生き物のはなし/大根常雄さん
海の命を恵みとして受け取る仕事。それが漁師。
石川県の漁師、大根常雄(おおね つねお)さんは、
無数の生き物たちを抱える能登の海について、こう語る。
海はちゃんとうめえようになっとる。
ここは恵まれたいい海よ。
船を下りても、年寄りはみんな海を見に、毎日きとるわ。
人間もまた、海に育てられる生き物のひとつのようです。
生き物のはなし/大根常雄さん
海の命を恵みとして受け取る仕事。それが漁師。
石川県の漁師、大根常雄(おおね つねお)さんは、
無数の生き物たちを抱える能登の海について、こう語る。
海はちゃんとうめえようになっとる。
ここは恵まれたいい海よ。
船を下りても、年寄りはみんな海を見に、毎日きとるわ。
人間もまた、海に育てられる生き物のひとつのようです。
生き物のはなし/野毛山動物園の飼育員たち
横浜市にある野毛山動物園には
いっぷう変わった場所がある。
その名も、「しろくまの家」。
名前のとおり
しろくまが暮らしているのか、と思いきや
そこには何の姿もない。
そして入口には、こんな文字。
みなさんもホッキョクグマになったつもりで、
また飼育係になったつもりで探検してみましょう。
そう、ここはかつてしろくまが暮らしていた家。
飼育員さんたちはそこをお客さんに開放して、
自由に見てもらえるようにしたのだ。
しろくまがいたのと同じ場所に立って
景色を眺める人もいれば、写真を撮り合う人もいる。
それはとっても明るい光景。
飼育員さんたちのはからいで
「しろくまの家」は、今も変わらず
お客さんのいい顔であふれている。
湯川秀樹の衝撃
1949年。
あるニュースに
日本中が狂喜した。
日本人の物理学者が初めて
ノーベル賞を受賞したという。
敗戦ですべてを失ったこの国に
彗星のごとく現れたニューヒーロー。
彼のもとに押し掛けた
信じられない数の報道陣の中から
一人の記者がたずねた。
「賞金で何を買いますか」
彼はにやりと笑ってこういった。
「まずは子どもにグローブでも
買うてやりましょうか」
湯川秀樹。
その軽妙な受け答えはまぎれもなく
ニューヒーローの誕生であった。
少年、湯川秀樹
物理学者、湯川秀樹の
少年時代はというと。
内気で無口で
友だちはほぼいない。
算数が得意で鉄棒が苦手。
納得がいかないと「言わん」と
押し黙ってしまうその頑固さから、
ついたあだ名は「イワンちゃん」。
ノーベル賞のような晴れ舞台など
クラスの誰も想像しなかった。
それから30年。
スウェーデンでの授賞式、
壇上に立ち流暢な英語でスピーチをする彼は
もう内気で無口な少年ではなかった。
ただどんなに結果が出なくても
あきらめなかった頑固さは
「イワンちゃん」のままだった。
湯川秀樹と家系
湯川秀樹が中学生の頃。
湯川の父は息子の進路について
悩んでいた。
一家は代々学者の家系。
子供たちも当然学者にするべく育ててきた。
しかしこの三男、秀樹に関しては、
成績もぱっとせず、記憶力もよくない。
いっそのこと専門学校にやり
手に職をつけさせた方が
子どものためなのではないか。
河原町通りを悶々と歩いていると
秀樹の中学校の校長にばったり出会う。
校長は即座に言った。
「あの少年ほどの才能は滅多にない。
わたしの養子にしたいくらいだ」
そしてめでたく秀樹は学者の道を歩む。
そのとき父が校長に会わなければ
危うく自動車工になっていたかもしれない。
湯川秀樹と奥さん
湯川秀樹の妻、スミさん。
彼女は研究室の誰もが手を焼く気難しい夫を
いとも簡単にあやつる術を身につけている。
研究が上手くいかず
いらいらして帰ってきた時には
だまって熱燗をさしだす。
かと思えば
「日本人はノーベル賞をとれないんですかね」
と無邪気に言ってみせ、夫の尻をたたく。
夫の力学はどの方程式より
単純で明快だということを
スミさんは知っている。
湯川秀樹とノルマ
ノーベル賞を受賞するほどの研究といえば
幾十年もの苦難を想像するが
湯川秀樹の場合はそうではなかった。
彼が何年もかかずらっていたテーマは
あまりに壮大で難解であったため
研究は遅々として進まず
担当教授から「論文はまだかね」と
催促される日々。
研究員という職業柄、
とにかく何か書かなければ
お給料がもらえない。
焦った湯川秀樹は
とりあえず別のテーマで一本書き
当座をしのごうと考えた。
それがまんまと
当たった。
だから人生はおもしろい。
学者とはロマンチストな生き物である。
湯川秀樹はこう言う。
「わたしは学者として生きている限り、
見知らぬ土地の遍歴者であり、
荒野の開拓者でありたい。」
知識や才能はもちろんだが
夢を見続けられるかどうかが
もっとも大切。
学者とはロマンチストな生き物である。
湯川秀樹の研究所
1953年。
湯川秀樹のノーベル賞を記念して
京都大学に「基礎物理学研究所」が
つくられた。
もともと湯川のためだけの研究所だったが
せっかくなら若い研究者たちが集える場所にしたいと
湯川は考えた。
学外でも国外でも
湯川の考え方と反する者も
構わず受け入れる。
大腸菌を飼い始める者でさえ
にこにこと見守っていた。
「好きにやったらええ」
彼は本当に学問を愛していた。
学問を愛する人間を愛していた。
この写真、すごくないですか。
猫好きの皆さん、
五島にくると、
こういうシーンを一日中見られるかもですよ。
よだれでますよ。
でも五島に行けないって人は、
この五島在住写真家のページ見てみませんか。
ポストカードが買えるのだとか。
郵送もありとのことなので
興味のあるかたは問い合わせて見てください。
このほかの写真とか絵もねー、必見れすよー。
(すみません、上記のURL押したらビュンって移動するようにするにはどうしたらいいのでしょう・・・)
五島は遣唐使が中国大陸へと渡る
その最後の寄港地だった。
つまり、中国からとても近いということになる。
そういうわけで黄砂。
鼻くしゅくしゅ、
目はしょぼしょぼ
やっかいだけど、なにげにこれが、
よい感じの朝の景色を生んだりもして。
いっしょに釣りにいってくれた
クウルさんは
五島の海を知りつくしていて
すっとよいポイントをあけてくれる。
釣ったんじゃなくて、釣らせてもらったんやろうね。
んでも、ずーっと釣りたい魚だったので、
もうなんというか
なんもかんもがいっぺんにふきだすかんじで。
ヒラスズキというんれす。
連休などあってなかなか手がつかなかったVisionのCD焼きと
動画づくりを3週間分イッキにやりました。
うう〜、なかなかの作業量でした。
遅くなりましたが
音声をお聴きになるかたは過去作品も
振り返ってみてくださいね。
なお、今回のBGMはすべからく
ツネオムービープロジェクトの音楽をお借りしています。
ツネオムービープロジェクト:http://tsunechi.seesaa.net/
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