幕末の人々/ヘボン
明治時代に、ヘボン式ローマ字を作った
アメリカ人宣教師、
ジェームス・カーティス・ヘボン。
医者でもあった彼は、
一切の報酬を受け取ることなく
私財を投じて患者の治療にあたった。
多いときでは一日で百人の診察をしたそうだ。
もともとヘボンの専門は、眼科。
それにもかかわらず、
直腸炎、脳水腫の手術まで
やってのけたというから恐れ入る。
のちに和英辞書の編纂も手掛けるヘボンだが、
彼が日本にやってきてすぐに覚えた言葉は、
アブナイ
コラ
シカタガナイ
という3つの言葉だったという。
最後の一言は、いかにも日本人らしい。
幕末の人々/若尾逸平(わかおいっぺい)
財をなすには機を逃さぬこと。
そう教えてくれるのは、
幕末の商人、若尾逸平だ。
40里も離れた甲州と江戸を何度も往復し
桃、葉煙草、真綿を運んでいたが、
黒船来航の噂を聞くと、外国人との商売に目をつける。
生糸や真綿が売れるとわかれば真っ先に買い占め、
地元の鉱山で捨てられていた水晶の屑石も売り捌いた。
そして稼いだ1500両。
いつの間にか、水晶大尽と呼ばれるようになる。
ビジネスチャンスは、道端に転がっていた。
幕末の人々/岸田吟香(きしだぎんきょう)
幕末の横浜。
そこはまだ発展途上の街であり、
道は舗装などされていなかった。
風が吹くと土埃や馬糞が舞い上がり、
人々は目の病に苦しんだという。
幕末の事業家、岸田吟香もそのひとり。
横浜で名医と評判の宣教師、ヘボンの治療を受ける。
ところがヘボンは、吟香をひと目見るなり、
助手にならないかと持ちかけた。
のちにヘボンから与えられたのは、目薬の処方箋だった。
硫酸亜鉛を主成分とするこの薬を
「精錡水(せいきすい)」と名付け売り出したところ、
日本初の点眼薬として一躍評判になった。
岸田吟香は新聞の創始者として名を馳せたが、
商品を宣伝する方法にも創意工夫を見せた。
錦絵を用いたポスター広告、
新聞では初めてとなる連載広告、
架空の読者の質問に答える手法など、
広告プランナーとしても一流だったようだ。
幕末の人々/堤磯右衛門(つつみいそえもん)
人生の分岐点は、
どこで待ちかまえているかわからない。
江戸時代末期のこと。
堤磯右衛門という男の場合、
運命の瞬間は、油で汚れた手を洗っているときに訪れた。
フランス人の知り合いが渡してくれた四角い物体。
これを使うと、しつこい汚れが魔法のようによく落ちた。
さっそく作り方を聞き出し
磯右衛門は、石鹸の製造を決意する。
大いに感慨する所あり、輸入を防ぎ国益を興すの一端
新たなビジネスを生む原動力は、感動にあり。
幕末の人々/中川嘉兵衛(なかがわかへえ)
商売の才能とは、
目先の金勘定だけではない。
時代の先を読むこと。
いつだってこの結論に達する。
幕末の商人、中川嘉兵衛は
廃品回収の仕事を足がかりに、
アメリカ人医師の助手、
牛乳販売、イギリス軍の食料調達などに精を出す。
そのうちに、外国人が大量の牛肉や牛乳を消費することに注目した。
そして始めた牛鍋屋は繁盛するのだが、
嘉兵衛はすぐに次の商売に切り替える。
それは、食品の保存用、医療用として必要不可欠な氷の調達だった。
函館、五稜郭の外堀に張られた天然の氷を買い付け、船で横浜に運ぶ。
もちろん港には貯蔵庫を用意し、
道行く人にもコップ一杯八文の値段で売り出した。
横浜の馬車道では、この水欲しさに2時間待ちの行列ができたという。
水の名前は、五稜郭の氷。
その味に感動した九代目市川団十郎は、こんな句を残している。
身に染むや夏の氷のありがたき
ミネラルウォーターは、明治時代にもあった。
幕末の人々/田中平八
相場師というのは、
生まれたときから相場師のようだ。
信濃生まれの商人、田中平八は
わずか14歳で大坂の堂島に乗り込んで
米相場に手を出したという。
彼がのちに巨万の富を築いたのは、生糸相場。
市場で生糸の値が上昇する気配を見極め、
直ちに産地で買い占めを行った。
度胸があり、
駆け引きもうまく、
押し出しもきく。
田中平八が「天下の糸平」と呼ばれるのも
生まれたときから決まっていたみたいだ。
幕末の人々/大谷嘉兵衛(おおたにかへえ)
幕末から明治時代にかけて
多く輸出されたのが、緑茶だった。
横浜には多くの産地から茶葉が集まったが
なにしろ人馬や船で運ぶため、
種類も鮮度も入り乱れる。
うまく調合しないと売り物にはならなかった。
その点、大谷嘉兵衛という商人は、
製茶の技術に秀でていた。
のちに嘉兵衛はアメリカの商社に雇われ、
大坂で茶葉の大量仕入れを命じられる。
わずか3ヶ月で26万8千両。
今でいう百数十億円の買い付けに成功した。
芸は身を助く。そして財を生む。
幕末の人々/快楽亭ブラック
スコットランド生まれの実業家、
ジョン・レディー・ブラックは数々の事業に失敗し、
幕末の日本に流れ着く。
日本では新聞事業に乗り出すが、
商売としては上手くいかなかった。
彼の後を追って来日した息子は、
なぜか芸の世界に身を置いた。
名前は、快楽亭ブラック。
流暢な日本語で話題を集めたものの、
人気は長続きしなかった。
生まれてくる時代が、少し早かったのだろうか。