2012 年 3 月 24 日 のアーカイブ

佐藤理人 12年3月24日放送


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サム・ペキンパーという男

次々と仲間が銃弾に倒れゆく中、
なぜか主人公にだけは当たらない。

そんなハリウッドのご都合主義は、
この男には通用しない。
性別も、肌の色も、宗教も関係なく
銃弾の雨は全ての人に平等に降り注ぐ。

暴力描写のリアルさに徹底してこだわった
バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパー。

俺は暴力の研究家だ。
なぜって、
人間の心の研究家だからな。

その残酷な作風から人は彼を

Bloody Sam(血まみれのサム)

と呼んだ。



サム・ペキンパーの「正義」

正義の反対は悪じゃない。
もうひとつの正義だ。

暴力に魅せられた男
サム・ペキンパーの映画に
勧善懲悪は存在しない。

主人公はいつもお尋ね者か犯罪者すれすれの、
陽の当らない場所で生きる男たち。
彼らが自らの正義のため暴力に訴える、
その瞬間をサムは生涯描き続けた。

しかし彼自身は意外なことに
絶対的な正義を重んじるはずの法律家一族に生まれた。

父、祖父、兄、叔父が弁護士または判事
という家庭だったため、
食事時の話題はいつも裁判のことばかり。

世の中には単純な真実など存在しない。

大人たちの話を聞きながら幼いサムは、
人を裁く難しさ、判決の曖昧さ、
何より人間の不完全さを常に意識しながら育った。


jrmyst
サム・ペキンパーの「スローモーション」

極度の危険に直面すると、人は一瞬を永遠に感じることがある。

バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパー。
高校卒業後、海兵隊に入隊した彼は第二次世界大戦で中国に渡る。
ある日、目の前で一人の荷役夫が狙撃兵に撃ち殺された。

人生で最も長く感じた瞬間だった

と語るこの体験が、彼の最高傑作と言われる「ワイルドバンチ」を生んだ。

たった四人で二百人を超すメキシコ政府軍に挑むラスト。
映画史に残るこの大銃撃シーンは、
スピードの異なる6台のカメラを使い11日間ぶっ通しで撮影された。
カット数は、実に当時最多の3624カットを記録。

時にゆっくり、時にスピーディに。
スローモーションに膨大なカットを組み合わせた緩急溢れる映像に、
観客の目はスクリーンに文字通り釘付けになった。

セリフは一切なく、聴こえるのはマシンガンとライフルの轟音のみ。
銃弾に肉を切り裂かれ、容赦なく崩れ落ちる人、人、人。
敵も味方も、女性も子供も老人もない。
凄惨でありつつどこか美しいその映像は

死のバレエ

と呼ばれた。
たった4分ほどのそのシーンは、まるで永遠に続くかのようだった。

ダイナミックに時間を操るこの独特の撮影技法は
彼のトレードマークとなっただけでなく、
その後のアクション映画における新境地を切り拓いた。


SESC São Paulo
サム・ペキンパーの「スタッフ」

CGもワイヤーアクションもない時代。
知恵と執念でアクション映画の新しい地平を切り拓いた男、
サム・ペキンパー。

予算もスケジュールも構わず作品を追求する
完璧主義の矛先は、スタッフにも向けられた。
その映画に関わる全員に

映画を生きる

ことを求め、電気工であっても脚本を読み理解するよう命じた。
気に食わないスタッフは次々とクビにする一方、
自分が認めた人間には無条件に愛情を注いだ。

映画「ケーブル・ホーグのバラード」はペキンパー自身

自分のベスト・フィルムだ

と納得する出来栄えだったが、
その傍若無人な振る舞いがマスコミから批判を浴びてしまう。

窮地に立たされたペキンパーを守るため、
スタッフは新聞に彼を擁護する広告を載せたという。


Jean-Pierre Lavoie
サム・ペキンパーの「アメリカ」

滅びゆく西部の男たちを哀切のこもった目で描き

最後の西部劇監督

と呼ばれた男、サム・ペキンパー。

彼の映画はヨーロッパや日本では人気があったものの、
本国アメリカではいま一つだった。

西部劇という題材が古臭かったわけではない。
彼の描く暴力がハリウッド映画にありがちな
偽物ではなかったからだ。

彼は暴力のもつ醜さや汚さを赤裸々に描いた。
華麗な拳銃さばきも超人的なアクションもない。
ヒーローも悪人もおらず、
死が女性も子供も特別扱いしない世界。

人間は動物になりえる。悪は存在する。
そして世界におけるアメリカの地位は、
その悪の存在に負うところが大きい。

ペキンパーが描いたものは、
当時アメリカ軍が世界で行っていたことそのものであった。



サム・ペキンパーの「ヒット」

たとえ主人公が悪人でも、キャラクターが魅力的なら観客は声援を送る。

しかし他人の命を顧みず、目的のために手段を選ばない価値観に、
70年代のハリウッドはいい顔をしなかった。
「明日に向かって撃て」「俺たちに明日はない」
犯人には常に無残なアンハッピーエンドが用意されていた。

「ゲッタウェイ」

バイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパーは、
犯罪小説の巨匠ジム・トンプソンの原作を西部劇の現代版として制作。
ギャング映画にも関わらずハッピーエンドを用意した。

主演、スティーブ・マックイーン。
当時世界最高のスターがそんな反社会的な役を演じることも話題となった。

リアリティにこだわるペキンパーらしく、
ストーリー順に撮影するという効率の悪い方法を敢えて選択。
オープニングのシーンでは、本物の刑務所を使用する熱の入れようだった。

しかしヒットさせたい映画会社は、最終編集権をマックイーンに委ねる。
音楽もイメージに合わないとして、
急遽クインシー・ジョーンズに替えられてしまった。
完成版を見たペキンパーは

これは俺の映画じゃない!

と叫んだ。
だが「ゲッタウェイ」は世界中で大ヒットを記録。
ペキンパーの最も有名な作品となった。
おかげで彼は初めて映画会社からボーナスをもらうことができた。

もらった金はすべてスタッフに分け前として配ったという。


SESC São Paulo
サム・ペキンパーの「DNA」

ペキンパーは同じ映画を14本も撮った

と言われるほど自らの人生観を
スクリーンに色濃く叩きつけた映画監督サム・ペキンパー。

バイオレンス映画の原点にして頂点
と言える作品を生み出す一方、
プロデューサーや出演者と衝突を繰り返し、
扱いづらい監督として冷遇され続けた。

ストレスと孤独を酒と麻薬で紛らわしたツケは、
確実に彼の内蔵を蝕んでいた。

遺作「バイオレントサタデー」は、
肺の感染症と闘いながら酸素マスクを付けて撮影された。

1984年12月28日。
映画の完成後、最後の西部劇監督は心不全でこの世を去った。

彼の革命的な映像表現は、
クエンティン・タランティーノたちが作る
現代のアクション映画に今も色濃く生きつづけている。

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