名雪祐平 11年7月31日放送
見る モンドリアン
世界は、最低いくつの色で
あらわせるだろうか。
オランダの抽象画の巨匠、
ピエト・モンドリアンは、
赤・青・黄のみで世界を見ることができた。
三原色と
垂直線と水平線を用いた
徹底的にストイックなスタイル。
あたりまえのように
はめられていた額縁からも、
絵を取り出し、解放した。
見えるこの世界に、
額縁など存在しないのだから。
見る ドガ
フランスの印象派の天才、
エドガー・ドガ
特にバレエの踊り子を
好んで描き、
なかでも『エトワール』は傑作とされる。
大胆な構図。
瞬間的な肉体の躍動感。
衣装の絶妙な表情。
奥にはパトロンの姿も描かれ、
シビアな現実も容赦なく表現している。
その絵は、
物の形の見方があり、
社会の形の見方がある、一枚の芸術。
見る アンディ・ウォーホル
ポップアートの鬼才、
アンディ・ウォーホルは、
機械になりたい。
と言った。
アトリエをファクトリーと呼び、
工場の流れ作業のように、
アート作品を大量に生産した。
難解な芸術ではなく、
選んだモチーフも、日常的なもの。
キャンベルスープの缶詰、
コカ・コーラ、
ドル紙幣、
有名人など、
ありふれたものたちが、逆に衝撃的だった。
これはいったい…何なのか。
とまどい、深読みしようとするインタビュアーに、
ウォーホルはこたえた。
表面だけを見てればいい。
それが僕だ。
裏には何もかくされていない。
つまり、
スープは、スープ。
見る マネ
フランス印象派の大スター、
エドゥアール・マネは語った。
不必要なものはすべて、
私に吐き気をおこさせる。
しかし、必要な存在だけを
見るのはむずかしい。
真実を見つけ出す、たった一つの方法は
他人の意見にまどわされずに
己の意志をつらぬくことだ。
なぜ、マネはその思いに至ったのか。
女性のヌードの描き方が不道徳だと
激しい反感を生んだ作品
『草上の昼食』『オリンピア』によって
社会に辟易した末の達観だったのかもしれない。
現在、その2作はまぎれもなく、
傑作と評価されている。
見る イサム・ノグチ
ただの石、
自然のままの石が、
すでにできあがった彫刻なのであると、
彫刻家イサム・ノグチは言う。
しかし、と彫刻家はつづける。
肝心なのは見る観点だ。
どんな物をも、一足の古い靴さえも
彫刻となるものは
その見方と置き方なのである。
それはおそらく、
マルセル・デュシャンが
男性用便器を横に置き、
『泉』と名付けたようなことなのだろう。
ふと、目の前のある物が
彫刻になるだろうかと
あれこれ思考をめぐらせてみるのも
おもしろい。
見方と置き方、
ミカタトオキカタ…
なかなかむずかしいけれども。
見る クレー
芸術の本質は
見えるものをそのまま
再現するのではなく
見えるようにすることにある。
スイスの画家、パウル・クレーの言葉である。
音楽一家に生まれ、
クレー自身も才能あふれるバイオリニストであったため、
たびたび色を音にたとえて、
色彩の理論研究をすすめていた。
たしかに、クレーの『魚たちのまじない』からは、
色の和音が幻想的に聴こえてきそう。
見えないものを見えるようにする、だけでなく、
聴こえるようにする。
クレーはそれができた
唯一の芸術家だったのかもしれない。
見る フランシス・ベーコン
アイルランド出身の孤高の画家、
フランシス・ベーコン
グロテスクな人物画を多く描いた。
歯をむきだし、絶叫する表情。
激しくゆがめられた肉体。
でも、彼は語る。
ぼくの絵は
いまの世界の恐怖にはかなわないよ。
見て学ぶことだ。
なすべきことは
ただひたすらに見ることだけなのだ。
世界で何が起こっているか。
ぼくはただその恐怖を
再現しようとしたんだ。
きっと彼は、
描かずにはいられなかった。
世界の叫びを
代弁するかのように。
見る サヴィニャック
フランスのポスター作家、
レイモン・サヴィニャックが
たいせつにしていたこと。
ポスターは、見られなくてはいけない。
通りを行く人に、ほんの一瞬のうちに、
伝えたいことがわかるかどうか。
そのためにサヴィニャックは
大胆に本質だけを表現した。
薄切りハムのポスターでは、
豚の胴体をそのまま輪切りにしたハムに。
ユーモアたっぷりに一目でわかる。
大絶賛された。
さて。
情報ぎゅう詰めの近ごろ、
気になるポスターはありましたか?