ものすごくおいしい身を、ものすごくかたい殻で覆っている、
っていうのは、どういうつもりなのか。
うまい→みんなに狙われる→殻を進化させて守る
という進化の歴史を想像するけど、
そもそもそんなにおいしくならなきゃよかったんじゃないか、と思ってしまう。
エビには理不尽なうまさがあるね。
2012 年 5 月 のアーカイブ
五島のはなし(178)
むりやり膝に乗る
ひとたび膝に乗りたいと決心すると猫はしつこい。
たとえその膝の上に飼い主の腕があろうと本が載っていようと
むりやり自分を小さく折りたたんでのっかってしまう。
片手を乗せる。
次に上半身を乗せる。
後ろ足は床で突っぱらかっているくせに
上半身は無理にリラックスしている。
隙をみて下半身もじわじわと乗せてくる。
ついに成功、しかし狭い。
すると、猫は自分を小さく折りたたむ。
とぐろを巻いたように丸く折りたたんで
ごろごろと喉を鳴らす。
おいっ、本当にその姿勢がうれしいのか…と
ときどき不思議に思うことがある(玉子)
名雪祐平 12年5月27日放送
最期にこう言った 大宅壮一
テレビばかり見て、
自分の考えをなくしていく国民たち。
それを男は、「一億総白痴化」と指摘した。
地方の個性のない国立大学が
むやみに増えていく。
それを男は、「駅弁大学」と風刺した。
歳を重ねれば生き方が顔に表れる。
それを男は、「男の顔は履歴書である」と書いた。
男は、社会評論家、大宅壮一
世の中を斬る新語をつぎつぎに生み、
毒舌でならした大宅が死ぬ直前、
妻に最期にこう言った。
おい、だっこ。
最期にこう言った マーク・トウェイン
『トム・ソーヤの冒険』が有名な
アメリカの作家、マーク・トウェイン
死ぬ1年前に彼は、
私は1835年ハレー彗星とともに地球にやってきた。
来年はまた彗星が近づく。
私は彗星と一緒に去っていくだろう。
と周囲に語っていた。
はたして来年が来た。
ハレー彗星が75年ぶりにやってきた日の翌日、
彼は突如狭心症の発作を起こし、絶命した。
最期に、こう言った。
じゃあまた、
いずれあの世で会えるんだから。
最期にこう言った 一休
室町時代の禅僧、一休さんこと、
一休宗純は自由を貫いた。
禁じられていた
酒を呑み、
肉を食べ、
女と寝た。
戒律、形式に縛られない人間的な禅。
権威を否定し、悟りさえも否定し、
生涯をほぼ定住することなく、
各地を巡り、相手の身分の差別なく平等に
布教していった。
そんな一休に民衆は共感し、
生き仏とあがめられた。
応仁の乱後、
天皇の勅命により京都大徳寺に落ち着くまで
80歳まで全国を歩いた。
87歳、高熱が襲う。
ぎやく、といわれたマラリアにかかり、
とうとう臨終の時。
座ったままの姿で、眠るように死ぬ際、
一休は人間臭く、最期にこう言った。
死にとうない。
最期にこう言った 葛飾北斎
生涯に発表した作品数 3万点以上
弟子・孫弟子の数 200人
絵師の名前を改号すること 30回
引っ越しすること 90回
葛飾北斎の熱量は異常である。
熱しられた意志が絵となり、世界に伝わり、
北斎はゴッホやドガ、マネ、セザンヌが
こぞって憧れる存在となった。
向上心に燃える執念は、
自己評価の厳しさになった。
希代の絵師は88歳の時、
死の床で、まだまだまだまだという思いで、
最期にこう言った。
あと10年生きられたら
本当の絵師になれるのに。
いや5年でいい。
最期にこう言った 樋口一葉
五千円札の中に、若い女がいる。
貧困のまま生涯を終えた樋口一葉である。
お金がない自分が、
お金になっている。
なんて、思いもしなかったろう。
晩年というには早すぎる22歳~23歳にかけて、
『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』といった
優れた作品群を発表、絶賛された。
その期間は「奇跡の14カ月」と呼ばれる。
一葉は近代文学史における奇跡だったのだ。
そこにはお金にかえられない意味を持つ、命があった。
いったい一葉は何になっていただろう。
どこまで大きくなれただろう。
しかし、絶望的に、結核が一葉を襲う。
24歳の11月、見舞いに来た恩師が
冬休みにまた上京しますから、
そのときまた参りましょう。
と言うと、
一葉は苦しそうな声で切れ切れに、こう言った。
その時分には、私は何になっていましょう。
石にでもなっていましょうか。
最期にこう言った ヴィクトル・ユゴー
フランスの詩人であり、
小説『レ・ミゼラブル』で有名な
ヴィクトル・ユゴー
80歳で亡くなる時の様子は
こう伝えられている。
ベッドで横たわるユゴーが
付添人に訊ねる。
きみ、死ぬのはつらいね。
死んだりなさるものですか。
いや、死ぬね。
そして、しばらくすると
ここで夜と昼が戦っている。
と、つぶやいた。
200年後の今日まで
燦然と光り輝いている作品を書いた一人の老人は、
一行の詩のように、最期にこう言った。
黒い光が見える。
最期にこう言った 徳川夢声
徳川夢声は、元祖マルチタレントである。
大正時代、無声映画の弁士として人気者となった。
40歳で妻を亡くしたが、
縁あって親友の未亡人となっていた女性と
おたがい再婚。
戦後も漫談家、俳優として
舞台、映画、ラジオ、テレビなどジャンルを
軽くとびこえて活躍した。
77歳で、病に倒れた時。
妻に爪を切ってもらうと、夢声がその手をじっと眺めた。
妻は、病人が自分の手を見つめるようになると
死が間近という話を思い出し、
疲れますよ、と、夢声の手を下ろさせた。
その3日後、夢声は亡くなった。
妻に、最期にこう言った。
おい、いい夫婦だったなあ。
最期にこう言った 小津安二郎
映画監督、小津安二郎。
12月12日生まれ。
12月12日死去。
還暦60歳の誕生日が命日となった。
鎌倉の円覚寺の墓にはただ一字
「無」と刻まれている。
がんセンターに入院し、
手術後、一度退院したが、
亡くなる2カ月前に再入院。
何も悪いことをした覚えはないのに、
どうしてこんな病気にかかったんだろう。
ともらしたという。
突然ともいえる自分の死に、
どこまで「無」と意識できたのだろうか。
最期にこう言った。
右足がどっかに行っちゃったのかね。
ベッドの下に落っこちているんじゃないかね。
五島のはなし(177)
五島列島、福江島。
ぼくがそこの出身だと言うと、たいていの人は、
島を一周するのに歩いて30分みたいな想像をするのだけど、実際はまあまあデカイです。
島の北側と南側では植生や景色がまあまあ違います。そのくらいのデカさ。
島の南側には、富江という町があります。
ここに只狩山(ただかりやま)というまあまあ小高い山があり、その中腹に展望所があります。
島の南側をぐるっと一望できる展望所で、最近はじめていったのですが、ここはおすすめです。
景色もいいけど、展望所の前にぶっさしてある立て札。
「苦と愛と真友達との出会い」
意味はよくわかりませんが好きです。
いっそもう五島のキャッチフレーズにしたらいいのに、とさえ思います。
「苦と愛と真友達との出会い・・・五島列島」
心がやすらぐ島、とか、ロマンあふれる島、とかウソっぽいじゃないですか。でもこのキャッチフレーズはリアルだ。
しかも、いろいろ想像してみるに、五島に来たらほんとに出会える気がします。
苦と愛と真友達に。
だからあなたもぜひ来てみませんか?
・・・なに?苦はいらない?そんな甘っちょろい気持ちじゃ、五島は楽しめないぞっ!
展望所からの眺めはこんな感じです。
富江町の観光案内です。
こんな感じです。
藤本宗将 12年5月26日放送
ロベール・ウーダン 1
近代マジックの父と呼ばれる、ロベール・ウーダン。
彼はもともと腕のいい時計職人だった。
ウーダンのつくった機械仕掛けの人形は、
1844年のパリ産業博覧会で入賞も果たした。
産業革命の波が押し寄せた時代。
才能ある技術者には、
華々しい活躍が約束されていたはずだ。
しかしウーダンは、
40歳でマジシャンに転身する。
彼はきっと、こう思っていたのだろう。
「ただ、世の中をびっくりさせたかった。それだけさ」
そういえば、スティーブ・ジョブズも
iPadを「magical device」と呼んでいた。
テクノロジーは、いつだってマジックに憧れる。
ロベール・ウーダン 2
燕尾服にシルクハット。
マジシャンとしてはじめてこの服装を取り入れたのが、
近代マジックの父、ロベール・ウーダン。
彼はあやしげな衣装ではなく正装に身を包み、
舞台の照明を明るくして
それまでの黒魔術的なイメージを払拭した。
マジックを、純粋なエンターテイメントへと進化させたのだ。
この革新的なスタイルはたちまち世界中に広がり、
今まではマジシャンの代名詞となった。
ウーダンは、こんな言葉を残した。
「マジシャンは、魔法使いの役を演じる役者である」
役者としてのウーダンはもういないが、
彼の演出はいまも生き続けている。
ロベール・ウーダン 3
近代マジックを確立したロベール・ウーダン。
もともと時計職人だったウーダンは、
その経歴を活かしたトリックを得意としていた。
たとえば、「パレ・ロワイヤルの菓子職人」というマジック。
人形に向かって注文をすると
いったん店の中に入り、
そのお菓子を取って戻ってくる。
19世紀の人々はその精巧な動きに驚いただろうが、
カラクリはきわめて単純。
ウーダンの息子が、中に隠れて操作していたのだ。
高名な技術者でもあるウーダンが、
まさかそんな子供だましをするとは誰も思わない。
トリックは、いつも観客の心の中に仕掛けられている。
チャン・リン・スー
マジックの歴史上最も有名な死亡事故は、
1918年3月23日、ロンドンで起こった。
犠牲となったマジシャンの名は、チャン・リン・スー。
きらびやかな中国服に、長く垂らした弁髪。派手なメイク。
彼の異国情緒あふれるショーは、その日も盛況だった。
しかし悲劇は突然訪れる。
弾丸を受け止めるマジックで、銃が暴発。
銃声とともに倒れるスー。
事情を知らない観客は拍手喝采。
それがそのまま、彼の人生の幕引きになった。
だが、本当の結末はそのあとに待っていた。
運び込まれた病院で、スーが白人であることが発覚したのだ。
本名はウィリアム・ロビンソン。
いつも通訳をそばに置き、
中国人として生活していた彼のことを
誰も白人とは思わなかった。
彼の中にあったのは、
人生をかけて騙そうという覚悟だったのか。
それとも、
自分なら騙し通せるという自信だったのか。
ハリー・フーディーニ 1
死後80年以上たった今もなお
アメリカで最も有名なマジシャンと言われる
ハリー・フーディーニ。
彼が活躍した時代には、
まだスピリチュアリズムが信じられていた。
あるときフーディーニは
亡くなった母親と話したいと願い、
霊媒師のもとを訪ね歩いた。
しかし、どの霊媒師もインチキばかり。
裏切られた彼の思いは、怒りに変わる。
マジシャンとしての鋭い観察眼で
霊媒師たちのトリックをあばき、
生涯をかけて彼らを否定し続けた。
ところが死の直前、
フーディーニが妻に言い残したのは
意外にもこんな言葉だった。
「死後の世界があったなら、必ず連絡するよ」
ハリー・フーディーニ 2
数々の脱出マジックで名を馳せた、
ハリー・フーディーニ。
「脱出王」と呼ばれた天才マジシャンにも、
逃れられない運命がある。
彼の死は、1926年10月31日のこと。
フーディーニは不死身だと信じた客に
不意打ちで腹を殴られ、
急性虫垂炎を起こしたのだ。
葬儀の日、参列者のひとりはこう言った。
「賭けてもいいが、彼はこの棺の中にもういない」
マジックは、人を信じる力でできている。
ジャスパー・マスケリン
第二次世界大戦中、ひとりの男がイギリス軍に志願した。
自分の持つ技術によって、ドイツ軍を打倒できると信じて。
男はジャスパー・マスケリン。職業、マジシャン。
西アフリカ戦線に配属されたマスケリンは、
マジックを応用したカモフラージュの専門部隊を組織する。
集められたのは画家、大工、電気技師など14名。
通称「マジックギャング」。
戦争は、騙し合いだ。
マスケリンたちは
偽の戦車部隊を自在に出現させ、敵を撹乱した。
偽の建物や灯台で港をつくり、
敵の爆撃機を惑わせたこともあった。
彼らのマジックは、ドイツ軍を翻弄し続けた。
しかし終戦となったのちも、
その功績が公式に認められることはなかった。
マスケリンは酒に溺れ、失意のうちに死んだという。
戦争は、騙し合いだ。
プロのマジシャンさえ欺かれるほどの。
そこには勝者など、いなかった。
茂木彩海 12年5月20日放送
B.B
植物のはなし カレル・チャペック
4月に生まれた私の母は、50歳の誕生日を迎えたその日に、
突然ガーデニングに目覚めた。
真っ白な植木鉢に
真っ黒な腐葉土。
そこにお気に入りのピンクの花の苗を
大事そうに植えるその姿を見て、
ああ、そろそろ春だな、と娘は思う。
趣味が園芸だった劇作家、カレル・チャペックに言わせると、
「4月はこれこそ本格的な、恵まれた園芸家の月」であり、
「とにかく、自身でふかふかした土を指でほじくってみるといい」らしい。
母はきっと、その魅力を知ってしまったのだろう。
jiroh
植物のはなし 塚本こなみ
はじめて診察したのは、700歳の松の木だった。
日本ではじめて、木のお医者さんになった女性。塚本こなみ。
造園家の夫を支えるかたわらで、
男性が多い現場を不思議に思い、
女性の目で植物と向き合うべく15日間の長い試験の末に、
樹木医となった。
そんな塚本は、
「人間が植物を守ろうとか、おこがましいことを言わないでほしい」
と、語る。
自然を守ろう。その言葉が使われれば使われるほど、
私たちは木に守られている、という事実が薄れていく。
もの言わぬ樹木が相手だからこそ、その無言の声を受け止める。
その言葉のない会話こそが、樹木医の原点なのかもしれない。
小野麻利江 12年5月20日放送
Jude Doyland
植物のはなし 狐野扶実子 春のニンジンのスープ
切れない包丁で皮をむしりとったように切っては、
ニンジンが、かわいそう。
出張料理人として世界の要人たちをうならせ、
<フォション>のエグゼクティブシェフを
つとめたこともある料理人・狐野扶実子。
人間にとって心地のいい料理をつくるためには、
食材も心地よくいられるよう
やさしく扱わなくてはいけない。
それが彼女の、料理のやり方。
少しだけミルクの香りがする、春の赤ちゃんニンジン。
その皮をそっとむいて、
玉ねぎの薄切りといっしょに、大切に大切に、火を通す。
沸騰させると味が抜けてしまうから、
その直前くらいの、火加減で。
ニンジンがやわらかくなったら、
バターを加えて、煮汁ごとミキサーへ。
仕上げとしてスープの上に、
バニラの香りをうつしたオリーブオイルを、たらり。
彼女がつくる春のニンジンのスープは、
食べる人間と、食べられるニンジンのことが
同じくらい大切に、想われている。
うちのポチ
植物のはなし 高橋順子 よもぎの葉をつむ時間
よもぎの葉の裏は白い
詩人の高橋順子は子どものころ、
よもぎの葉をつみにいくたびに
くりかえしくりかえし、祖母にそう言われた。
よもぎの葉の裏は白い
そう教えてくれた祖母も、今はもう亡く。
子どもの時間が二度とこないことを
高橋は、ひとりの野原で感じとり、こううたう。
もう間違えることができない
よもぎの葉は白い裏
熊埜御堂由香 12年5月20日放送
さんたす
植物の話 大江健三郎の生まれた森
なぜ学校に行かなければならないのだろう。
そう思い、10歳の少年は学校の裏門を抜け森へ入って
毎日を過ごしていた。
ノーベル賞作家大江健三郎は愛媛県の森林の村で生まれた。
大江が不登校になった年。日本は戦争に負けた。
世の矛盾を敏感な少年は感じていた。
森の中で樹木の性質を学べばひとりで生きていける。
林業を営む父の姿をみてそう考えた。
しかしある日、
森で強い雨に打たれ生死の境をさ迷う。
僕はもう死ぬの?うなされ尋ねると
母親がこう答えた。
私がもういちど産んであげるから、大丈夫。
わけがわからないと思いながらも
静かな心になった少年はこんこんと眠り
回復したら自然と学校に通いはじめた。
それ以来こう思うようになった。
今生きている自分は母にもういちど産んでもらった
新しい子供なのではないか?
少年は森で、もういちど生まれた。
そして森をでて社会の中で生きはじめたのだ。
石橋涼子 12年5月20日放送
植物のはなし 牧野富太郎の情熱
最終学歴、小学校中退。
独学で研究を続け、
植物学の父と呼ばれるまでになった牧野富太郎。
東京帝国大学の講師になっても、
理学博士号を授かっても、
野山をかけずり回って標本採集をするのが趣味だった。
どんなに貧しくても、珍しい植物を求めては旅に出た。
借金取りが押しかけて来ても、平然と植物の標本をつくっていた。
95歳で亡くなるまで少年でありつづけた植物博士の残した言葉。
草をしとねに 木の根をまくら 花に恋して90年
植物のはなし 牧野富太郎の感謝
植物博士、牧野富太郎の名付けは明快だ。
どこにでも生える図太い植物だから、ワルナスビ。
むじなの尻尾に似ているから、ムジナモ。
わかりやすさこそが、学問に必要なこと。
ただ一度だけ、例外がある。
貧しい生活を支え続けてくれた妻が亡くなったとき、
発見した笹にこの名を付けずにはいられなかった。
命名、スエコザサ。
薄景子 12年5月20日放送
Jaanus Kalju
植物のはなし 斉藤吉一
花に逆らわず、花に従わず、花のするように生きる。
庭師であり、作家である
斉藤吉一(よしかず)はそう語る。
植物も生きているのだから、思いどおりには育たない。
だからこそ、肩の力を抜いてガーデニングを楽しもう。
そんなメッセージをこめた著書、
「ものぐさガーデニングのススメ」は、
園芸書を超えた“人生の書”としてベストセラーになる。
しかし出版後、書いた本人が、
肩の力の抜き方がわからなくなってしまう。
自分自身を見失い、やがて廃業寸前に。
歳月をかけて立ち直った庭師は、
木について、こう語る。
今ある姿が、その木らしさ。
経験と傷こそが個性です。