佐藤理人 11年6月25日放送
タツィオ・ヌヴォラーリ① Who is Nuvolari?
ドリフト走行の発明者にして、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリに、
「史上最高のレーシングドライバー」
と言わしめた男、タツィオ・ジョルジオ・ヌヴォラーリ。
彼は1892年イタリアのマントヴァで生まれた。
162cmと小柄ながらその勇猛果敢なレーススタイルから
人は彼を生まれ故郷にちなんで「天翔るマントヴァ人」、
または
「悪魔と契約した男」
と呼んだ。
ヌヴォラーリがフェラーリにもたらした32勝という勝ち星は、
いまだ誰にも破られていない。
タツィオ・ヌヴォラーリ② 1924年 エンツォとのドリフト
ヌヴォラーリのドライビングは独特だった。
頭をハンドルに近付け肘を動かしながら操縦する姿は、
速いが品がない
と評された。そんな彼の天性をいち早く見抜いたのが、
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリだ。
1924年のある日、
エンツォはヌヴォラーリに助手席に乗せるよう頼んだ。
ピンチは早くも最初のコーナーで訪れた。
速すぎて曲がれない。このままでは土手に落ちてしまう。
エンツォが最悪の事態を覚悟した瞬間、
テールがなめらかに滑り向きが変わり、車は再びまっすぐ走りだした。
今で言う「ドリフト走行」だが、
当時そんな走り方をするドライバーは誰もいなかった。
驚いたエンツォがヌヴォラーリを見ると、
その横顔は汗一つかいていなかったという。
タツィオ・ヌヴォラーリ③ 1930年 ミッレミリア
イタリア全土を1000マイルに渡って走破する伝説のレース「ミッレミリア」。
1930年、ヌヴォラーリはこのレースにアルファロメオチームとして参戦した。
しかしチームメイトには宿敵アキーレ・バルツィがいた。
資産家の息子、端正なルックス、几帳面で安定したドライビング。
自分とは全てが正反対なバルツィにヌヴォラーリはライバル心を燃やした。
レースは折り返し地点でバルツィがトップ。
チームの勝利を優先した監督はペースを抑え完走を目指すよう
ヌヴォラーリに指示を出す。
しかしそんな指示を素直に受け入れるヌヴォラーリではない。
タイムも完走も関係ない。彼の頭にはバルツィに勝つことしかなかった。
最終区、ついにバルツィを視界にとらえたヌヴォラーリは
スピードを上げ間隔を詰める。それに気づきペースを上げるバルツィ。
猛スピードで闇夜を切り裂いていく二台のヘッドライト。
その時突然、バックミラーからヌヴォラーリのヘッドライトが消えた。
戸惑うバルツィ。後ろを振り返っても何も見えず、
排気音も自分の車の音でかき消され聴こえない。
しめた、ヌヴォラーリのマシントラブルだ!
バルツィが油断してペースを落とした隙に、
その横をヘッドライトを消した車が鮮やかに走り抜けた。
バルツィが気づいた時にはすでに手遅れだった。
彼の眼に映るのは再びヘッドライトを灯して
道路を煌々と照らしてゴールするヌヴォラーリの後ろ姿だった。
タツィオ・ヌヴォラーリ④ 1935年 ドイツグランプリ
1935年ドイツグランプリ。
会場のニュルブルクリンクは40万人の観客で埋め尽くされていた。
世界で最も長く、最も過酷なこのサーキットで優勝することは、
すなわち自国の工業技術の優位を全世界に誇示することである。
そう考えたドイツは膨大な資金を投入、モンスターマシンを開発してきた。
対するイタリアチームは技術力では全く歯が立たず、
マシンの能力差は歴然で、ドイツ勢の優勝を疑う者は一人もいなかった。
レースは終止メルセデスベンツがリード。
それでもヌヴォラーリはアクセルを踏み続け、
神業のようなドリフトを駆使し、全身全霊でハンドルを握り続けた。
残り1周の時点でついに2位にまで浮上するも、
1位のメルセデスのブラウチスチとはまだ30秒もの差があった。
猛烈に追い上げるヌヴォラーリ。必死で逃げるブラウチスチ。
ところが最終コーナー直前、無理なペースアップが災いし、
ブラウチスチのタイヤが破裂。
コーナーから先に飛び出しフィニッシュラインを越えたのは、
ヌヴォラーリの深紅のアルファロメオだった。
マシンを降りたヌヴォラーリは、
イタリア国旗を買って来い!
と叫んだ。自国の勝利を確信していたドイツは、
国旗はおろか、
イタリア国歌のレコードすら用意していなかったのだ。
その日流れたイタリア国歌は
自らの勝利を信じ続けたヌヴォラーリが持参した
レコードによるものだった。
タツィオ・ヌヴォラーリ⑤ 1936年 ヴァンダービルトカップ
アメリカ最古の国際レース「ヴァンダービルトカップ」。
この1936年の参戦にあたりヌヴォラーリは迷っていた。
最愛の息子ジョルジュが長期入院中だったのだ。
悩んだ末彼は
これまでに無い大きな 優勝カップを持って帰ってくるよ
と旅立った。
結果、彼は2位に大差をつけて優勝を果たす。
優勝カップは体が丸ごと入るほど大きかったと言う。
翌年再び参戦の依頼を受けたが、ジョルジュの病は更に重くなっていた。
しかし父親が誰よりもレースを愛していることを知っている息子は、
勝ってきて
と懇願。その最後の頼みを叶えるため
ヌヴォラーリはニューヨーク行きの船に乗る。
渡米後のある晩、食事中に小さな紙が差し出された。
ジョルジュが息を引き取ったとの連絡だった。
タツィオ・ヌヴォラーリ⑥ 1950年 最後のレース
ある日イタリアの自動車ライター、
ジョヴァンニ・カネストリーニがヌヴォラーリにこんなことを尋ねた。
君はいつレースから引退するつもりなんだい?
するとヌヴォラーリは怒って答えた。
俺がレースをやめるよりも、君がレースの記事を書かなくなる方が先さ
事実、彼は現代でも信じられない年齢で現役を続けていた。
1948年には56歳でフェラーリチームに起用、
1950年にはシシリーで行われたヒルクライムレースでクラス優勝を飾る。
しかしこの時すでに病が彼の体を蝕んでいた。
どんな車でも意のままに操った私が、自分の体をコントロールできないとはな
激しい咳の発作や吐血に襲われ、
このレースを最後にヌヴォラーリが二度とコースを走ることはなかった。
タツィオ・ヌヴォラーリ⑦ 1953年 ベッドの上で
不世出の天才レーサータツィオ・ヌヴォラーリは、
1953年8月11日、自宅のベッドの上で
ユニフォーム姿で埋めてくれ
と妻に言い残し息を引き取った。
「TN」のイニシャルの入った黄色いシャツと淡い青色のズボン、
襟には縁起をかついでつけていた亀のブローチ。
その裏には友人の詩人ガブリエーレ・ダヌンツィオから贈られた
忠実な機械の力を極限まで駆使し、
勝利への道に横たわる死の陰に最後までその生命を与えぬ者
というメッセージが彫られていた。
また墓碑には牧師が新約聖書から引用した
天国にあっても汝は速く走らん
の文字が彫られた。
文字通り人生を駆け抜けたヌヴォラーリらしいひと言であった。
実は、ラジオのこの番組は聞いた事がありません。
ひょんなことから、もしかして、理人くん?と思い
このサイトを見て、写真を見て確信しました。
小学校1.2年に同じクラスで過ごした後に、
私は家の都合で引越ししました。
私のお誕生会に、何故か十手を持って来てくれたのを
今でも忘れません。
フェラーリの話題でしたね!
私の旦那様は、車大好きで自分もカートのレースで
ヨーロッパに行って、
F3のテストドライバーもやったそうです。
私は免許を持っていませんが、旦那の影響で、
ヨーロッパ車に結構詳しくなりました。
ミッレミニアに出られる(らしい)
FIAT500が我が家の2台目として来て、
クラッシックカーの面白さが、ようやく分かってきました。
理人くん、
全然変わりませんね。
これからも素敵な男性でいて下さいね。