佐藤延夫 11年10月1日放送



最後のことば/太刀川瑠璃子(たちかわるりこ)

戦後を代表するバレリーナ、太刀川瑠璃子さんが
亡くなったのは、3年前のことになります。

終戦直後に見た「白鳥の湖」が、
バレエを始めるきっかけでした。

プリマとして多くの舞台を務めたあと
自らバレエ団を立ち上げ、
日本人として表現できるバレエを探し続けました。

晩年、がんの手術を受けたあと、
こんなことをおっしゃったそうです。

「心の中にあるものをお棺に持っていくのは、もったいない。
 誰か取材してくれないかしら」

悔いのない人生を送った人の言葉は、なにかが違います。



最後のことば/浜口雄幸(はまぐちおさち)

明治生まれの政治家、浜口雄幸さんは
立派な髭をたくわえたその風貌から、
ライオン宰相と呼ばれていました。

料亭政治、いわゆる談合や根回しを嫌い、
正面突破の姿勢を崩さない、
珍しいタイプの政治家だったそうです。

彼は自分の運命を知っていたのか、
こんなことを奥様に話していました。

「途中、何事か起こって倒れるようなことがあっても、
 もとより男子の本懐である。」

そして1930年、浜口さんは暴漢に狙撃され、
その傷がもとで息を引き取りました。

政治家は命懸けの職業だと
体を張って教えてくれた人でした。



最後のことば/坂本繁二郎(さかもとはんじろう)

明治生まれの洋画家、坂本繁二郎さんは、
東京とパリで絵の修業をしたあと、
地元、福岡のアトリエから離れることはありませんでした。

弟子をとることはなく、
教えを乞う者には、「友達になろう」と話しかけたそうです。

その人柄は、最後の言葉にも表れています。
迫りくる死を悟ると、妻と娘にこう語りました。

「ぼくは生涯好きなことをやってきた。
 ほんとうにお世話になったね。」

昨年から、福岡県のJR久留米駅の近くで
坂本繁二郎さんの生家が公開されています。



最後のことば/土光敏夫(どこうとしお)

明治生まれの実業家、土光敏夫さんは
徹底した合理化で会社を再建し、
猛烈な働きぶりから、
荒法師、行革の鬼、と呼ばれました。
モーレツを絵に描いたような人です。
その当時、彼が口癖のように言っていた言葉があります。

「一般社員はこれまでの三倍働け。
 重役は十倍。
 社長の私は、それ以上に働く。」

その後、経団連会長、
臨時行政調査会長といった政府の要職を歴任し、
行政改革の実現を目指しました。

亡くなったのは91歳のとき。老衰でした。
この世を去る前に、こんな言葉を残しています。

「もし、来世に極楽と地獄があるとすれば、
 僕はためらわず地獄行きを望むね」

地獄の釜炊きをしながら、日本の行く末を監視するつもりのようです。
土光さん、今の日本はどのように見えますか。



最後のことば/越路吹雪

シャンソンの女王、越路吹雪さんは
56歳の若さでこの世を去りました。

宝塚歌劇団の男役でスターになり、
退団後はシャンソンのリサイタルやディナーショーに明け暮れる日々。
私生活では、作曲家のご主人と仲睦まじく寄り添っていました。

病気が発覚したのは、1980年のこと。
病床で彼女は、マネージャーにこう話したそうです。

「いっぱい恋をしたし、
 おいしいものも食べたし、
 もういいわ」

生に執着しない心は、
すがすがしい言葉に変わるのでしょうか。



最後のことば/若山牧水

明治生まれの歌人、若山牧水先生は
旅をして歌を詠み、
一日一升の酒を飲む。
そんな生活を続けて肝硬変を患いました。

これは亡くなる前日、吸い飲みでは旨くないと言い、
盃で酒を飲んだときの言葉です。

「ああ、これでこそ酒の味がする」

彼が恐れたのは、病気よりも
酒が飲めなくなることだったようです。



最後のことば/田山花袋

明治生まれの小説家、田山花袋先生は
喉頭がんでこの世を去りました。

それは亡くなる数日前のこと。
友人の島崎藤村が病床に訪れ、
こんな質問をしたそうです。

「この世を辞して行くとなると、どんな気がするかね」

遠慮のない言葉が行き交うのは
親しさの表れなのかもしれませんが、
作家としての客観的な興味を抑えられなかったのかもしれません。

その問いに対して彼は、このように答えています。

「なにしろ、誰も知らない暗いところへ行くのだから、
 なかなか単純な気持ちのものじゃない」

小説家は、去り際まで
何かを知りたい、感じたいと思う職業なのでしょう。

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