらめいた。
その男は、自分の自動車工場に
このベルトコンベア式流れ作業を取り入れた。
組立て作業の分業化によって、製造スピードは500倍にあがり、
一台作るのにたった93分しかかからなくなった。
その男はフォードモーターの創始者、ヘンリー・フォードだった。
フォード社の「T型フォード」は、
他社の車が1000ドルの時代に290ドルまで値段を下げ、
車を裕福な人の贅沢品から、一家に一台の庶民の足に変えた
フォードはこんなことを言う。
できると思えばできるし、できないと思えばできない。
どちらにせよ、君は正しい。
かつてアウディには、一人の日本人デザイナーがいた。
彼の名は、和田智。
37歳のとき、日産からアウディに移籍した。
和田はある日、上司に呼ばれた。
上司の名はワルター・デ・シルバ。
アルファロメオのデザイナーとして
数々の名車を世に送り出したイタリアの鬼才である。
シルバは思わぬことを語り始めた。
子どもの頃に見たミラノの街の景色。
その中に美しく溶け込む60年代の名車たち。
その光景にいかに自分が胸をときめかせたか。
和田はやがて、話の核心に気づき始めた。
自分たちがデザインしているのは単なる車ではない。
ヨーロッパのエレガンスや文化を創造しているんだ。
そのバトンをいま彼は日本人である自分に託そうとしている。
シルバの想いを完全に理解したとき、もう和田は迷わなかった。
彼がデザインした「A5クーペ」は、「プロダクトデザインのオスカー」と呼ばれる
ドイツ連邦デザイン賞の2010年度のゴールドメダルに輝いた。
いま、彼は確信を持ってこう言う。
デザインとは、過去と今、そして未来をつなぐこと。