雪の殿様・その1
いまから百八十年ほど前、
下総国 (しもふさのくに)・古河(こが)に、
「雪の殿様」と呼ばれた大名がいた。
19世紀はじめ、文化文政の時代。
古河藩七万五千石の藩主だった、土井利位(どい としつら)。
徳川譜代の名門に生まれた利位は、
オランダ渡りの顕微鏡を使って、
雪の結晶を観察し、
約20年間にわたって
克明なスケッチを残した。
そんな彼を、
ひとは「雪の殿様」と呼んだ。
雪の殿様・その2
下総国古河藩主、土井利位。
雪に魅せられた「雪の殿様」。
彼は雪の結晶を、
雪の華・雪華(せっか)」と名付け、
「雪華図説」という本を著した。
ひとつとして同じかたちのものは
ないけれど、
どれも六方対称のかたちになる。
そんな雪の結晶のふしぎな成り立ちを、
彼は解き明かそうとした。
大気中の水蒸気の流れ。
天空に雪の生ずるからくり。
そして、手に受ければたちまち
溶けてしまう六角形の結晶を
溶かすことなく採取する方法。
「雪華図説」は、単なる雪の結晶の
スケッチ集ではなかった。
それは、当時最新の格物窮理(かくぶつきゅうり)、
すなわち物理学の書物だった。
雪の殿様・その3
雪のふしぎに取り憑かれ、
雪のうつくしさの虜になった「雪の殿様」。
土井利位が書いた「雪華図説」は、
物好きな殿様の趣味の域をはるかに超える、
本格的な物理学の書であった。
なにゆえ、ひとりの殿様にそんな書物が書けたのか。
オランダ渡りの顕微鏡など、どこで手に入れたのか。
古河藩の家老に、鷹見泉石(たかみせんせき)という人物がいた。
泉石は、早い時期から海外事情に関心を寄せ、
地理・天文・暦学・物理の道に通じていた。
交友範囲もきわめて幅広く、
川路 聖謨(としあきら)、江川太郎左衛門ら幕府の要人、
渡辺崋山、桂川甫周(ほしゅう)といった蘭学者から、
地理学者・箕作(みつくり)省吾、砲術家・高嶋秋帆(しゅうはん)、
画家・司馬江漢に至るまで、
当代第一級の知識人との付き合いが深かった。
ヤン・ヘンドリック・ダップル、
というオランダ名までもっていた鷹見泉石は、
蘭学仲間から得た知識を、
主君・土井利位に伝授したのだろう。
蘭鏡(らんきょう)と呼ばれるオランダ製顕微鏡も、
泉石が独自のルートから手に入れたもの
だったのかもしれない。
雪の殿様・その4
徳川幕府が国を閉ざして、二百年余。
19世紀、帝国主義の時代を迎えた西洋列強は、
極東の小さな島国のドアをノックする。
1804年、ロシアのレザーノフが来航。
1808年、英国の軍艦フェートン号が入港。
唯一、世界に開かれた長崎の港が騒然とする。
幕府は対応に苦慮する。
下総国古河で雪の研究をしていた土井利位。
そのブレーンだった家老・鷹見泉石には、
時代に対する危機感があった。
蘭学を通して、地理・天文・物理を学ぶことは、
西洋の現在を知ることでもあった。
雪の殿様・その5
下総国古河藩主、土井利位は、
33歳で藩主となったのち、寺社奉行、大坂城代、
京都所司代など、幕府の要職を歴任。
大坂城代の任にあった天保8年、1837年、
土井利位は、大塩平八郎の乱に遭遇する。
1830年代、天保年間。
長年つづいた天候不順から日本全国が凶作となった。
米不足から飢饉が起こり、各地で一揆が頻発。
大坂では毎日150〜200人を越える餓死者が出たという。
暴騰する米の値段をいいことに、米を買い占める
豪商のふるまいに、民の怒りが爆発。
その先頭に立ったのが、大坂町奉行所の元与力、
大塩平八郎だった。
決行の日は、175年前の今日、2月19日。
豪商と奉行所を襲い、焼き打ちにする計画は、
密告によって頓挫。武装蜂起は鎮圧される。
大坂市中に身を隠した首謀者、大塩平八郎の所在が
大坂城代・土井利位のもとに通報される。
大塩捕縛に向かったのは、家老・鷹見泉石率いる
古河藩の一軍だった。
こののち、土井利位は、幕府老中に登りつめ、
水野忠邦と共に、「天保の改革」の中心人物となっていく。
日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で見た「雪の殿様」は、
時代と政治のまっただ中にいた。
雪の殿様・その6
下総国古河、現在の茨城県古河市は、
決して雪深い土地ではない。
土井利位が生きた19世紀前半は、
いまよりもはるかに寒冷で、
世界的にも、洪積世氷期が終わって以降、
最も寒冷な時期にあたり、
小氷期と呼ばれている。
零下10℃以下でなければ観察は不可能、
と言われる雪の結晶のスケッチを、
土井利位は、古河でも、大坂でも、
京都でも欠かさずつづけている。
この頃の冬は、それくらい冷え込んでいた、
ということの、それは証拠である。
雪の結晶の観察を可能にした寒さは、
しかし、同時に、凶作をもたらす寒さでもあり、
人々を追いつめる大飢饉の元凶でもあった。
雪の殿様・その7
土井利位が著した「雪華図説」は、
いまで言う自費出版だったので、
庶民の目に触れることはなかった。
これを一躍有名にしたのが、
越後の商人、鈴木牧之(ぼくし)が書いた北越雪譜(ほくえつせっぷ)
という本だった。
雪深い越後の暮らし、産業、伝承に加え、
土井利位が描いた雪の結晶の絵が35点、
掲載された。
当時としては破格の700部が売れ、
土井利位は、「雪の殿様」と
呼ばれるようになった。
雪の殿様・その8
「雪の殿様」土井利位は、
みずからスケッチした雪の結晶を図案化し、
印籠や刀の鍔、着物の柄に散りばめた。
一方、「北越雪譜」に掲載された
35種類の雪の結晶図は、またたく間に
江戸の庶民を魅了し、やがて、テキスタイルの
ニューモードを生み出すことになる。
土井家の当主は、
代々、大炊頭(おおいのかみ)という官職名を名乗る。
土井利位が描いた雪の結晶図から生まれた
テキスタイルの文様は、
彼の官職名をとって、大炊模様(おおいもよう)と
呼ばれるようになる。
渓斎英泉(けいさい えいせん)の美人画、歌川国貞の役者絵など、
江戸後期の浮世絵に、「大炊模様」の着物柄が
数多く見られる。その流行ぶりは、
「雪の殿様」本人の想像を超えるものだった。