タツィオ・ヌヴォラーリ① Who is Nuvolari?
ドリフト走行の発明者にして、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリに、
「史上最高のレーシングドライバー」
と言わしめた男、タツィオ・ジョルジオ・ヌヴォラーリ。
彼は1892年イタリアのマントヴァで生まれた。
162cmと小柄ながらその勇猛果敢なレーススタイルから
人は彼を生まれ故郷にちなんで「天翔るマントヴァ人」、
または
「悪魔と契約した男」
と呼んだ。
ヌヴォラーリがフェラーリにもたらした32勝という勝ち星は、
いまだ誰にも破られていない。
タツィオ・ヌヴォラーリ② 1924年 エンツォとのドリフト
ヌヴォラーリのドライビングは独特だった。
頭をハンドルに近付け肘を動かしながら操縦する姿は、
速いが品がない
と評された。そんな彼の天性をいち早く見抜いたのが、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリだ。
1924年のある日、
エンツォはヌヴォラーリに助手席に乗せるよう頼んだ。
ピンチは早くも最初のコーナーで訪れた。
速すぎて曲がれない。このままでは土手に落ちてしまう。
エンツォが最悪の事態を覚悟した瞬間、
テールがなめらかに滑り向きが変わり、車は再びまっすぐ走りだした。
今で言う「ドリフト走行」だが、
当時そんな走り方をするドライバーは誰もいなかった。
驚いたエンツォがヌヴォラーリを見ると、
その横顔は汗一つかいていなかったという。
タツィオ・ヌヴォラーリ③ 1930年 ミッレミリア
イタリア全土を1000マイルに渡って走破する伝説のレース「ミッレミリア」。
1930年、ヌヴォラーリはこのレースにアルファロメオチームとして参戦した。
しかしチームメイトには宿敵アキーレ・バルツィがいた。
資産家の息子、端正なルックス、几帳面で安定したドライビング。
自分とは全てが正反対なバルツィにヌヴォラーリはライバル心を燃やした。
レースは折り返し地点でバルツィがトップ。
チームの勝利を優先した監督はペースを抑え完走を目指すよう
ヌヴォラーリに指示を出す。
しかしそんな指示を素直に受け入れるヌヴォラーリではない。
タイムも完走も関係ない。彼の頭にはバルツィに勝つことしかなかった。
最終区、ついにバルツィを視界にとらえたヌヴォラーリは
スピードを上げ間隔を詰める。それに気づきペースを上げるバルツィ。
猛スピードで闇夜を切り裂いていく二台のヘッドライト。
その時突然、バックミラーからヌヴォラーリのヘッドライトが消えた。
戸惑うバルツィ。後ろを振り返っても何も見えず、
排気音も自分の車の音でかき消され聴こえない。
しめた、ヌヴォラーリのマシントラブルだ!
バルツィが油断してペースを落とした隙に、
その横をヘッドライトを消した車が鮮やかに走り抜けた。
バルツィが気づいた時にはすでに手遅れだった。
彼の眼に映るのは再びヘッドライトを灯して
道路を煌々と照らしてゴールするヌヴォラーリの後ろ姿だった。
タツィオ・ヌヴォラーリ④ 1935年 ドイツグランプリ
1935年ドイツグランプリ。
会場のニュルブルクリンクは40万人の観客で埋め尽くされていた。
世界で最も長く、最も過酷なこのサーキットで優勝することは、
すなわち自国の工業技術の優位を全世界に誇示することである。
そう考えたドイツは膨大な資金を投入、モンスターマシンを開発してきた。
対するイタリアチームは技術力では全く歯が立たず、
マシンの能力差は歴然で、ドイツ勢の優勝を疑う者は一人もいなかった。
レースは終止メルセデスベンツがリード。
それでもヌヴォラーリはアクセルを踏み続け、
神業のようなドリフトを駆使し、全身全霊でハンドルを握り続けた。
残り1周の時点でついに2位にまで浮上するも、
1位のメルセデスのブラウチスチとはまだ30秒もの差があった。
猛烈に追い上げるヌヴォラーリ。必死で逃げるブラウチスチ。
ところが最終コーナー直前、無理なペースアップが災いし、
ブラウチスチのタイヤが破裂。
コーナーから先に飛び出しフィニッシュラインを越えたのは、
ヌヴォラーリの深紅のアルファロメオだった。
マシンを降りたヌヴォラーリは、
イタリア国旗を買って来い!
と叫んだ。自国の勝利を確信していたドイツは、
国旗はおろか、
イタリア国歌のレコードすら用意していなかったのだ。
その日流れたイタリア国歌は
自らの勝利を信じ続けたヌヴォラーリが持参した
レコードによるものだった。
タツィオ・ヌヴォラーリ⑤ 1936年 ヴァンダービルトカップ
アメリカ最古の国際レース「ヴァンダービルトカップ」。
この1936年の参戦にあたりヌヴォラーリは迷っていた。
最愛の息子ジョルジュが長期入院中だったのだ。
悩んだ末彼は
これまでに無い大きな 優勝カップを持って帰ってくるよ
と旅立った。
結果、彼は2位に大差をつけて優勝を果たす。
優勝カップは体が丸ごと入るほど大きかったと言う。
翌年再び参戦の依頼を受けたが、ジョルジュの病は更に重くなっていた。
しかし父親が誰よりもレースを愛していることを知っている息子は、
勝ってきて
と懇願。その最後の頼みを叶えるため
ヌヴォラーリはニューヨーク行きの船に乗る。
渡米後のある晩、食事中に小さな紙が差し出された。
ジョルジュが息を引き取ったとの連絡だった。
タツィオ・ヌヴォラーリ⑥ 1950年 最後のレース
ある日イタリアの自動車ライター、
ジョヴァンニ・カネストリーニがヌヴォラーリにこんなことを尋ねた。
君はいつレースから引退するつもりなんだい?
するとヌヴォラーリは怒って答えた。
俺がレースをやめるよりも、君がレースの記事を書かなくなる方が先さ
事実、彼は現代でも信じられない年齢で現役を続けていた。
1948年には56歳でフェラーリチームに起用、
1950年にはシシリーで行われたヒルクライムレースでクラス優勝を飾る。
しかしこの時すでに病が彼の体を蝕んでいた。
どんな車でも意のままに操った私が、自分の体をコントロールできないとはな
激しい咳の発作や吐血に襲われ、
このレースを最後にヌヴォラーリが二度とコースを走ることはなかった。
タツィオ・ヌヴォラーリ⑦ 1953年 ベッドの上で
不世出の天才レーサータツィオ・ヌヴォラーリは、
1953年8月11日、自宅のベッドの上で
ユニフォーム姿で埋めてくれ
と妻に言い残し息を引き取った。
「TN」のイニシャルの入った黄色いシャツと淡い青色のズボン、
襟には縁起をかついでつけていた亀のブローチ。
その裏には友人の詩人ガブリエーレ・ダヌンツィオから贈られた
忠実な機械の力を極限まで駆使し、
勝利への道に横たわる死の陰に最後までその生命を与えぬ者
というメッセージが彫られていた。
また墓碑には牧師が新約聖書から引用した
天国にあっても汝は速く走らん
の文字が彫られた。
文字通り人生を駆け抜けたヌヴォラーリらしいひと言であった。