三陸では漁業用ロープが圧倒的に足りなくて復興の壁になっています。
7月15日までに必要です。
フランスの支援者らがロープを新しくつくってでも送ると言ってくれているものの
空輸料金が2000万円を超えることがまた新たなる壁です。
どなたか漁業用ロープを国内で調達できる情報をお持ちではないでしょうか。
五島の皆さん、いかがでしょう。
連絡先 斉藤浩昭Twitter:http://twitter.com/saitohiroaki
三陸では漁業用ロープが圧倒的に足りなくて復興の壁になっています。
7月15日までに必要です。
フランスの支援者らがロープを新しくつくってでも送ると言ってくれているものの
空輸料金が2000万円を超えることがまた新たなる壁です。
どなたか漁業用ロープを国内で調達できる情報をお持ちではないでしょうか。
五島の皆さん、いかがでしょう。
連絡先 斉藤浩昭Twitter:http://twitter.com/saitohiroaki
北原白秋 1
二歳の男の子が
腸チフスにかかり、高熱にうなされた。
忙しい母の代わりに、
乳母がつきっきりで必死に看病した。
男の子の命は助かったけれど、
乳母が腸チフスに感染し、
亡くなった。
自分から出た、凄まじい熱で、
代理の母親を焼き殺してしまった。
いつか、
本当の母親にもそうしてしまうのか…。
母殺しの恐怖とコンプレックスを抱えた男の子、
北原隆吉は、やがて、
北原白秋となる。
北原白秋 2
文学に熱中する息子を
父親はけっして許さなかった。
酒造りの商売を継がせるために、
商業高校に進学させなくてはならない。
文学書を読むことを一切禁じてしまった。
それでも息子は、
石垣のすきまや砂の中に
本をかくして読んだ。
けれども、限界はくる。
父親に無断で卒業間近の中学を退学し、
福岡の柳川の家を出たのだった。
行き先は、東京。
北原白秋、十九歳の旅立ちだった。
北原白秋 3
二十二歳の北原白秋が、
師事する与謝野鉄幹、晶子夫婦を訪ねた。
便所を借りたとき、
信じられないものを見た。
自分たち若手の没原稿が、
落とし紙として箱に積まれていたのだ。
人が心血をそそいた原稿で、
あの夫婦は尻をぬぐっていたのか!
白秋は激しく怒った。
鉄幹に対しては、
ほかの疑惑もふくらんでいた。
若手が身を削って表現した中心部分が、
いつのまにか鉄幹に流用されているのではないか。
もう、冒涜されるのはたくさんだ。
白秋ら7人の若手は
鉄幹が主宰する文学雑誌から
一気に脱退したのだった。
世の中の、
師匠と呼ばれるみなさまへ。
こんな
紙のリサイクルと、表現のリサイクルは
最低です。
つつしみましょう。
北原白秋 4
母の乳は枇杷より温く
柚子より甘し
という出だしから、
母はわが凡て
と結ぶ最終行まで。
北原白秋の詩『母』には、
母の愛を求める情熱が示される。
けれども、白秋には
トラウマがあった。
幼い日、自分の病気が伝染し、
愛する乳母を死なせてしまったトラウマ。
自分の情熱によって、
相手を破滅させてしまうのではないか。
白秋にとって、恋愛の相手もそうだった。
北原白秋 5
明治時代、東京・原宿に
松下俊子という人妻がいた。
その隣りに暮らしていた、
独身、北原白秋。
憧れの美しい人妻と、
新進気鋭のハンサムな詩人。
恋に堕ちないわけがない。
けれど俊子の夫から、姦通罪で告訴され、
逮捕されてしまう。
輝く文壇から、
暗い牢屋の中へ、まっさかさま。
あとで示談が成立し、
二人は正式に結婚することになるが、
事件後の白秋は半狂乱になり、死まで考えたという。
雨は降る降る 城ヶ島の礒に
白秋作詞の『城ヶ島の雨』は、
俊子との新生活を
三浦半島の三崎でおくっていたころのもの。
雨のなかで、
失意と希望が混じり合う。
白秋の心情が浮かぶ。
北原白秋 6
君と見て
一期の別れする時も
ダリアは紅し
ダリアは紅し
不倫スキャンダルの直後、
北原白秋は歌集『桐の花』で
再び評価をえる。
けれど、正式に結ばれた
松下俊子との結婚は長く続かなかった。
自分の情熱は
相手を破滅させてしまうものなのか。
いや自分のほうも
相手に疲れ果てていたのだった。
それは、相手にさめる
という破滅の1種。
もう、ダリアは紅くない。
北原白秋 7
二度失敗した北原白秋の
三度目の正直。
その相手が、
佐藤菊子だった。
童謡『ゆりかごのうた』は、
二人の間に生まれてくる
わが子を思って
作ったとされる。
数々の童謡の傑作をのこした白秋。
菊子夫人の温かい人柄や
2人のこどもに恵まれたことが
動機ともいわれている。
北原白秋 8
青より白。
春より秋。
北原青春より、北原白秋。
白秋とは、
青春の逆の方位、逆の境地を
意味するといわれる。
ものすごく早熟な中学生は、
青春まっただ中で、
自分のペンネームとして
白秋とつけたのだった。
そして晩年に、
青春前の
童謡をたくさん書いた白秋。
五十七歳という若さで亡くなったが、
最期の言葉は、
「ああ素晴らしい」
泡ものの酒として
「人生にできるだけ多くの乾杯を」望むのは思えば当然のことですが
その思えば当然のことにちゃんと気づいて
ここまでのCMにつくりあげる手腕がすごいな〜と思うので
ちょっと紹介してみます。
下が制作者のクレジットです(玉子)
Executive Creative Director: Yoshimitsu Sawamoto
Copywriter: Mayu Taguchi/Sohei Okano/Yuriko Taki
Planner: Mayu Taguchi/Sohei Okano/Yuriko Taki
Account Manager: Ikuko Wakiya/Yoshito Nakagawa
Production Company: DENTSU CREATIVE X Tokyo, JAPAN
Director: Jun Kawanishi
Producer: Tomonori Iida
気になるカンヌの入賞の様子ですが
こちら http://www.01-radio.com/tcs/news
またはこちら http://www.01-radio.com/news でご覧になれます。
本日(2011年6月24日)、
フィルム部門のショートリストが発表されました(玉子)
タツィオ・ヌヴォラーリ① Who is Nuvolari?
ドリフト走行の発明者にして、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリに、
「史上最高のレーシングドライバー」
と言わしめた男、タツィオ・ジョルジオ・ヌヴォラーリ。
彼は1892年イタリアのマントヴァで生まれた。
162cmと小柄ながらその勇猛果敢なレーススタイルから
人は彼を生まれ故郷にちなんで「天翔るマントヴァ人」、
または
「悪魔と契約した男」
と呼んだ。
ヌヴォラーリがフェラーリにもたらした32勝という勝ち星は、
いまだ誰にも破られていない。
タツィオ・ヌヴォラーリ② 1924年 エンツォとのドリフト
ヌヴォラーリのドライビングは独特だった。
頭をハンドルに近付け肘を動かしながら操縦する姿は、
速いが品がない
と評された。そんな彼の天性をいち早く見抜いたのが、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリだ。
1924年のある日、
エンツォはヌヴォラーリに助手席に乗せるよう頼んだ。
ピンチは早くも最初のコーナーで訪れた。
速すぎて曲がれない。このままでは土手に落ちてしまう。
エンツォが最悪の事態を覚悟した瞬間、
テールがなめらかに滑り向きが変わり、車は再びまっすぐ走りだした。
今で言う「ドリフト走行」だが、
当時そんな走り方をするドライバーは誰もいなかった。
驚いたエンツォがヌヴォラーリを見ると、
その横顔は汗一つかいていなかったという。
タツィオ・ヌヴォラーリ③ 1930年 ミッレミリア
イタリア全土を1000マイルに渡って走破する伝説のレース「ミッレミリア」。
1930年、ヌヴォラーリはこのレースにアルファロメオチームとして参戦した。
しかしチームメイトには宿敵アキーレ・バルツィがいた。
資産家の息子、端正なルックス、几帳面で安定したドライビング。
自分とは全てが正反対なバルツィにヌヴォラーリはライバル心を燃やした。
レースは折り返し地点でバルツィがトップ。
チームの勝利を優先した監督はペースを抑え完走を目指すよう
ヌヴォラーリに指示を出す。
しかしそんな指示を素直に受け入れるヌヴォラーリではない。
タイムも完走も関係ない。彼の頭にはバルツィに勝つことしかなかった。
最終区、ついにバルツィを視界にとらえたヌヴォラーリは
スピードを上げ間隔を詰める。それに気づきペースを上げるバルツィ。
猛スピードで闇夜を切り裂いていく二台のヘッドライト。
その時突然、バックミラーからヌヴォラーリのヘッドライトが消えた。
戸惑うバルツィ。後ろを振り返っても何も見えず、
排気音も自分の車の音でかき消され聴こえない。
しめた、ヌヴォラーリのマシントラブルだ!
バルツィが油断してペースを落とした隙に、
その横をヘッドライトを消した車が鮮やかに走り抜けた。
バルツィが気づいた時にはすでに手遅れだった。
彼の眼に映るのは再びヘッドライトを灯して
道路を煌々と照らしてゴールするヌヴォラーリの後ろ姿だった。
タツィオ・ヌヴォラーリ④ 1935年 ドイツグランプリ
1935年ドイツグランプリ。
会場のニュルブルクリンクは40万人の観客で埋め尽くされていた。
世界で最も長く、最も過酷なこのサーキットで優勝することは、
すなわち自国の工業技術の優位を全世界に誇示することである。
そう考えたドイツは膨大な資金を投入、モンスターマシンを開発してきた。
対するイタリアチームは技術力では全く歯が立たず、
マシンの能力差は歴然で、ドイツ勢の優勝を疑う者は一人もいなかった。
レースは終止メルセデスベンツがリード。
それでもヌヴォラーリはアクセルを踏み続け、
神業のようなドリフトを駆使し、全身全霊でハンドルを握り続けた。
残り1周の時点でついに2位にまで浮上するも、
1位のメルセデスのブラウチスチとはまだ30秒もの差があった。
猛烈に追い上げるヌヴォラーリ。必死で逃げるブラウチスチ。
ところが最終コーナー直前、無理なペースアップが災いし、
ブラウチスチのタイヤが破裂。
コーナーから先に飛び出しフィニッシュラインを越えたのは、
ヌヴォラーリの深紅のアルファロメオだった。
マシンを降りたヌヴォラーリは、
イタリア国旗を買って来い!
と叫んだ。自国の勝利を確信していたドイツは、
国旗はおろか、
イタリア国歌のレコードすら用意していなかったのだ。
その日流れたイタリア国歌は
自らの勝利を信じ続けたヌヴォラーリが持参した
レコードによるものだった。
タツィオ・ヌヴォラーリ⑤ 1936年 ヴァンダービルトカップ
アメリカ最古の国際レース「ヴァンダービルトカップ」。
この1936年の参戦にあたりヌヴォラーリは迷っていた。
最愛の息子ジョルジュが長期入院中だったのだ。
悩んだ末彼は
これまでに無い大きな 優勝カップを持って帰ってくるよ
と旅立った。
結果、彼は2位に大差をつけて優勝を果たす。
優勝カップは体が丸ごと入るほど大きかったと言う。
翌年再び参戦の依頼を受けたが、ジョルジュの病は更に重くなっていた。
しかし父親が誰よりもレースを愛していることを知っている息子は、
勝ってきて
と懇願。その最後の頼みを叶えるため
ヌヴォラーリはニューヨーク行きの船に乗る。
渡米後のある晩、食事中に小さな紙が差し出された。
ジョルジュが息を引き取ったとの連絡だった。
タツィオ・ヌヴォラーリ⑥ 1950年 最後のレース
ある日イタリアの自動車ライター、
ジョヴァンニ・カネストリーニがヌヴォラーリにこんなことを尋ねた。
君はいつレースから引退するつもりなんだい?
するとヌヴォラーリは怒って答えた。
俺がレースをやめるよりも、君がレースの記事を書かなくなる方が先さ
事実、彼は現代でも信じられない年齢で現役を続けていた。
1948年には56歳でフェラーリチームに起用、
1950年にはシシリーで行われたヒルクライムレースでクラス優勝を飾る。
しかしこの時すでに病が彼の体を蝕んでいた。
どんな車でも意のままに操った私が、自分の体をコントロールできないとはな
激しい咳の発作や吐血に襲われ、
このレースを最後にヌヴォラーリが二度とコースを走ることはなかった。
タツィオ・ヌヴォラーリ⑦ 1953年 ベッドの上で
不世出の天才レーサータツィオ・ヌヴォラーリは、
1953年8月11日、自宅のベッドの上で
ユニフォーム姿で埋めてくれ
と妻に言い残し息を引き取った。
「TN」のイニシャルの入った黄色いシャツと淡い青色のズボン、
襟には縁起をかついでつけていた亀のブローチ。
その裏には友人の詩人ガブリエーレ・ダヌンツィオから贈られた
忠実な機械の力を極限まで駆使し、
勝利への道に横たわる死の陰に最後までその生命を与えぬ者
というメッセージが彫られていた。
また墓碑には牧師が新約聖書から引用した
天国にあっても汝は速く走らん
の文字が彫られた。
文字通り人生を駆け抜けたヌヴォラーリらしいひと言であった。
1 友達について パリス・ヒルトン
洋服を選ぶときに、
ダサいのとオシャレなのを2つ選ぶの。
それで、友だちに聞くのよ。
「どっちがいい?」って。
それで、ダサいほうを選んだ人とは、
関係を絶つの。
つねに世界を騒がせるセレブ・
パリス・ヒルトンが、
ある時、そんなことを言ったという。
(自分のセンスを疑わない。)
彼女の生き方は、ここまでくると、潔い。
2 友達について 糸井重里
わざわざ口にはしないけれど、
記憶のどこかにしまってある。
そういうことを、糸井重里さんは
風がふくように、さらりとついてくる。
彼のつぶやき本から、
こんな言葉を見つけた。
冬の教室の、日だまりでのむだ話を、
いまの時代でも、
中学生や高校生たちはやっているのだろうか?
オレンジ色の光につつまれた放課後、
なんであんなに話すことがあったんだろうと
不思議なくらい、毎日だらだらしゃべっていた
あの頃がよみがえった。
糸井さんは言う。
大事なことは、ただひとつなのだ。
それは、「ともだちであること」だけなのだ。
3 友達について 山口瞳と向田邦子
1980年、直木賞、選考会。
はじめて選考委員になった、山口瞳は
先輩作家たちの前で思いきって、言った。
向田邦子はもう、51歳なんですよ。
そんなに長くは作家として
書き続けられないんですよ。
選考委員は一同、驚いた。
え?50代?もっと若く見えるぞ?
上手いけど、小味だ、
小説家としては、駆けだしだ、
という一部の反対がふっとゆらいで
向田は、直木賞を受賞した。
山口は受賞の記者会見で、
向田邦子さんは私より小説が上手です、
と笑いをとった。でも、本心だった。
その後も、彼女におせっかいなアドバイスを続けた。
例えばこんな風、「あ・うん?そんなのダメだ。
タイトルは一度でおぼえられる簡単なものにしろ」
そのたびに、向田は微笑みながら聞いていた。
向田邦子が、飛行機事故にあった通夜のあと
山口瞳は仲間と軍歌、「戦友」を歌った。
気づいたらひとりで、声をはりあげて歌っていた。
モノを書く、という戦いを生き抜く。
そういう覚悟でふたりは結ばれていたのだ。
4 友達について やなせたかし
アンパンマンの作者、
やなせたかしは言った。
ぼくらはしょせん
罪の子で
完全なひとはひとりもいない
もしいたとすれば友にしたくない
アンパンマンは、こげたマントで、
自分の顔を食べさせては、パワー不足で失速して、
なんだか、少しかっこわるい。
けれど、決してくじけない。
そうして、彼は
「子どもたちのヒ―ロ―」ではなくて、
ともだちになっていったんだ。
5 友達について 金田一京助と石川啄木
言語学者・金田一京助と石川啄木は
10代の頃からともに文学の道を志した友人だった。
金田一が文学の道をあきらめたのは、
言語学に情熱が移った一方で、
啄木にかなわないと思ったためとも言われている。
なかなか売れない啄木のために
資金援助を続けた金田一だったが、
自分だってあまり裕福なわけではない。
あるときなどは、命の次に大切にしていた
愛蔵書をまるごと売り払って、啄木への援助金とした。
本当は、本への未練があったのだが、
その金で昼間から啄木といっしょにビールを飲み、
お互いの門出を陽気に祝ったのだという。
啄木は生来の我儘と浪費癖から、
多くの友人を失った。
金田一とももちろんケンカをした。
しかし啄木が亡くなる前に真っ先に枕元に呼んだのも、
真っ先に駆け付けてくれたのも、金田一京助だった。
金田一は、晩年、
啄木とのおかしな友情についてよく語った。
特に好んだのが、昼下がりにふたりで飲んだ
ビールの話しだったという。
6 友達について ジャイアン
お前のものは、俺のもの。
俺のものも、俺のもの。
この有名なセリフが生まれたときの話を
ご存知だろうか。
それは小学校の入学式の朝。
のび太がうっかり無くしてしまったランドセルを
ジャイアンは泥だらけになるのも構わず、
必死になって取り戻してくれた。
驚きと喜びで泣いてしまったのび太に
ジャイアンは照れ隠しであの名台詞を言ったのだった。
お前のものは、俺のもの。
俺のものも、俺のもの。だろ?
7 友達について ゲーテ
ドイツの文豪、ゲーテは言った。
空気と光と、そして友達の愛。
これだけが残っていれば、気を落とすことはない。
気づけばみんな、カタチがない。
気づけばみんな、お金で買えない。
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