女であり妻であり母であり、
勤め人であり土を耕す人でもあった詩人、永瀬清子。
彼女は
心の底を隠したがる人間には詩は書けない、と言い
生涯、自分と向き合い続け、学び続けた。
晩年の学びを、彼女はこう語った。
人々のさまざまな忠告は、
常に私自身の発見と事実とに反していることが多い。
たとえば「安静に」「脂肪をとるな」「塩をとるな」「働くな」。
私自身の生命はつねに私に教えてくれる。
「悩め」「力をつくせ」「戦え」「一歩出ろ」。
戦争の真っただ中で、少女は疑問を抱いていた。
美しいものを楽しむことが、なぜ悪いことなのだろうか。
一億玉砕で死ぬことが、なぜ良いことなのだろうか。
もちろん、そんなことは誰にも言えなかった。
戦争が終わり、大人になって、
あの頃の疑問は正しかったということに気づいた。
同時に、人から思想を植えつけられた自分に腹が立った。
少女の名は、茨木のり子。
自分の言葉に対して潔いほどまっすぐな詩人になった。
後に発表した詩は、こんな一節で締めくくられている。
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
銀行員詩人と呼ばれた石垣りんは
昭和9年、満14歳で銀行に就職し
家族の生活を支えながら定年まで働いた。
幼いころに母と死に別れ、
ふたりめの母も若くして亡くなり、
18歳までに4人の母を持った。
戦争が終わり、30歳を迎えた石垣りんは、
臨終の床にある祖父と、こんな会話をした。
「私は、ひとりでもやっていけるかな?」
「やっていけるよ。」
「私のところで人間やめてもいい?」
「いいよ。人間、そんなに幸せなものじゃないから。」
こうして、彼女は生涯、
妻にも母にもならない道を選んだ。
しかし、そんな彼女の書く詩には
人間の生活への深い思いが溢れている。
銀行員詩人石垣りんの別名は、生活詩人。
その名言集にはこんなことばもある。
齢三十とあれば
くるしみも三十
かなしみも三十