2011 年 10 月 8 日 のアーカイブ

五島のはなし(160)

五島の秋レポートです。

毎年好例の「五島ふくえみなとまつり」が開催されたのは先週末のこと。
昼間はパレードが行われたり、
子どもたちがいっしょうけんめい練習してきた出し物を披露したり。

中でも聖マリア保育園の園児による太鼓の演奏はめちゃめちゃ格好よかった。
もうほんと圧巻と言ってよいレベル。

子どもたちが、かぶりつくように出し物を見てました。

夜になると「ねぶた」がでます。
ん?五島がねぶた?とお思いでしょう。
・・・僕も思いますもん。

「うちの島でもさあ祭りとかやんない?」
「北の方でねぶたとか盛り上がってるじゃん」
「じゃあうちもねぶたやる?」
「いいじゃんいいじゃん」

これが僕の想像する五島のねぶたの起源(ほんとはもっとちゃんとした理由あるのかも)。
でもこれがなかなか、わくわくするねぶたなのですよ。

ねぶたは、五島の題材でつくられており、見ていてあきません。
上のは縄文人のクジラ漁がモチーフ。

バラモンやら火消しカッパやら、
五島の伝説をモチーフにしたねぶたたちが次々とやってきます。

この日に向けて、島の子どもたちは毎晩笛や太鼓の練習を重ねてきたんだそうです。

母校、五島高校のブラスバンド行進もありました。
すばらしい演奏でした。
途中とつぜん演奏をやめてみんなで歌を歌い始めたときは、
不意をつかれ泣きそうになりました。

島のあちこちに彼岸花が咲いていました。秋まっさかりです。

涼しくて快適だし、
食べ物もおいしい季節だし、
ビーチはひとりじめできるし、
いま、五島、行きどきだと思いますよ。

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八木田杏子 11年10月8日放送



名和晃平のリアル

アートに正解はないように。
アートの感じ方にも正解はない。

キャプションや解説をほとんど掲示しない
名和晃平の個展は、アートの解釈を解放する。

まずは、できるだけ情報を与えずに、
作家の意図を気にせずに作品にふれてもらう。

出口に辿りつくと、そこで
キャプションが記載された紙をわたして、
もういちど作家の言葉と共に作品を見てもらう。

そうして名和晃平は、
受け手のリアルな感覚を呼び覚ます。

デジタルとアナログの間を揺れ動く
感性のリアリティを表現する
名和晃平ならではの気遣い。



ゴッホを画家にした男

フィンセント・ファン・ゴッホは、
27歳のときに画家になろうと決意する。

画廊に6年勤めていたが解雇され、
教師、伝道師などの職を転々としていたゴッホ。

西洋美術の知識と、
趣味として絵を描いた経験はあっても、
美術教育を受けたことがなく、
才能の片鱗すら見られなかった。

そんなゴッホに、画家になることを
勧めたのは弟のテオだといわれている。

テオは兄に生活費を送り、
創作活動に打ち込めるようにした。

わずか23歳で画廊の支店長をまかされる
テオだけは、兄の才能を見抜いていたのだろうか。



ゴッホと日本

ゴッホは浮世絵に衝撃をうけ、
日本をユートピアとして思い描いた。

彼はこんな言葉を残している。

あらゆることに極限の明瞭さをもつ
日本人を羨ましく思う。
彼らの作品は退屈だということが全くなく、
決して大急ぎでやったようにも見えない。

画商だった弟テオと共に
浮世絵400点を買い集めて
パリのカフェで展示会を開いたゴッホ。

背景を浮世絵で埋め尽くした肖像画を描き、
まばゆい色彩と奇抜な構図を
自らの絵にも取り入れるようになる。

日本人が憧れるパリの芸術家が、
これほど日本に憧れていたとは。



ゴッホの独学

正式な美術教育を受けなかった
フィンセント・ファン・ゴッホは、
独学の画家とみなされている。

遠近法や解剖学の書籍を読み、
著名な芸術家による版画を模写して、
デッサンの訓練を積む。

色彩理論を学び、
力強い色使いを自分のものにする。

感銘をうけた芸術家とふれあい、
思想や画法を取り入れる。

その貪欲さと柔軟さが、ゴッホを進化させていく。

ゴーギャンから
記憶や想像で描くことを勧められると、
ゴッホは椅子だけの肖像画を完成させる。

肘掛つきの優雅な椅子を描くことで、
いつもそこに座っているゴーギャンの人物像を表現した。
ひとの顔を想像させる肖像画を描き上げたのだ。

自ら命を絶つ、その日まで。
ゴッホはデッサンの練習をし、
技法を磨くことで前に進みつづけた。



ゴッホと岡本太郎

麦畑のちかくで
腹部をピストルで撃った、ゴッホ。

息をひきとったのは、その二日後。

煙草をくゆらせて死を待つ間、
ゴッホはやっとつかんだ新しい芸術の世界を、
弟のテオに聞かせていたらしい。

肉体を殺し、
絵を描くことから解放されたときに
初めて達する境地がある。

ゴッホの死に感銘をうけた岡本太郎は、
それでも生きることを選んだ。

行きづまりに追われたら逃げないで、
むしろ自分自身を行きづまりに突っ込んでいく。
強烈に行きづまった自分に闘いを挑んでいくことだ。
行きづまりをこえ、うれしく展開さえてゆくんだ。

生きぬいて、切り拓く。
その覚悟が、岡本太郎の表現を強くする。



北斎の寿命

葛飾北斎は、長寿の画家である。

90歳まで絵を描き続け、
3万点をこえる作品を世に送りだした。

北斎75歳のときに出版された絵本「冨嶽百景」には、
こう記してある。

73歳にして、ようやく禽獣虫魚の骨格や、
草木の生え具合をいささか悟ることができたのだ。
だから、80歳でますます腕に磨きをかけ、
90歳では奥義を究め、100歳になれば、
まさに神妙の域に達するものと考えている。

北斎が画家として生き長らえたのは、
この心持ちがあればこそ。



写楽の寿命

東洲斎 写楽は、わずか1年で姿を消した。

役者を美しく描くのではなく、
役者の本質を描き出そうとした写楽。

目の皺や鷲鼻を強調した顔。
歪むほど捻じ曲げられた手。

芝居の筋と人間の生き様を描写するために
デフォルメされた大首絵は、かつてないものだった。

黒雲母がきらきらと輝く大判の錦絵
28枚とともに写楽は華々しくデビューする。

200年経った今でも高く評価される作品は、
江戸の人々からは好まれなかったようだ。

その後の写楽の作品は、
みるみる強烈な個性を失っていく。
役者を美しく描くありきたりな絵となり、
安い紙に刷られて売られていく。

145点あまりの錦絵を世に送りだして、
姿を消した写楽は、こう語られた。

あまりに真を画かんとして、
あらぬさまにかきしかば、
長く世に行なわれず、
一両年にして止む。

江戸では1年しか生きられなかった写楽は、
200年たった現代を生きている。

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