2011 年 10 月 のアーカイブ

蛭田瑞穂 11年10月9日放送



ジョン・レノン①Power to the People

ジョン・レノンは1940年の10月9日に生まれた。
生きていれば今日、71回目の誕生日を迎える。

ジョンが凶弾に倒れたのは1980年。
その頃はまだ、現在のようなインターネットはなかった。
FacebookもTwitterもYouTubeも、もちろんなかった。

『Power to the People』
『Imagine』
『Happy Xmas(War is Over)』

民衆の団結が世界を変える力になることを信じたジョン・レノン。

もし、ジョンがいまの世界に生きていたら、
どんなメッセージを発するだろう、
どんな行動を起こすだろう、
どんな歌を歌うだろう。



ジョン・レノン②Imagine

1940年10月9日、イギリスのリバプールに生まれたジョン・レノン。

ビートルズの成功により、リバプールという街もまた
世界に知られるようになった。

2002年、リバプールの人々はジョンの功績を讃え、
空港に彼の名前をつけた。

かつて「スピーク空港」と呼ばれていたその空港はいま、
「リバプール・ジョン・レノン空港」と呼ばれている。

空港が掲げるスローガンは“above us only sky”、
「僕らの頭上には空があるだけ」。

それはジョンの代表曲『Imagine』の中の一節である。



ジョン・レノン③Mind Games

1966年、ジョン・レノンは、
ロンドンのインディカ・ギャラリーで開かれた、
あるアーティストの個展に足を運んだ。

ギャラリーの中央に白い脚立がぽつんと置かれていた。
その脚立に登ると、天井から虫眼鏡が吊り下がっている。

ジョンは虫眼鏡を手に取り天井を覗いた。
すると小さな文字で「YES」と書いてあった。

その作品をつくったアーティストはオノ・ヨーコ。

ジョンとヨーコが初めて出会う、有名なエピソードである。
その時のことをジョンはこう語る。

 その言葉が「NO」だったら失望していたよ。
 でも「YES」と書いてあったから救われたんだ。

のちにジョンは『Mind Games』という曲で、こんな歌詞を書いている。

 Yes is the answer and you know that for sure,
 Yes is the surrender you got to let it, you got to let it go,

 君も知っているだろう。イエスこそが答えなんだ。
 イエスに身を委ね、身を任せればいいのさ。



ジョン・レノン④日本語

オノ・ヨーコと結婚したジョン・レノンは日本語の勉強を始めた。

彼が残した日本語の練習ノートには、
ローマ字で書いた日本語が綴られている。

日本語の意味を英語ではなく、
自筆のイラストで説明しているところがいかにもジョンらしい。

例えば、「Jibun」という日本語には、自分の似顔絵。
「Utsukushii」という日本語には、
ヨーコらしき女性と花と太陽の絵が描かれている。

ただの日本語の練習ノートが、ジョンの手にかかると、
言葉と絵のアートブックに見えてくる。



ジョン・レノン⑤Rock’n’ Roll

1957年、ジョン・レノンが最初のバンド
「クオリー・メン」を結成した時、
レパートリーの中心はアメリカのロックンロールや
リズム&ブルースのコピーだった。

そのバンドにポール・マッカートニーが加入する。
ギターテクニックもさることながら、
ポールがロックンロールの歌詞に詳しかったことも、
加入の大きな要因となった。
歌詞を覚えるのが苦手なジョンは
ステージで出まかせの歌詞を歌うこともあったという。

ジョンとポールはやがて、オリジナル曲の制作に力を入れ始める。
右利きのジョンと左利きのポールは向かい合ってギターを弾いた。
そうすると鏡で見るように互いのコードを確認できた。

その後ビートルズで音楽史に革命を起こし、
解散後は平和運動のアイコンにもなったジョン・レノン。

しかし、ジョンはキャリアの晩年、
『Rock’n’ Roll』というアルバムを発表する。
そこに収録されていたのはすべて、
彼が10代の頃に聴いていたロックのカバーだった。

ジョンは永遠のロック少年でもあったのだ。



ジョン・レノン⑥真夜中を突っ走れ

1973年、妻ヨーコから別居を言い出されたジョン・レノンは、
寂しさを紛らわすかのように、
さまざまなアーティストとのセッションをおこなった。

74年に発表した『真夜中を突っ走れ』では
エルトン・ジョンがヴォーカルとギターで参加した。

この曲でジョンはシングル曲として初めてのビルボード第1位を獲得。
ジョンはそのお礼にと、エルトン・ジョンのコンサートに出演した。

コンサート終了後、エルトン・ジョンはジョンを楽屋に誘った。
すると、そこにヨーコがいた。
別居中のふたりを再会させるための、エルトン・ジョンの粋な計らいだった。

これを機にジョンとヨーコはよりを戻す。
そして翌年の10月9日、ジョンの35歳の誕生日に
ふたりにとっての初めての子ども、ショーンが誕生した。



ジョン・レノン⑦俳句

オノ・ヨーコと結婚したジョン・レノンは度々日本を訪れた。
日本でジョンは骨董品を買い漁った。

ある時ジョンは松尾芭蕉の句、
「古池や蛙飛び込む水の音」が書かれた掛け軸を見つけた。

その句にいたく感動したジョンは即座に掛け軸を購入し、
帰路、飛行機に乗るときも肌身から離さなかった。

ジョンの心を捉えたのは、俳句の五・七・五というリズムだった。
そのリズムはのちにジョンの書く歌詞の形体にも
大きな影響を与えたという。



ジョン・レノン⑧Starting Over

1980年10月、ジョン・レノンは
『Starting Over』をリリースした。

この曲は翌月に発売されるアルバム
『Double Fantasy』からの先行シングルだった。

『Double Fantasy』は
息子ショーンの育児に専念していたジョンが
5年ぶりに発表するアルバム。
そして40歳という節目の年に発表する記念すべきアルバム、
になるはずだった。

しかし、『Double Fantasy』の発売から間もない12月8日、
ジョンは凶弾に倒れる。
アルバムは一転、ジョンの遺作になった。

人々はジョンの追悼のためにレコードを聴いた。
『Double Fantasy』は1981年のグラミー賞を獲得し、
『Starting Over』はジョンの最も売れたシングルとなった。

ジョンがいなくなったいまも、人々はジョンの曲を聴き続ける。
ジョン・レノンの音楽に、永遠に終わりはない。

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五島のはなし(160)

五島の秋レポートです。

毎年好例の「五島ふくえみなとまつり」が開催されたのは先週末のこと。
昼間はパレードが行われたり、
子どもたちがいっしょうけんめい練習してきた出し物を披露したり。

中でも聖マリア保育園の園児による太鼓の演奏はめちゃめちゃ格好よかった。
もうほんと圧巻と言ってよいレベル。

子どもたちが、かぶりつくように出し物を見てました。

夜になると「ねぶた」がでます。
ん?五島がねぶた?とお思いでしょう。
・・・僕も思いますもん。

「うちの島でもさあ祭りとかやんない?」
「北の方でねぶたとか盛り上がってるじゃん」
「じゃあうちもねぶたやる?」
「いいじゃんいいじゃん」

これが僕の想像する五島のねぶたの起源(ほんとはもっとちゃんとした理由あるのかも)。
でもこれがなかなか、わくわくするねぶたなのですよ。

ねぶたは、五島の題材でつくられており、見ていてあきません。
上のは縄文人のクジラ漁がモチーフ。

バラモンやら火消しカッパやら、
五島の伝説をモチーフにしたねぶたたちが次々とやってきます。

この日に向けて、島の子どもたちは毎晩笛や太鼓の練習を重ねてきたんだそうです。

母校、五島高校のブラスバンド行進もありました。
すばらしい演奏でした。
途中とつぜん演奏をやめてみんなで歌を歌い始めたときは、
不意をつかれ泣きそうになりました。

島のあちこちに彼岸花が咲いていました。秋まっさかりです。

涼しくて快適だし、
食べ物もおいしい季節だし、
ビーチはひとりじめできるし、
いま、五島、行きどきだと思いますよ。

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八木田杏子 11年10月8日放送



名和晃平のリアル

アートに正解はないように。
アートの感じ方にも正解はない。

キャプションや解説をほとんど掲示しない
名和晃平の個展は、アートの解釈を解放する。

まずは、できるだけ情報を与えずに、
作家の意図を気にせずに作品にふれてもらう。

出口に辿りつくと、そこで
キャプションが記載された紙をわたして、
もういちど作家の言葉と共に作品を見てもらう。

そうして名和晃平は、
受け手のリアルな感覚を呼び覚ます。

デジタルとアナログの間を揺れ動く
感性のリアリティを表現する
名和晃平ならではの気遣い。



ゴッホを画家にした男

フィンセント・ファン・ゴッホは、
27歳のときに画家になろうと決意する。

画廊に6年勤めていたが解雇され、
教師、伝道師などの職を転々としていたゴッホ。

西洋美術の知識と、
趣味として絵を描いた経験はあっても、
美術教育を受けたことがなく、
才能の片鱗すら見られなかった。

そんなゴッホに、画家になることを
勧めたのは弟のテオだといわれている。

テオは兄に生活費を送り、
創作活動に打ち込めるようにした。

わずか23歳で画廊の支店長をまかされる
テオだけは、兄の才能を見抜いていたのだろうか。



ゴッホと日本

ゴッホは浮世絵に衝撃をうけ、
日本をユートピアとして思い描いた。

彼はこんな言葉を残している。

あらゆることに極限の明瞭さをもつ
日本人を羨ましく思う。
彼らの作品は退屈だということが全くなく、
決して大急ぎでやったようにも見えない。

画商だった弟テオと共に
浮世絵400点を買い集めて
パリのカフェで展示会を開いたゴッホ。

背景を浮世絵で埋め尽くした肖像画を描き、
まばゆい色彩と奇抜な構図を
自らの絵にも取り入れるようになる。

日本人が憧れるパリの芸術家が、
これほど日本に憧れていたとは。



ゴッホの独学

正式な美術教育を受けなかった
フィンセント・ファン・ゴッホは、
独学の画家とみなされている。

遠近法や解剖学の書籍を読み、
著名な芸術家による版画を模写して、
デッサンの訓練を積む。

色彩理論を学び、
力強い色使いを自分のものにする。

感銘をうけた芸術家とふれあい、
思想や画法を取り入れる。

その貪欲さと柔軟さが、ゴッホを進化させていく。

ゴーギャンから
記憶や想像で描くことを勧められると、
ゴッホは椅子だけの肖像画を完成させる。

肘掛つきの優雅な椅子を描くことで、
いつもそこに座っているゴーギャンの人物像を表現した。
ひとの顔を想像させる肖像画を描き上げたのだ。

自ら命を絶つ、その日まで。
ゴッホはデッサンの練習をし、
技法を磨くことで前に進みつづけた。



ゴッホと岡本太郎

麦畑のちかくで
腹部をピストルで撃った、ゴッホ。

息をひきとったのは、その二日後。

煙草をくゆらせて死を待つ間、
ゴッホはやっとつかんだ新しい芸術の世界を、
弟のテオに聞かせていたらしい。

肉体を殺し、
絵を描くことから解放されたときに
初めて達する境地がある。

ゴッホの死に感銘をうけた岡本太郎は、
それでも生きることを選んだ。

行きづまりに追われたら逃げないで、
むしろ自分自身を行きづまりに突っ込んでいく。
強烈に行きづまった自分に闘いを挑んでいくことだ。
行きづまりをこえ、うれしく展開さえてゆくんだ。

生きぬいて、切り拓く。
その覚悟が、岡本太郎の表現を強くする。



北斎の寿命

葛飾北斎は、長寿の画家である。

90歳まで絵を描き続け、
3万点をこえる作品を世に送りだした。

北斎75歳のときに出版された絵本「冨嶽百景」には、
こう記してある。

73歳にして、ようやく禽獣虫魚の骨格や、
草木の生え具合をいささか悟ることができたのだ。
だから、80歳でますます腕に磨きをかけ、
90歳では奥義を究め、100歳になれば、
まさに神妙の域に達するものと考えている。

北斎が画家として生き長らえたのは、
この心持ちがあればこそ。



写楽の寿命

東洲斎 写楽は、わずか1年で姿を消した。

役者を美しく描くのではなく、
役者の本質を描き出そうとした写楽。

目の皺や鷲鼻を強調した顔。
歪むほど捻じ曲げられた手。

芝居の筋と人間の生き様を描写するために
デフォルメされた大首絵は、かつてないものだった。

黒雲母がきらきらと輝く大判の錦絵
28枚とともに写楽は華々しくデビューする。

200年経った今でも高く評価される作品は、
江戸の人々からは好まれなかったようだ。

その後の写楽の作品は、
みるみる強烈な個性を失っていく。
役者を美しく描くありきたりな絵となり、
安い紙に刷られて売られていく。

145点あまりの錦絵を世に送りだして、
姿を消した写楽は、こう語られた。

あまりに真を画かんとして、
あらぬさまにかきしかば、
長く世に行なわれず、
一両年にして止む。

江戸では1年しか生きられなかった写楽は、
200年たった現代を生きている。

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五島のはなし(159)

この3連休、五島づくしはいかがですかー?
五島をテーマにした写真や絵画の展示会。福岡で開催です。
このブログでも紹介した
ガヴィエルさんやアキさんたちの作品も展示されます。

心の底から、おすすめします。
福岡のちかくにいる方はぜひ。あ、遠くのかたもよかったら、ぜひ。
ベベンコビッチオーケストラのライブもあるようですよ。
 
●●●●
福岡〜長崎五島展
〜五島を舞台に 暮らす・訪れる それぞれの視点〜

Date・・・2011.10.8 SAT 〜 10.10MON    
Time・・・11:00 〜 20:00(最終日〜18:00)
Place・・・福岡市文化館(福岡市赤煉瓦文化館)

*10.9(SUN)18:00〜
五島人の五島弁による五島のためのバンド
ベベンコビッチオーケストラによるフリーライブ予定☆

TEAM GOTO     TEAM FUKUOKA
平山 忍  [写真]   中冨 裕美[写真]
大戸 清  [写真]   轟 明子 [写真]
川端 亜紀香[写真]  木村 敬佑[写真 ・会場デザイン]
中村 多恵 [絵]

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三島邦彦 11年10月2日放送



ガンディーの言葉

ガンディーは熱心なヒンズー教徒だった。
しかし、イスラム教、仏教、キリスト教など、
ほかの宗教にも敬意を忘れることはなかった。
ガンディーは、その秘密をこう語っている。

 宗教とはたくさんの枝の茂った一本の樹である。
 宗教は枝と見れば数多く、樹と見ればただひとつである。

ただひとつ、真理だけが、彼にとっての神だった。



ガンディーの言葉

ガンディーは、ジャーナリストでもあった。
新聞を通じ、自らの信念を発表し続けた。
政府からの圧力で新聞が廃刊に追い込まれることもあったが、
ガンディーの筆は鈍らなかった。
当時のインドでは字が読める人は多くなかったが、
人々はガンディーの言葉を求め新聞を手に入れた。
これは、そんなガンディーがジャーナリズムについて語った言葉。

  私は、ジャーナリズムは奉仕を唯一の目標とすべきことに気がついた。
  制御のないペンは破壊にしか役立たぬものである。



ガンディーの言葉 

ガンディー22歳。
社会に飛び出した彼の職業は、弁護士だった。
しかし、イギリス留学で弁護士資格を手に入れたため、
インドの法律に詳しくないガンディーは裁判に出ても失敗ばかり。
もともと口が上手くない性格もあり、すぐに弁護士としての自信を失ってしまった。
翌年、そんなガンディーに南アフリカでの仕事の誘いが届く。
当時イギリス帝国の一部であった南アフリカでは、人種差別が激しく、
南アフリカで事業をするインド人たちは
自分たちの状況を改善するために裁判を起こしていた。
依頼人に会いにいく旅で、肌の色を理由に列車の客室を追い出されるなど、
自身もひどい差別を受けたガンディーは、この仕事に熱意を燃やした。
そして、インド人とイギリス人の間に立つこの仕事を通じて、
弁護士という仕事の本質を見い出した。

  私は、弁護士の本当の役目は引き裂かれた人たちを結び合わせることにある、
  と悟ったのである。

ガンディーはその後の20数年を弁護士として過ごした。
そして生涯を通じて、引き裂かれた人を結び合わせ、人間と、真理と愛を弁護し続けた。

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中村直史 11年10月2日放送



ガンディーとスマッツ将軍

たとえば、南アフリカのスマッツ将軍。
ガンディーが南アフリカで人種差別の撤廃を求め闘っていたころの、
その闘いの相手だった。

ガンディーは人種差別的なあらゆる法律をわざと破り、
自ら進んで投獄されることによって、
南アフリカのリーダーたちと、世界中に向けて、
いかに人種差別がおかしいことかを訴えつづけた。

1914年、ガンディーたちの運動は
「インド人救済法」の成立へとつながる。
この法律をつくったのが、白人社会のリーダーであったスマッツ将軍だった。

その後、インドに戻ることとなったガンディーは、
投獄中に自らつくったサンダルをスマッツ将軍に贈った。
スマッツ将軍は、後日こう述べている。

 わたしは、それ以来いく夏もこのサンダルをはいてすごした。
 このような偉大な人物と、おなじはきものをはく資格はないと感じながら。

いかなる暴力にも頼らないこと。質素な暮らしをすること。
その力を信じ抜いたガンディーらしい贈り物だった。



ガンディーと孫アルン

規律に厳しいことで知られたガンディー。
けれど、ユーモアにあふれる人でもあったようだ。

孫の一人アルンが旅に出るガンディーに
サッカーボールのおみやげをねだったときのこと。

おじいちゃんは忙しいからきっとおみやげを忘れるよ
というアルンに対し、ガンディーは言った。

ぜったいに忘れないよ。でももし忘れたら、
おじいちゃんの頭をサッカーボールがわりにして遊んでいいから。

結局おみやげを買ってきたかどうかの記述は残ってない。
けれど、もし忘れたとしても・・・
ガンディーのことである、約束は守ったに違いない。

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三國菜恵 11年10月2日放送



ガンディーとキリスト教徒の人

自分とまったくちがう信念の人を
友だちに持つことはできるだろうか。

ヒンドゥ教徒だったガンディーは、
キリスト教徒の人とも交流をもっていた。
彼らがすすめる本を、つぎつぎと読み、
礼拝にもいっしょに参加していた。

そんなある日、
熱心なガンディーに彼らは言った。
君もキリスト教徒になりなよ、と。

けれども、ガンディーは自分を見つめた結果、
その誘いを断ってしまった。
そのときのことを、彼はこう振り返る。

彼らがわたしの心のなかに
宗教的な探究心を目覚めさせてくれたことは、
一生の恩として忘れることができない。
わたしはつねに、彼らとの交流を思い出すだろう。



ガンディーと一冊の本

なにかどうしようもなく助けがほしいときに
「神様」の名前を呼んでしまったこと、ありませんか。

ガンディーも、神のありかについて
考えつづけたひとだった。
そして彼はあるとき、運命を変える一冊に出会う。
その本は、こんなタイトルだった。

『神の国は汝自身のうちにあり』

あなたを救うものはきっと、あなた自身のなかにある。



ガンディーと手紙

ガンディーは18歳のときイギリスに留学していた。
そこで出会ったある人に、
ガンディーはとにかくお世話になる。
日々の食事から、友だち探し、そして、女の子の紹介まで。

しかし、実はこのときガンディーには妻がいた。
「勉学にはげむ留学生に恋人がいるはずない」と思われていたので、
言い出せなかったのだ。

真面目なガンディーは
このことにたえられなくなり、
事実を明かそうと決めた。

彼がえらんだ手段は、手紙。
相手を傷つけないよう、
できるだけ誠実に伝えられるよう、
何度も、何度も書き直したという。

その手紙を受けとった人からは、こんな返事がきた。
「ウソのない手紙をもらってうれしい」

うまく伝えきれない気持ちは、
一言一句、ゆっくり、紙にしたためて伝えればいい。

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佐藤延夫 11年10月1日放送



最後のことば/太刀川瑠璃子(たちかわるりこ)

戦後を代表するバレリーナ、太刀川瑠璃子さんが
亡くなったのは、3年前のことになります。

終戦直後に見た「白鳥の湖」が、
バレエを始めるきっかけでした。

プリマとして多くの舞台を務めたあと
自らバレエ団を立ち上げ、
日本人として表現できるバレエを探し続けました。

晩年、がんの手術を受けたあと、
こんなことをおっしゃったそうです。

「心の中にあるものをお棺に持っていくのは、もったいない。
 誰か取材してくれないかしら」

悔いのない人生を送った人の言葉は、なにかが違います。



最後のことば/浜口雄幸(はまぐちおさち)

明治生まれの政治家、浜口雄幸さんは
立派な髭をたくわえたその風貌から、
ライオン宰相と呼ばれていました。

料亭政治、いわゆる談合や根回しを嫌い、
正面突破の姿勢を崩さない、
珍しいタイプの政治家だったそうです。

彼は自分の運命を知っていたのか、
こんなことを奥様に話していました。

「途中、何事か起こって倒れるようなことがあっても、
 もとより男子の本懐である。」

そして1930年、浜口さんは暴漢に狙撃され、
その傷がもとで息を引き取りました。

政治家は命懸けの職業だと
体を張って教えてくれた人でした。



最後のことば/坂本繁二郎(さかもとはんじろう)

明治生まれの洋画家、坂本繁二郎さんは、
東京とパリで絵の修業をしたあと、
地元、福岡のアトリエから離れることはありませんでした。

弟子をとることはなく、
教えを乞う者には、「友達になろう」と話しかけたそうです。

その人柄は、最後の言葉にも表れています。
迫りくる死を悟ると、妻と娘にこう語りました。

「ぼくは生涯好きなことをやってきた。
 ほんとうにお世話になったね。」

昨年から、福岡県のJR久留米駅の近くで
坂本繁二郎さんの生家が公開されています。



最後のことば/土光敏夫(どこうとしお)

明治生まれの実業家、土光敏夫さんは
徹底した合理化で会社を再建し、
猛烈な働きぶりから、
荒法師、行革の鬼、と呼ばれました。
モーレツを絵に描いたような人です。
その当時、彼が口癖のように言っていた言葉があります。

「一般社員はこれまでの三倍働け。
 重役は十倍。
 社長の私は、それ以上に働く。」

その後、経団連会長、
臨時行政調査会長といった政府の要職を歴任し、
行政改革の実現を目指しました。

亡くなったのは91歳のとき。老衰でした。
この世を去る前に、こんな言葉を残しています。

「もし、来世に極楽と地獄があるとすれば、
 僕はためらわず地獄行きを望むね」

地獄の釜炊きをしながら、日本の行く末を監視するつもりのようです。
土光さん、今の日本はどのように見えますか。



最後のことば/越路吹雪

シャンソンの女王、越路吹雪さんは
56歳の若さでこの世を去りました。

宝塚歌劇団の男役でスターになり、
退団後はシャンソンのリサイタルやディナーショーに明け暮れる日々。
私生活では、作曲家のご主人と仲睦まじく寄り添っていました。

病気が発覚したのは、1980年のこと。
病床で彼女は、マネージャーにこう話したそうです。

「いっぱい恋をしたし、
 おいしいものも食べたし、
 もういいわ」

生に執着しない心は、
すがすがしい言葉に変わるのでしょうか。



最後のことば/若山牧水

明治生まれの歌人、若山牧水先生は
旅をして歌を詠み、
一日一升の酒を飲む。
そんな生活を続けて肝硬変を患いました。

これは亡くなる前日、吸い飲みでは旨くないと言い、
盃で酒を飲んだときの言葉です。

「ああ、これでこそ酒の味がする」

彼が恐れたのは、病気よりも
酒が飲めなくなることだったようです。



最後のことば/田山花袋

明治生まれの小説家、田山花袋先生は
喉頭がんでこの世を去りました。

それは亡くなる数日前のこと。
友人の島崎藤村が病床に訪れ、
こんな質問をしたそうです。

「この世を辞して行くとなると、どんな気がするかね」

遠慮のない言葉が行き交うのは
親しさの表れなのかもしれませんが、
作家としての客観的な興味を抑えられなかったのかもしれません。

その問いに対して彼は、このように答えています。

「なにしろ、誰も知らない暗いところへ行くのだから、
 なかなか単純な気持ちのものじゃない」

小説家は、去り際まで
何かを知りたい、感じたいと思う職業なのでしょう。

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