Elke Wetzig
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」1
青春の詩人として知られるヘルマン・ヘッセは、
幼少時代、空想力が豊かで、聡明で、音楽好きだった。
そして動物や植物を愛していた。
その一方で、とてもわがままで反抗心が強かった。
14歳で神学校に入るが、教員と衝突して寄宿舎を脱走。そして自殺未遂。
次に入った高等学校も退学、商店員や父の仕事の手伝い、
機械工、どれも長くは続かなかった。
のちに『デミアン』で書いている。
僕は、僕の内部からひとりでに出てこようとするものだけを、
生きてみようとしたにすぎない。
それがなぜ、あれほど難しかったのだろうか。
複雑で傷つきやすい。
夭折してもおかしくない気質だ。
けれども、彼は違った。
Ako
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」2
26歳の時『郷愁』で大きな成功を収めたヘッセは、
結婚をし、こどもにも恵まれた。
そして『車輪の下』など青春文学を世に出していく。
その平和は、第一次世界大戦によって一変。
二度の徴兵検査に落ち、兵役不適格者となる。
戦時奉仕した新聞でも寄稿した論説が非難される。
父の死、こどもの病気、妻の精神病、自身の神経障害。
ついには、座骨神経痛とリューマチを患ってしまう。
ところが治療のために訪れた湯治場・バーデンでの新しい生活が、
ヘッセにとって興味深い、新しい経験となり、発見をもたらした。
彼は待つことを学ぶ。
彼は沈黙することを学ぶ。
彼は耳を傾けることを学ぶ。
そしてこれらのよき賜物を
幾つかの身体的欠陥や衰弱という犠牲を払って
得なくてはならないにしても、
彼はこの買い物を利益と見なすべきである。
ヘッセ46歳の秋のことだった。
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」3
ある夏、ヘッセはスイスの森を散歩していた。
ふと感じる。
美しく輝かしかった夏が、
何日も続く、たちのわるい雷雨の後、劇的な終焉を迎える。
それは、たくましく元気に見えた50代の男が、
ある病気のあと、ある苦しみのあと、ある失望のあと、
突然、筋ばった、すべてのしわの中に風雪に耐えたあとのある顔に
なってしまうのと似ていると。
そして思う。
侵入してくる衰弱と死に抵抗し、
ささやかな生にしがみつき、
おののきながら死を迎える技術を学ぶのだと。
再び冬が来る前に、私たちの行く手には、
まだ多くのよいことが待っている。
次の満月を楽しめる事を期待しよう。
そして、たしかにみるみるうちに老いるけれど、
やはり死はまだかなり遠方にあるのを知ろう。
その時、ヘッセ。49歳。
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ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」4
1924年、スイス国籍を得たヘッセは、別居中の妻と離婚。
その後スイスの女性と結婚するも、3年で離婚してしまう。
この時の苦悩を吐露した作品が『荒野の狼』である。
心身ともに危機を迎えていたこの時期、
ヘッセにはひとりの女友達がいた。
彼女の名は、ニーナ。ヘッセより30ほど年上だった。
彼が住むスイス・ティッスーンの、辺鄙な小さな村に住んでいる。
ニーナの家に向かう道は美しい。
ブドウ山と森を通って山を下り、緑の狭い谷を横切って、
谷の向こう側の、急な斜面を登っていく、
そこは、
夏はシクラメンの花でいっぱいになり、
冬はクリスマスローズに満ちあふれる。
ニーナの家は朽ち果て、台所の中をヤギやニワトリたちが歩き回っている。
魔女やおとぎ話に近い場所。
ゆがんだブリキのやかんで淹れるコーヒは、たき木の煙でほのかに苦い。
ここで2人は、世界と時代の外側に生きている。
情熱は美しいものである。
若い人には情熱がとてもよく似あう。
年配の人々には、ユーモアが、微笑みが、
深刻に考えないことが、
世界をひとつの絵に変えることが、
ものごとをまるではかない夕雲のたわむれで
あるかのように眺めることが、
はるかにずっとふさわしい。
unbekannt
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」5
ヘッセが53歳で出版した『知と愛』は、
それまでの彼の苦悩に和解を示すことが出来た作品だった。
そして再びの結婚を経て、ようやく彼の安定した晩年がはじまる。
ある時、妻に無理矢理カーニバル見物に連れ出される。
笑いさざめく顔、人々が笑ったり叫んだりする楽しげな様子。
ひときわ目を引いたのは、ひとつの美しい姿だった。
自分が仮装していることも、周囲の雑踏も忘れて、
カーニバルの何かに心奪われて、静かに立っている少年。
ヘッセは、カーニバルの喧噪のただ中にいる少年のあどけなさ、
美しいものに対する感受性に魅了されていた。
成熟するにつれて人はますます若くなる。
すべての人に当てはまるとはいえないけれど、
私の場合は、とにかくその通りなのだ。
私は自分の少年時代の生活感情を
心の底にずっと持ち続けてきたし、
私が成人になり老人になることを
いつも一種の喜劇と感じていたからだ。
FlickrLickr
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」6
戦争も終わり、経済が発展すると、
ヘッセの住む穏やかな村にも開発の大きな波がやってくる。
住みはじめた頃の自然と平和は奪われ、
無傷ではいられないと嘆いている。
老境に至ってはじめて人は
美しいものが稀であることを知り、
工場と大砲の間にも花が咲いたり、
新聞と相場表の間にも、まだ詩が生きていたりすれば、
それがどんな奇跡であるかを知るようになる。
Kiril Kapustin
ヘルマン・ヘッセ「老いることの美学」7
75歳を間近に迎えた時期、ヘッセは少年時代の友人の訪問を受ける。
その人は『車輪の下』で描いた修道院時代の友だった。
友人の土産は、ヘッセが姉にあてた手紙。
それをきっかけに、過去の生活の記憶が鮮やかによみがえり、
語り合い、亡くなった人たちと再会を果たした気持ちを味わう。
おたがい白髪で、しわのよった瞼を持ちながら、
その奥にいる14歳の仲間を見つけだす。
教室の机に座っていた姿、目を輝かせて球技や競争をした姿、
そして精神と美に初めて出会ったときの
興奮、感動、畏敬の念の最初の暁光を見つけだした。
私たち老人がこれをもたなければ、
追憶の絵本を、体験したものの宝庫を持たなければ、
私たちは何であろうか!
友人は帰郷後、知人やヘッセの妹に訪問の報告の葉書を書き、
ヘッセにも便りを送った。そして日々の仕事に戻った。
数日後、苦しむこともなくあっさり亡くなってしまった。
ヘッセはその損失を悲しみはしたが、
友人が最後の日まで誠実に仕事をし、
病床にもつかず、あっさりと穏やかに息をひきとったことを、
立派な調和ある終末として受け止めた。
老いた人びとにとってすばらしいものは
暖炉とブルゴーニュの赤ワインと
そして最後におだやかな死だ
しかし もっとあとで 今日ではなく!
ヘッセは85歳のある日、モーツァルトのピアノソナタを聴いて床につき、
そのまま翌朝、脳溢血で永遠の眠りについた。