2011 年 2 月 のアーカイブ

古居利康 11年02月13日放送


浜松の男、本田宗一郎。

浜松の中心部から北へ25キロ、
天竜川をさかのぼった、
山あいの村に生まれた本田宗一郎。

1917年。11歳のとき、
町に飛行機がやってくる。
少年は、父の自転車に
無断でまたがって、
夢中でペダルを漕いだ。
飛行機見たさの一心だった。

こうして、本田宗一郎は、
自動車より先に飛行機を見た。


浜松の男、本田宗一郎。

浜松の男は、前のめりだ。
独立心。挑戦心。負けず嫌い。
やってみもせんで何がわかる。
という本田宗一郎の口癖を、
短く言い直せば、
やらまいか、という浜松弁になる。

京と江戸を結んできた東海道。
木曽の山から遠州灘に注ぐ天竜川。
陸の道は文化を伝え、
川の道は豊富な木材を運ぶ。
ふたつの道が交差するところに
浜松という町がある。

情報と物資が忙しく往来する
この町で、
本田宗一郎は大人になった。


浜松の男、山葉寅楠(やまはとらくす)。

ペリー来航の2年前。
紀州の武士の家に生まれた山葉寅楠が、
明治の世になって、日本で初めての
ピアノづくりに成功する。

山葉寅楠は、浜松の地で、
のちにヤマハとなる日本楽器を立ち上げる。
この町には、ピアノ製造に欠かせない
良質の木材が豊富に集まってくるからだ。

和歌山生まれのこの男を、
浜松は決して排除しなかった。
よそものをよそものと呼ばない、
おおらかに開かれた気風が、
この町の風通しを良くしている。

徳川幕府260年のあいだに、
浜松城主は24人を数える。
将軍が15人だから、この数は少なくない。
家康のもとの本拠地だったこともあって、
松平、水野、青山、井上、太田など、
三河以来の譜代大名が、かわるがわる着任し、
そのつど、家臣団も入れ替わった。
殿様の交代に慣れっこになった
町人百姓のなかに、
新参者に寛大なメンタリティが
根をおろしていったのか。

寅楠は、そういう町でピアノに出会った。


浜松の男、河合小市(かわいこいち)。

江戸時代からつづく
職人の家に生まれた河合小市は、
10歳にして、大人を驚かせるほどの
腕前だった。

山葉寅楠は
35歳年下のこの少年に
ピアノづくりの基礎をたたきこむ。
わずか半年で、
ピアノが1台、できあがる。
すばらしい音だった。

のちに河合楽器をつくる
河合小市は、
このとき、まだ12歳だった。


浜松の男、高柳健次郎。

1918年、この町に
浜松高等工業という学校が生まれる。
全国で13番目に創設された、
国立の高等工業学校だ。
校門も塀もない自由な校風と、
進取の精神に富んだユニークな授業で、
あまたの人材を世に送り出した。

浜松の男は、ときに、
独創的な機械をこしらえたり、
驚くような大発明をやってのける。
そのことと、この学校の存在は、
決して無関係ではない。

一時期、本田宗一郎も学んだこの学校に、
1924年、ひとりの若い教師が着任する。
高柳健次郎。浜松生まれ。
その2年後、世界で初めて、ブラウン管による
テレビ画像の受像に成功する。
映したのは、カタカナの「イ」の文字。
高柳は、1937年の時点で、
当時の世界最高水準の走査線441本
という本格テレビをすでに完成させていた。
戦争にその後の研究を阻まれた高柳の才能は
戦後、いっきに花開いていく。


浜松の男、古橋廣之進(ひろのしん)。

浜名湖のほとりにある、
雄踏町(ゆうとうちょう)で生まれた古橋廣之進は、
みずうみで泳ぎを覚えた。

「私は毎日、魚に負けるものか、と、
自分が魚になったつもりで泳ぎました」
と、少年時代を振り返っている。

1949年、
全米水泳選手権に遠征した古橋は、
1500メートル自由形で、
当時の世界記録を40秒近くも更新して
優勝する。

あまりの圧勝に驚いたアメリカは、
彼を「フジヤマのトビウオ」と呼んだ。


浜松の男、本田宗一郎。

「日本人はアメリカに負けて
すっかり自信をなくしている。
けれど古橋は裸一貫、がんばった。
オレも世界一になる!」

古橋廣之進の快挙に興奮し、
わがことのように喜んだのが、
本田宗一郎だった。


浜松の男、河島兄弟。

兄・喜好(きよし)は、
水泳の名門、旧制浜松二中で
古橋廣之進の一級上にいた。
浜松高等工業にすすみ、本田技研に入社。
1973年、2代目の社長になる。

その4年後、
ふたつ下の弟・博が日本楽器の社長になる。

戦争中、飛行機のプロペラ製造に
事業を広げていた日本楽器は、
戦後、二輪車の分野に進出していた。
博が社長になったとき、
ヤマハは、世界市場で、
ホンダを猛追する
ナンバーツーの位置にいた。

ホンダとヤマハの、
シェア争いが激しくなる。
世界をまたにかけた兄弟喧嘩だった。
浜松の男どうしの、
ヤケドするような戦いだった。

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小宮由美子 11年02月12日放送


お腹がすいてきた① 水上勉

幼い頃、京都の禅寺で暮らした作家・水上勉は、
精進料理の作り方を叩き込まれた。
食べ物を粗末に扱うことはゆるされない暮らし。
毎朝、畑と相談して、何もない台所から作れるものを絞り出した。

ある日、台所の隅に、ほうれん草の根っこの部分を
切り捨てたのを老師に見つかった。
叱られるでもなく、拾い集めた根を渡されて、水上少年は赤面する。

「いちばん、うまいとこを捨ててしもたらあかんがな」
老師の言葉に、禅の教えが重なった。
ほうれん草の柔らかい葉も、固い根っこも、平等のいのち。
どっちを尊び、どっちをさげすむことがあってはならない。

後年、水上は『土を喰う日々』の中にこう書いている。

ぼくはそれ以来、今日にいたるまで、たとえば、料理屋や、
呑み屋などで、ほうれん草のひたしが出ると、根をさがすのだ。


お腹がすいてきた② 藤田嗣治

女優・高峰秀子が、
パリに暮らす画家・藤田嗣治を訪ねたときのこと。
長く祖国を離れている嗣治に、秀子は聴いた。

「日本の何が食べたいな、と思いますか?」

「根三つ葉、しその葉、みょうが、ふきのとう、
柚子に筆しょうがにくわいに納豆、…」

たちどころに十品ばかりを口にした嗣治のことを、
秀子はエッセイの中でこんなふうに言っている。

レオナルド・フジタなんて名前になって、すっかりフランス人に
なっちゃったけれど、藤田先生ほど「日本人」だった人はいない。


お腹がすいてきた③ 向田邦子

作家・向田邦子は料理を作るのが好きだった。
作った料理を食べてもらうことは、もっと好きだった。

よく家に人を招いてもてなした。
メニューの多くは、気取りのない「いつものおかず」。
不意の来訪にも、心づくしの品が並んだ。
たとえば、寒い夜に訪れた来客には熱いほうじ茶と、
冷蔵庫に作りおきしてあるさつまいものレモン煮を。
夕食を食べはぐれた若いディレクターには、
有り合わせを工夫したお腹の足しになるものを。

「善はいそげ。私はつくりたい料理をつくるとき、
原稿の締切が迫っていて、本当は料理に励むより
字を書かねばならないとき、自分にこう号令をかける」

そんな邦子だから、気づくと原稿用紙にお品書きなどを
連ねてみたり、作ってみたいレシピを書き留めたり。

いつ原稿が出来上がるのかと気を揉んだ人もいたろうが、
温かいもてなしに心満たされた人もまた、大勢いたことだろう。


お腹がすいてきた④ アーン・バックストロム

アルプスの山々に囲まれたスキーリゾート、シャモニー。
フリースキーヤーとして、輝かしいキャリアを築いていた
アーン・バックストロムは、
仲間とともにこのシャモニーの凍りついた岩山を自力で登り、
命の危険をはらんだ伝説的なラインに挑もうとしていた。

辿り着いた岩の峰から、アーンは遂に滑り出す。
烈しい斜面。延々と続く雪の急カーブ。
スピ―ドをあげ、ターンを刻みつづけるアーンの中に、やがて
「山が与えてくれる力強い感情」が生まれる。
「自分がどんなに些細な存在であるかを再確認」し、同時に
「自分の存在を強烈に」感じる瞬間。

この冒険について語ったエッセイ「重力にまかせて」を
締めくくるのは次の一文だ。

2,700メートルの標高を下り、着込んでいたレイヤーを
剥ぐように脱ぐと、Tシャツ姿でバーに行く。美しい春の午後、
ビールとエスプレッソがこれまでにないほど美味しく感じられた。


お腹がすいてきた⑤ ジョエル・ロブション

私の母は、夜の食事にもしばしばクレープを作ってくれました。
そして、ちょっとしたいたずらをして遊ぶのです。
母は、2枚のクレープの間に適当に糸を隠し入れておく。
すると、誰かがそれを間違って口に入れてしまう。口をもごもご
しないわけにはいかず、それを見て、皆で大笑いするのです

ジョエル・ロブションの幼いときのエピソード。
「地球上で最も有名な料理人」のひとりとうたわれる彼の<食の喜びは>、
慎ましくあたたかな家庭の食卓で、こんな風に培われた。


食のよろこび⑥ クロード・オスカール・モネ

画家・モネは、庭づくりを、そして、食べることを愛した。

理想の食卓を実現するため、
家族や料理人に、材料や調理法を厳しく指示し、
美味しいタルトを目当てに小旅行を企画することもあった。

「例のジロール茸のレシピを送ってもらえると嬉しいのですが。
 今ちょうどこのキノコがたくさん生えていて、
 私の中の食いしん坊が、あなたにレシピを聞けと催促するのです」

友人の家で気に入った料理と出会えば、モネは手紙で
作り方をたずね、6冊にも及ぶレシピノートを残した。

夕食はいつも19時半。
食事の時間を知らせる銅鑼(どら)が鳴らされると、
大家族でテーブルを囲んだ。
モネにとって、一日のうちの至福のひとときだったに違いない。


お腹がすいてきた⑦ 高峰秀子

早春の味の楽しみは、「蕗の薹(ふきのとう)」のホロ苦さに始まる。

とはじまる女優・高峰秀子のエッセイは、読んでいるだけで美味しそう。

ぐらぐらと煮え立つお湯に多めの塩をふり、蕗の薹を入れ、
サアーッと緑が冴えるのを見る。茹で上がったら水でさらして
こわれないようにそうっと絞る。あとは、酒とみりんと薄口醤油に
だし汁を加えて、ふんわりと煮るだけ。お椀に3個ほど盛って
食卓に置けば、さわやかな匂いの漂う春のお膳の出来上がり。

生きている内に、あと何回、蕗の薹に会えることかしら?
ふっと、そんなことを考えながら口に含むと、
ホロ苦さがいっそう身にしみるようだ。

秀子の言葉に、食と人とも、一期一会だということを気づかされる。

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就職先が「嵐」



やっと決まった就職。
でもその就職先がなんと「嵐」ということになり…

という奇想天外なストーリーを書いたのは
岡野草平くんであります。

原稿を読みたい人はこちらの2月6日の記事でどうぞ(玉子)
http://01pk.seesaa.net/

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TCCラジオ部門に出品するCDを自分で焼く

TCC出品用のCDは iTunes でカンタンに焼けます。

まず、iTunesの環境設定をひらいて「詳細」を開きます。
そして「読み込み」の「読み込み方法」を
「AIFFエンコーダ」にします。

それから「設定」を「カスタム」にします。
「カスタム」が開いたら
「サンプルレート」を「44.100KHz」に
「サンプルサイズ」を「16ビット」に
「チャンネル」を「ステレオ」に。

すると、スタジオで焼いたCDとほぼ同じ音質で読み込みます。
あとは「作成」を「オーディオCD」に設定して焼くだけです。

それでも、どうしてもわからない人は
1、近くの人にたずねる
2、近くに詳しい人がいなければ遠くの人に電話する
3、それでもダメならランダムハウスの中山に電話をする

mp3やAACで焼かないように気をつけましょう。
音質が悪くなります。

なお、CDに音声クレジットがないというお問い合わせが多いのですが
そのCDのなかに何が入っているかという表記が完全であれば
音声によるクレジットは必要ありません。
TCC事務局に確認済みです。

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三毛猫AとB




近所に似た柄の三毛猫Aと三毛猫Bがいる。
よく見ると一方は鼻のあたりにも模様がある。
もう一方はない。
鼻に模様のある方が美人で女性らしい顔をしており
表情になんともいえない情感がある。

しかし、遠目や後姿ではほぼ区別がつかない。

まあ、どっちにしろ会えるとうれしいのに変わりはないが
でもでも、どちらかというと美人の方により会いたい…
と、思いつつ
今日もキョロキョロ歩いている(玉子)

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坂本仁 11年02月06日放送


サルヴァトーレ・フェラガモ

世界有数のファッションブランドの創設者、
サルヴァトーレ・フェラガモ。

足を痛めない靴をつくるために大学で解剖学を学び、
その履き心地とデザイン性で多くのハリウッドスターのお気に入りになった。

彼は言う。

美しさに限界はない。
デザインに飽和点はない。
そして靴屋が製品を飾るために使う素材に終わりはない。

サルヴァトーレ・フェラガモ。
画期的な靴をつくるために歩みつづけた人だった。


アンドレ・マルロー

「人間の条件」で知られる作家アンドレ・マルロー。
彼は、机の上で文筆活動をするタイプの作家ではなかった。

スペイン内戦では、共和国派の義勇軍にパイロットとして参加。
第二次大戦ではレジスタンス運動に身を投じ、
その功績を認められ、レジスタンス勲章も受賞している。

危険を顧みず、自らが正しいと思うほうに進んだ人、マルローは言う。

勇気というやつは、生き物なんだ。
だから鉄砲の手入れをするのと同じ理屈で勇気も手入れをしなくてはならないんだ。

勇気はキープすべきもの。
そうマルローは教えてくれる。


ギー・ラリベルテ

カナダのケベックシティの路上でアコーディオンを弾いたり、
ファイアーパフォーマンスをしていた大道芸人は、
いつしか世界有数のエンターテインメント集団の代表になった。
その芸人の名はギー・ラリベルテ。
文化・芸術・アクロバットを融合し独自の芸術表現に高めた
シルクドソレイユをつくった人。

2009年ラリベルテは3500万ドルの費用をかけて
民間人の宇宙旅行者になった。
そのときのことを、
「エンターテイナーの自分にとって素晴らしいショーだった。
 アドレナリンが放出され大いに刺激になった」
と語っている。

多くの人の心を動かすのが得意なギー・ラリベルテは、
自分の心を動かすことにも積極的だ。

さらに国際宇宙ステーションに滞在中の彼の写真を見ると
ピエロの赤い鼻をつけている。
ラリベルテは世界初の宇宙ピエロになって
水資源の大切さを訴えるメッセージを地球に送ったが
そんなときでもみんなを喜ばせることを忘れてはいない。

家族とテレビ電話をしたときも
赤い鼻をつけ、家族を楽しませていた。


マーク・ザッカーバーグ

世界中で5億人が利用する、
ソーシャルネットワーキングシステムFacebookを作った
マーク・ザッカーバーグは現在26歳。

5年前、彼は当時のYAHOO!のCEOテリー・セメルから、
10億ドルでFacebookの事業を買収したいと申し込まれた
ザッカーバーグは次のように語り、その話を断ってしまう。

 値段じゃないんだ。これは僕の赤ん坊なのさ。
 ずっと面倒をみていきたいんだ。
 自分で育てたいんだ。

26歳の若者が育てているFacebookは
まだまだ大きくなりそうだ。


伊東一雄

野茂英雄よりも早くメジャーリーグへの道を切り拓いた人、伊東一雄。

パンチョ伊東の愛称で知られる彼は、
まだ日本人の海外渡航が制限されていた20代の頃から
単身アメリカに渡ってメジャーリーグの試合を観戦。
パリーグの広報部長になってからは
仕事の合間を縫ってはアメリカの球場をまわるのが
趣味だった。

独学で学んだ英語でメジャーリーグの事務局や球場に入り浸り、
ついにはマイナーリーグクラスの選手でも
「パンチョ」の名を知らない者はいないと言われるまでになった。

ちなみにパンチョという愛称は、
メジャーリーグの関係者が親しみを込めてつけたものだという。

パリーグを退職してからは
メジャーリーグの取材活動はいっそう活発になり
プロ野球ニュースではメジャーリーグの解説を受け持った。

メジャーリーグを愛したパンチョ伊藤は、
メジャーリーグに愛された人だった。

癌に倒れたその告別式は
男の涙が多い告別式だったと伝えられている。


今西錦司

動物の生態を研究することから出発して
独自の動物社会学や進化論を提唱した今西錦司。

「ワシは好きなことしかせん」が口癖で、
日本の霊長類学を世界最高レベルまで育て上げた人だった。

晩年、岐阜大学の学長に招かれた際、
今西はこんなことを言って、その依頼を引き受けた。

 そこに山があるから、私は岐阜大学に行くのである。

生態学も動物行動学も
要は自然とそこに棲む生き物と向き合うことだ。
登山家でもあった今西は岐阜の山々が好きだったらしい。


清水幾太郎

「私はあなたの意見に反対だ」より、
「違う考え方もあるよね」と言うほうが、
目の前にいる人の意見を変えることができる。

戦後を代表する社会学者の清水幾太郎は、
著書「論文の書き方」で次のように語る。

無闇に烈(はげ)しい言葉を用いると、
言葉が相手の心の内部へ入り込む前に爆発してしまう。
言葉は相手の心の内部へ静かに入って、
入ってから爆発を遂げた方がよいのである。

彼の慎ましい言葉で書かれた数々の著作を読むと、
彼の言いたいことが心の内部に静かに入って伝わってくる。


小島秀夫

ピカソがゲルニカを描いたように、
そして、ジョンレノンがイマジンをつくったように、
小島秀夫はメタルギアソリッドをつくった。

反戦・反核のメッセージが込められたメタルギアソリッドシリーズは、
全世界で2700万本以上を売り上げた。
第3作のメタルギアソリッドはアメリカフォーチュン誌から
「20世紀最高のシナリオ」とまで賞賛されている。

ゲームデザイナー小島秀夫は言う。

ゲームは単なる暇つぶしの剣玉であってはならない。
消費したプレイ時間分の見返りが、
ユーザーの人生に還元されるモノが、
何かしら内包されていなければならない、と。

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佐藤延夫 11年02月05日放送


遠い春/石田波郷(いしだはきょう)

大正生まれの俳人、石田波郷は、
病室の窓から外を眺めていた。
昭和42年のことだ。
戦争で体を悪くしたあとは、
病気と付き合いながら数々の句を詠んだ。

   春雪三日 祭の如く 過ぎにけり
   (しゅんせつみっか まつりのごとく すぎにけり)

関東地方では、真冬よりも春先に雪が降る。
水分を多く含んだ牡丹雪で、
地面に触れた途端、はかなく消えてしまう。
残るのは、祭りのあとのような寂しさだけで。

立春を過ぎても、春はまだ遠い。


遠い春/宇佐美魚目(ぎょもく)

岐阜の郡上八幡(ぐじょうはちまん)は、
長良川と吉田川、小駄良川(こだらがわ)の
3つの川に挟まれた小さな城下町だ。

ここには宗祇水(そうぎすい)という湧水の名所があり、
全国名水百選の第一番に選ばれている。

大正生まれの俳人、宇佐美魚目は
父を亡くしたあと郡上八幡を訪れ、六つの句を詠んだ。

   なお寒く 水菜浮きをり 宗祇(そうぎ)の井

奥美濃の早春。
水と風、心の中も、まだ寒々としている。


遠い春/加藤楸邨(しゅうそん)

長生殿(ちょうせいでん)、福徳、いがら饅頭というのは
金沢の代表的な和菓子であり、
明治時代の俳人、加藤楸邨もこの菓子を愛した。

母の故郷、金沢に住み始めたのは16歳のとき。
雪の降りしきる中、母が食べさせてくれた
いがら饅頭の味は、生涯忘れなかったそうだ。

   いがら饅頭 黄なり雪ふる 母の国
   (いがらまんじゅう きなりゆきふる ははのくに)

楸邨が詠む金沢の冬は、包まれるように深く優しい。


遠い春/松本たかし

愛知県の蒲郡は、文人たちに愛された土地だ。
高浜虚子も志賀直哉も、
穏やかな三河の海が好きだった。

明治生まれの俳人、松本たかしは
立春を過ぎたばかりのある日、
宿泊したホテルの庭で小さな発見をした。

   暖房の 外の日向の 梅早し

ぽかぽかした陽射しの中、
もう梅の花が咲いている。

三河湾にぽつんと浮かぶ竹島と
遠くにかすむ知多半島、渥美半島を眺めたら、
また言葉が生まれてきた。

   夕霞む 桃色の海 紺の島

色とりどりの風景に染まる蒲郡には、
ひと足早い春がやってくるのかもしれない。


遠い春/臼田亜浪(うすだあろう)

漂泊の旅人と呼ばれる俳人、臼田亜浪。
自然とのやりとりの中で
独自の世界をつくりあげた。

信州小諸に生まれた亜浪は
折に触れ故郷に戻り、句を詠んだ。

  雪散るや 千曲の川音(かわと) 立ち来たり

目を閉じると、木々に積もった雪が崩れ、
千曲川の流れが耳に飛び込んでくる。
それが幼き日の思い出の音だった。

あなたの故郷の音は、何ですか?


遠い春/飯田龍太

俳人、飯田蛇笏の四男として生まれた飯田龍太は、
父親のように俳句の世界に入った。
父親のように山梨を愛し、
ふるさとの情景を言葉にした。

  雪の日暮れは いくたびも読む 文(ふみ)のごとし

いとおしい時間は、
しんしんと降る雪のように
ゆっくりと流れていく。


遠い春/秋元不死男(ふじお)

伊豆の風景。

山葵田(わさびだ)の清らかな水。
青く光る滝壷。
つづら折りの峠道。

そしてシダ植物のひとつ、ハイコモチシダは
別名ジョウレンシダとも呼ばれ、
本州では伊豆、浄蓮の滝付近で自生が確認されている。

明治生まれの俳人、秋元不死男は
この場所がたいそう気に入ったようで
何度も訪れ、多くの句を残している。

これは昭和49年2月11日の作。

   葛折の 東風の峠に 影日向
   (つづらおりの こちのとうげに かげひなた)

秋元不死男は語る。
俳句とは、ものに執着し、もので終わる、沈黙の文芸である。

そのとおり、早春の伊豆天城には、ものたちの優しい光が溢れている。

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いじめっこの猫



この猫はいじめっこで飼い主もちょっと困っているらしい。
欲しがるときに餌をあげないともう一匹の猫をいじめる。
出たがるときに出さないとやはりもう一匹をいじめる。
出たらこんどは外の猫をいじめる。

しかも堂々8kgの巨体なのだ。
年齢は2歳。
若くて強いが猫としての分別がつくにはもう少しかかる。

この猫が15歳くらいになったときの姿を
見てみたいな〜(玉子)

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ごめんね、ほうさい。

咳をしたら あったかくして寝なさいと 卵酒

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