2011 年 2 月 26 日 のアーカイブ

厚焼玉子 11年02月26日放送


岡本太郎 明日の神話

2008年11月、渋谷駅にあらわれた巨大な壁画に人々は驚き
カメラを向けた。

縦5.5メートル、幅30メートルのその壁画は
「明日の神話(あすのしんわ)」と名付けられた岡本太郎の作品だが
展示されている場所はJRと京王線の連絡通路で
人通りは激しく、気温も湿度もコントロールされてはいない。
作品を保護するためのガラスもない。

20世紀でもっとも人気のあった芸術家といわれる岡本太郎だが
彼は自分の作品がガラスのなかに展示されるのを極度に嫌った。
もし作品が傷つけられたら自分が直すとまでいっていた。

その考えに従って
本当にむきだしのまま展示された岡本太郎の「明日の神話」は
夏の重い湿気に耐え、冬の乾燥にも負けず
渋谷のランドマークとして、
24時間、誰でも見ることができる。

美術館で、ただ人の訪れを待つ芸術作品より
それはもしかして、幸せなことなのかもしれない。


岡本太郎 太陽の塔

岡本太郎の代表作といえば
1970年の大阪万博のシンボルタワー、太陽の塔。

しかし万博当時は
3つの顔を持ち、両手をひろげたその姿は
「醜悪」「不気味」といわれ
「あまりに岡本太郎的」という非難まで浴びた。

しかし、岡本太郎は自分の著書にこんなことを書いている。

 うまくあってはならない きれいであってはならない 
 ここちよくあってはならない

たとえ不快であっても見る人を惹きつけ、圧倒するのが
真の芸術だと説いているのだ。

批判の多かった太陽の塔だが
万博が終わってみたら署名運動が起こり
万博公園に永久保存されることになった。

その代表作をいつでも誰でも見ることができるというのは
いかにも岡本太郎らしい。


岡本太郎 こどもの樹

青山の「こどもの城」の入り口には
岡本太郎の「こどもの樹」が立っている。
「こどもの樹」もまた、24時間誰でもみることのできる
岡本太郎の作品だ。

「こどもの樹」は真ん中の幹から腕のような枝が生え
その先端には顔がある。

怒った顔、笑った顔、泣いた顔にベロを出した顔
それは本当に子供の表情だ。
大人になって忘れてしまった顔がそこにある。

岡本太郎は自分のことを子供の代表といっていたそうだ。
既成概念と戦い、束縛には反抗し、反逆児と呼ばれたが
岡本太郎本人としては
素直に自分を表現していたということなのだろう。

子供はひとりひとりが自分の顔を持っていないといけない。
隣の子と同じ顔ではいけない。
「こどもの樹」にはそんなメッセージが込められている。


岡本太郎  若い時計台

岡本太郎が「若い時計台」をつくったのは1966年、
55歳のときだった。
数寄屋橋公園に立つそれを見た人は
誰もが万博の「太陽の塔」を連想するけれど
実は「若い時計台」の方が4年も早い。

同じ1966年にソニービルがオープンしたが
マリオンができるのは18年後だし
数寄屋橋あたりにはまだ古いビルが建ち並んでいた。
岡本太郎の「若い時計台」は
そんな時代に数寄屋橋公園に出現したのだ。

顔の文字盤を支える胴体からはいくつもの腕が
四方八方に伸びている。
それは角度によって踊っているようにも見えるし
握手を求めているようにも見える。
日が暮れるとネオンの仕掛けで色が変化する。

しかし、いちばん驚くのは
この時計台、どこから見てもどんな新しいビルを背景にしても
斬新な存在感を主張していることだ。

そばに寄ったときと、道路を隔てて眺めたときでは印象が違う。
角度や時間帯によっても違う。
誰もが24時間見ることのできる作品だから
いつ見ても面白く新しく。
それが「若い時計台」の若さなのかもしれない。


岡本太郎 午後の日

岡本太郎の墓は多磨霊園にある。
その墓標は「午後の日」という太郎の作品で
大きく無邪気な子供の顔だ。

作品は顔と両頬に当てた手だけだけれど
この子はたぶん、暖かい日の当たる座敷で
畳に腹ばいになっているに違いない。
そして、そばにいるお母さんと楽しい話をしているに違いない。

そんな風におもえてくるほど
かわいらしく、あたたかい作品なのだ。

そして、それから、ひとつの思いが浮かんでくる。
これはもしかして、岡本太郎本人なのではないか.
自分がこうありたいと願っていた子供の姿ではないか。

あとひと月もすると桜の便りも聞けるだろう。
1600本の桜が咲く多磨霊園の桜並木のすぐそばに
岡本太郎は子供の顔をして眠っている。


岡本太郎 顔

大正から昭和のはじめにかけて一世を風靡した漫画家
岡本一平の墓は、多磨霊園にある。

墓標は埴輪に似ているが、
顔はまん丸で無邪気に笑っている。
それは一平の長男岡本太郎の「顔」という作品で
母岡本かの子をモデルにしたといわれている。

両親の複雑な夫婦関係や
母にかまわれなかった太郎の幼少時代は
誰知らぬものとてないけれど

それでも、太郎も父も
岡本かの子を愛していたのだな、と
この墓標を見るとつくづく思う。


岡本太郎 

岡本太郎が創造したものは
絵画や彫刻だけではなかった。

椅子、灰皿、スキー板
デパートのショーウインドーのディスプレイ
果ては鯉のぼりのデザインにまで手を染めている。

生活のなかに生命感あふれる遊びを創造することは
彼の喜びでもあったし
また芸術を社会に広げていくための空間的な広がりを求めていた。
そのひとつは、みんなが手に取れる大量生産のものをつくることであり、
もうひとつは銀座の空に絵を描くといった物理的な空間の占有である。

そういえば…
岡本太郎は飛行船のデザインまで手がけている。
戦後二番めの飛行船として1973年に空を飛んだレインボー号は
岡本太郎によって魚のような原色の絵が描かれ
日本の空を飛びまわった。

レインボー号には本当なら
スポンサーである企業の名前が入るはずだったのだが
岡本太郎は「大空はみんなのもの」という理由で猛反対。
もともと宣伝活動のための飛行船だったにもかかわらず
企業もその意見を受け入れた。

原色の絵で飛びまわる飛行船は話題になり
岡本太郎と、それから名前を消した企業の名を
世の中に広めることになった。

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