言葉・2011/ウルトラマン
一年前の震災の日、
たくさんの子どもたちが眠れない不安におそわれた。
その姿を見て、黙っていられなかったのだろう
あのウルトラマンからメッセージが届いた。
それは、すべてひらがなで、ツイッターに優しくつぶやかれていた。
震災から14時間後の明けがただった。
きみのことは、ぼくや、みんながまもるよ。
きょうはゆっくりおやすみ。
言葉・2011/ウルトラマン
一年前の震災の日、
たくさんの子どもたちが眠れない不安におそわれた。
その姿を見て、黙っていられなかったのだろう
あのウルトラマンからメッセージが届いた。
それは、すべてひらがなで、ツイッターに優しくつぶやかれていた。
震災から14時間後の明けがただった。
きみのことは、ぼくや、みんながまもるよ。
きょうはゆっくりおやすみ。
coron_k
音楽の力①Secret Garden
ノルウェイ出身のピアニスト、ロルフ・ラヴランドと
アイルランド出身のバイオリニスト、フィンヌーラ・シェリー、
ふたりの音楽ユニットSecret Garden。
1994年に発表した楽曲「Nocturne」がヨーロッパの権威ある音楽祭
ユーロビジョン・ソング・コンテストのグランプリに輝き、
一躍その名が世界に知られるようになった。
深い森のように幻想的なSecret Gardenの音楽。
その音色を聴くと、音楽が持つ癒しの力を確かに感じることができる。
しょうちゃん
音楽の力②Secret Garden
ノルウェイ出身のピアニスト、ロルフ・ラヴランドと
アイルランド出身のバイオリニスト、フィンヌーラ・シェリー、
ふたりの音楽ユニットSecret Garden。
その音楽はしばしば「癒しの音楽」と評される。
東日本大震災の後、日本を訪れたSecret Gardenは
被災した人々に対し、こうメッセージを送った。
小さな力に過ぎないかもしれないけれど、
もし私たちの音楽が悲劇に見舞われた人々の心に安らぎを与え、
慰めになるとしたら、私たちにとってこの上ない贈り物となるでしょう。
愛を込めて。
Ted Abbott
音楽の力③アヴェ・マリア
聖母マリアへの祈りを歌った「アヴェ・マリア」。
古から、名だたる作曲家が曲を書いた。
モーツァルト、シューベルト、ブラームス、ブルックナー・・・
聖母マリアに対する作曲家それぞれの眼差しが、曲の違いとなってあらわれる。
それでも共通するのは、心が洗われるような敬虔な旋律。
アヴェ・マリア。
人々はいま、何を祈る。
Thida
音楽の力④マイケル・ジャクソン
マイケル・ジャクソンが1991年に発表したアルバム「DANGEROUS」。
その7曲目に収録された曲「Heal the World」。
美しいメロディラインにのせて、平和への祈り、人類への愛、
こどもたちへの希望が歌われる。
この世界を癒そう
もっと素晴らしい世界にしよう
ぼくときみのために
すべての人のために
もし今、マイケル・ジャクソンが生きていたら、
世界に向けてどんなメッセージを発するだろう。
Stefano Costanzo
音楽の力⑤マイケル・ナイマン
1993年に公開されたジェーン・カンピオンの映画『ピアノ・レッスン』。
19世紀、未開の地であるニュージーランドを舞台に、
スコットランドから入植してきた女性と現地の男性との激しい恋愛が描かれる。
この映画の音楽を担当したのがイギリスの作曲家マイケル・ナイマン。
メインテーマともいえるピアノソロ曲「楽しみを希う心」は世界中でヒットした。
この曲でマイケル・ナイマンは主人公の女性の揺れ動く心、
そして生きることの哀しみと喜びを見事に表現した。
Ton Terhorst
音楽のちから⑥ビートルズ
村上春樹の小説『ノルウェイの森』。
作中、登場人物の女性がビートルズの曲をギターで次々と奏でる場面がある。
そして彼女はこうつぶやく。
この人たちはたしかに人生の哀しみとか
優しさというのをよく知っているわね。
イエスタデイ、ミッシェル、ヒア・カムズ・ザ・サン・・・。
その美しい旋律は確かに、生きることのよろこびも悲しみも知るからこそ、
紡げるのかもしれない。
soupboy
音楽の力⑦マイケル・ナイマン&ヒラリー・サマーズ
現代音楽の巨匠マイケル・ナイマン。
1995年、彼が日本のアニメ映画『アンネの日記』のために書いた楽曲「if」。
マイケル・ナイマンの奏でるピアノに
アルト歌手ヒラリー・サマーズの神々しい歌声が響く。
わたしは瞬くでしょう
この腕を揺らすでしょう
そして希望を歌うでしょう
すべての痛みを消し去るために
すべての地で
すべてのこどもたちに
すべての女と男たちに
それこそがわたしの為すこと
もしもわたしの願いが叶うならば
悲しみを抱くすべての心に、その音楽は慈悲となる。
Xavier de Jauréguiberry
音楽の力⑧エンヤ
アイルランドの歌手エンヤ。
1986年、イギリスBBCのテレビ番組「The Celts」のために制作した
サントラアルバムでデビューした。
アイルランドの伝統音楽ケルトミュージックを下敷きに、
クラシック、宗教音楽を融合したエンヤの音楽は、
世界中にケルトブームを巻き起こした。
神秘的で荘厳なメロディと透き通るような歌声。
エンヤは「ヒーリングミュージックの女王」とも評される。
parpiro
カート・ヴォネガット「未来への言葉」1
SF作家カート・ヴォネガット、
ニヒリズムに裏付けされたユーモリストだ。
ユートピアを探し求めた彼は
第二次世界大戦での経験によって、
人類の未来に絶望してしまった。
だからこそ、
笑いという技法で自分の思いを伝えようとした。
どんな主題であれ、
物語にとりかかると、
なんとかしてそこに
愉快なものを見つける。
さもなければやめにするだけだ。
cromacom
カート・ヴォネガット「未来への言葉」2
カート・ヴォネガットは、
ドイツ軍の捕虜として強制労働に従事しているとき
ドレスデンの無差別爆撃を体験した。
街の85%は破壊され、彼は生き残った。
無差別爆撃は、全く無意味な軍事作戦だったという。
その体験をもとに
「スローターハウス5」を書いたのだ。
私の小説に登場する悪玉は、
文化、社会、歴史です。
けっして個人ではありません。
そしてインスピレーションの源は、
除け者にされたという現実、または、幻想だという。
失うものがない人々は、
自由な気分で自分の考えをつらぬける。
まわりの連中の考えかたを真似ても
何の得にもならないからだ。
絶望は独創の母。
B Rosen
カート・ヴォネガット「未来への言葉」3
SFというスタイルで小説を書いているにもかかわらず、
カート・ヴォネガットは、SF作家と呼ばれることを嫌った。
戦争での体験を通じて、
テクノロジーが進みすぎることを悲観していた。
彼が若かったころのアメリカにあって、
今はなくなってしまって悲しんでいるものについて、
こう書いている。
人間がこの湿り気たっぷりな青緑色の惑星を
まもなく人間の住めない場所にしてしまう、
という確実な知識のなかった、あの気楽さ。
そして、いつか空飛ぶ円盤に乗った生き物か、
天使か、それかほかのなにかが地球にやってきて
人類が恐竜のように滅びてしまったことを発見するとしたら
大きな字でグランドキャニオンの断崖に
次のメッセージを残すべきだという。
われわれは自分たちを救えたかもしれないが、
呪わしいほどなまけものであったため、
その努力をしなかった。
BioDivLibrary
カート・ヴォネガット「未来への言葉」4
SF作家カート・ヴォネガットは、
第二次世界大戦後、アメリカに帰還し
コーネル大学で人類学を学んだ。
そして小説家になった。
晩年になってからの思いは、
原始的共同生活が実現すれば、
もっと幸福になれる、ということだった。
なにも考えてない人たちと、
何も考えずに暮らしたいと。
私の考えでは、人間の頭脳はこの特定の宇宙で
いろいろと実際的な効用を発揮するには
高性能すぎるんですよ。
わたしはワニと一緒に住み、ワニのように考えたい。
Sherlock77 (James)
カート・ヴォネガット「未来への言葉」5
カート・ヴォネガットは、
SFとユーモアというスタイルを通じて、
平和への思いを伝えてきた。
彼の思うユートピア、幸福な暮らしは、
長続きする共同生活だ。
たとえば、若い人が農場を引き受けて
共同生活を始める。
創設者達は、ひとりひとり相違をもっているが、
そういうコミューンがうんと長続きして、
こども達がおたがいに気楽になり
態度や経験に共通ものをもてば、
本当の身内のようになる。
でも実際には、うまくいかないかもしれない。
長続きせずに失敗することもあるだろう。
それもわかっていると語る。
これは、より幸福な人類について
私が抱いているぬくぬくとした小さな夢なのです。
なにかそういう明るい小さな夢でもないと、
私自身の悲観主義を克服できそうにないので。
あくまでも私の夢ですから、
それは間違いだなんて、言わんでください。
DonkeyHotey
カート・ヴォネガット「未来への言葉」6
SF小説という手法があるからこそ、
カート・ヴォネガットは、
環境破壊や、国と国との紛争、テクノロジーを
奇妙な、ヘンテコなものとしてシニカルに語る。
あるときインタビュアーが、そんな彼を
世の中のありとあらゆる悲しみに対して
とても優しい気持ちをいだいてると評する。
他人を同情して回るなんて、一種の自己満足だ。
わたしはあまりそういうことをしない。
わたしはただ、恐ろしい苦難から抜け出られない人が
たくさんいることを知っている。
ある人々は、他人からの大きな助けを
本当に必要としている。わたしは、そう思います。
カート・ヴォネガット「未来への言葉」7
カート・ヴォネガットのユーモアは、
ときどき突拍子もない。
「煙に撒く」ことで、彼の平和への思いを
より強く印象づけようとしていたのかもしれない。
アメリカ人は、どうしたらいまよりも幸福になれるか
今より愛されるかについて、
私はいろいろなアイデアをもっています。
それは、彼の作品
「タイタンの妖女」や「スローターハウス5」で表現される
現在の意志の行為によって未来を変えることはできない、
という考えと違うと、指摘されると
もちろんおわかりでしょうが、私の言っていることは、
みんなたわごとです。
そうはぐらかす。
まるで、彼の小説の台詞のように。
ここで「ハイホー」
あるいは「そういうものだ」
カート・ヴォネガット「未来への言葉」8
第二次世界大戦で絶望を経験した作家
カート・ヴォネガットがシニカルなのは、
人類に対する大きすぎる愛があったからかもしれない。
ある時、テネシー・ウイリアムズの「イグアナの夜」に
出ていた女優に相談を受けた。
キャストがみんな芝居になじんでいない、と打ち明けられたのだ。
ヴォネガットは、彼女にメモを渡した。
イグアナは、ぞっとするような姿だが、
食べるとけっこううまい。
私は、この劇からこんなメッセージを受け取った。
まったくなにも愛さないよりは、
他人がみにくいと思うかもしれないものを愛するほうがいい。
イグアナを食べよう。
そうすれば、だれにも負けない栄養が得られる。
彼の、愛することの基本姿勢が書かれている。
parpiro
思い出の街を訪ねて/小林多喜二
坂と雪の街、小樽。
作家、小林多喜二は
この地で蟹工船を書きあげた。
小樽駅から徒歩10分、小樽文学館には、
彼の生きた時代の資料が数多く保管されている。
旭展望台まで足を伸ばすと、レンガ造りの文学碑に会うことができる。
そこに刻まれているのは、獄中から友人に宛てた手紙の一節。
赤い断層を処々に見せている
階段のような山にせり上がっている街を
ぼくはどんなに愛しているか分からない
小樽には、多喜二の心が眠っている。
sarmoung
思い出の街を訪ねて/寺山修司
青森県の三沢駅から車で20分ほど走ると、
三沢市民の森公園がある。
この一角には、寺山修司の石碑だけ立っていたが、
生前親しかった関係者や友人の協力で、
寺山修司記念館ができた。
ここに、修司の母はつが大切に保管していた
遺品、原稿、ポスターなどが展示されている。
もしかしたら、私は憎むほど故郷を愛していたのかも知れない
これは「田園に死す」の一節。
言い表せないほどの思いが、故郷にはあった。
備忘録 旅人
思い出の街を訪ねて/志賀直哉
奈良県は新薬師寺のそば、高畑(たかばたけ)に、
志賀直哉の住まいが残っている。
自ら設計したとされる和洋折衷の屋敷は、
武者小路実篤や谷崎潤一郎も訪れ、
高畑サロンと呼ばれていたそうだ。
志賀直哉は、この場所で奈良の美しさを讃えた。
今の奈良は昔の都の一部に過ぎないが、名画の残欠が美しいように美しい。
こちらの屋敷には、遺品や資料は一切展示されていない。
遺言でそのように決められていたそうだ。
中年ピロ
思い出の街を訪ねて/石川啄木
やはらかに 柳あをめる
北上の 岸邊目に見ゆ
泣けとごとくに
岩手県玉山村の北上川河畔には、
歌人、石川啄木の石碑がある。
西を見れば、雪を冠した岩手山(いわてさん)。
東には姫神山(ひめかみさん)を望むことができる。
啄木は、代用教員だった時代に、
よくこのあたりを散策していた。
石碑から10分ほど歩くと、石川啄木記念館に辿り着く。
敷地内には、啄木が教鞭をとった旧渋民(しぶたみ)小学校の校舎、
それに、一家で間借りしていた斉藤家の母屋が移築されている。
ふるさとの 訛なつかし
停車場の 人ごみの中に
そを聴きにゆく
啄木の世界に触れると、
この歌を思い出すことができそうだ。
daidai
思い出の街を訪ねて/萩原朔太郎
空っ風、赤城おろしの街。
前橋は、萩原朔太郎の故郷だ。
市内を流れる広瀬川のそばに、
萩原朔太郎記念 前橋文学館が建っている。
帰郷という詩の中に、彼の思いが蘇る。
わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(かえん)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
故郷に向かうと、
人は誰でもロマンチストになる。
ドメーヌ・ピータン
思い出の街を訪ねて/島崎藤村
岐阜は、木曽路の馬籠宿(まごめじゅく)。
ここに島崎藤村の記念館がある。
馬籠は藤村の生まれ故郷で、
9歳のときに離れてから戻ることはなかったが、
そこには今でも彼の言葉が飾られている。
血につながるふるさと
心につながるふるさと
言葉につながるふるさと
故郷への思いは、なによりも深く、いとおしい。
思い出の街を訪ねて/坂口安吾
海の向こうに佐渡島を望む
新潟、寄居浜(よりいはま)の丘には、
坂口安吾の石碑が、波の音と一緒に佇んでいる。
ふるさとは
語ることなし 安吾
そして日本有数の豪雪地帯として知られる旧松之山町(まつのやままち)、
現在の十日町市は、安吾の第二の故郷。
彼が馴染み通った家は、大棟山(だいとうざん)美術博物館になっている。
その傍らにも、石碑がひとつ。
夏が来て
あのうらうらと浮く綿のような雲を見ると
山岳へ浸らずにはいられない
これは、小説「黒谷村」の一節。
安吾は新潟の海と山を愛した。
ふるさとは語ることなし
彼が言ったその言葉の意味を、確かめに行きませんか。
写真は熊本県天草市牛深町の海産物です。
映画の撮影で1ヶ月ほど牛深に住んでいた西尾まりちゃんの写真です。
キダコはウツボだと思うわけです。
マントはたぶんたぶんエイですね。形で判断しましたが。
カラスミ、うまかったです。
まりちゃんが送ってくれて、食っちまいました。
五島も牛深も地図で見るとめちゃくちゃ遠いわけでもなく
ご近所っぽいです。エイを売っているのかしら。
ウツボを食する人がいるのかしら。
知りたいです(玉子)
Copyright ©2009 Vision All Rights Reserved.